アクィリフェルの言ったとおりだった。三日後の午後、白く輝く丘が姿を現す。あるいは存在を知っていれば、もっと早くに見つけられたのかもしれない、とアウデンティースは思う。それほどほんのりと小さな丘だった。
 それが間違いだと知ったのは、陽が更に西に傾きはじめてから。近づくにつれて知るその威容。決して大きな、山と言いうるようなものではない。けれど丘とは呼べはしない。
「強いて言えば小ぶりの山、か?」
 馬上で首をかしげるアウデンティースにアクィリフェルもまたうなずく。
「僕もはじめて見ますけどね、すごいものだと思いませんか?」
「と言うと?」
「だって、あそこにドラゴンが住んでるんですよ?」
「つまり、なんだ? あれはドラゴンの巣、と考えればいいのか?」
「ここは礼儀正しく住居、と言うべきでしょうね」
 もっともらしく言うアクィリフェルにアウデンティースは言葉を失くす。あれほどの、小振りとはいえ山を巣として住む生き物とは。
 アウデンティースとて、竜を見たことがないわけではない。だがそれは空高く遠くを舞う竜であって、近々と目の当たりにしたことなどあるはずがない。
「アケル」
「なんです?」
「念のために聞くが――」
「その先はわかってますから。僕も実際に会って喋るのは初めてですよ」
「ちょっと待て!」
 声を荒らげる王にアクィリフェルは少しばかり嫌な顔をして見せ、けれど目許は笑っていた。首をかしげれば結んだ髪が風に流れる。
「ドラゴンは、会話をするのか! 人間と!」
「しますよ? 僕は喋ったことないですけど、父は会ったことあるそうですから」
「……チェーロ殿に話を聞いておくんだったよ」
 がっくりと肩を落としたアウデンティースの背中をアクィリフェルは馬の上から器用に叩く。からかっているようでもあり、励ましているようでもあった。
「まぁ、今更ですしね。考えて仕方ないことはしょうがないです。行きますよ」
「アケル。お前は聞いてないのか?」
 ゆっくりと歩いていた馬の足を速めるアクィリフェルに慌てて倣って王は問いかける。その問いを無視するような素振りに答えの見当がついた。
「つまりお前も聞いてこなかった、と言うわけだな」
 呟き声も無視された。アウデンティースはにやりと笑ってアクィリフェルの隣を駆ける。夕暮れ間近の風が旅の埃にまみれた肌に心地良い。思い切り息を吸い込めば、草の匂いと自分の臭いがした。
「さすがに風呂が欲しいな」
「贅沢ですね」
「自分で自分が汗臭いぞ」
「僕は好き――なんでもないですから!」
 目を見開いた王が驚く。次いで破顔する。アクィリフェルは何も見なかったような顔をして前だけを見ていた。けれどその頬どころか耳までが赤く血の色を透かせていた。
 刻一刻と竜の住処が近づいてくる。ヌベスカステルム、とアクィリフェルは言った。雲の城、と表現される言葉の意味を王が知るのはもう少し後のことだった。
「これは――!」
 目の前に純白の城が聳え立っていた。正に薄い雲を積み重ねて作り上げたかのような城。空を映して青く輝く。
「見てください、ほら」
 あまりの美しさにだろうか、声を潜めて言うアクィリフェルの指すものを見やれば、再度言葉を失う。積み重なった雲の一枚、一枚が皿だった。あえて言えば皿だ、と言うだけでその巨大さは言うべくもない。その浅い窪みに薄く水が張っていた。
「水が、空を映す……」
 白い城が青く見える。雲さえ映る混じりけのない水と白い皿。酷く幻想的なのに奇妙なほどに現実だった。
 水の張った皿の上に、また水の張った皿が重なる。何度も、何度も、そして頂上まで。水はそこから湧いているのだろうか、絶え間なく流れた水が山の麓で聖地の草原に染みこみ、流れとはならずに大地を潤す。不思議だった。
 言葉もなくヌベスカステルムを見つめる二人の光が遮られた。はっとして顔を上げる。風切音すらなく、頭上に竜が舞っていた。
「ラウルス!」
 彼もまた同じものを見ているだろうとはわかっていても、呼ばずにはいられなかった。恐ろしい。恐ろしくない。美しい、醜悪。いずれともわからない。ただただ心を打つ。
 竜が住処に舞い降りる。あたかもそれは自らの城に帰還した王。一瞬アウデンティースの表情が翳りをみせた。
 巣篭もりをするかのよう、竜は居城にすっくと立つ。こここそが自らの場所だと宣言するように。その巨体、その優雅なまでに長い首、鋭い爪、力強い翼。頭上に王冠のごとくそそり立つ棘。
 そんなものは見えているのに、竜がわからない。わかると思うこそが驕りだ、とアクィリフェルは悟る。ゆっくりと息を吸い、はじめて竜が空色だと知る。
「ヌベスカステルムの主よ!」
 声が届くのだろうか。不安を覚えたアウデンティースはそう思った自分を否定する。
 聞こえないはずがない。もしも己がここから呼んだとしたなら、声は届かないだろう。けれど呼び声は世界を歌う導き手の声。アウデンティースの思いを読み取ったかのよう、竜がゆるりと首を向けた。
「何用だね、小さいの」
 竜の出現に落ち着きを失くしている馬の背にアウデンティースはうつ伏せそうになった。竜の声はあまりにも驚きがない。
「のんびりしすぎじゃないのか?」
 小声でぼやけば、それが不思議と聞こえてしまったのだろう。竜がじろりと王を見た。聞こえないものとばかり思っていた彼はそれでも慌てず背筋を伸ばす。
「失礼。僕は禁断の山の狩人、アクィリフェル。ヌベスカステルムの主にご相談があってきた」
 空色の竜に見つめれ、アクィリフェルは飲み込まれそうな気がした。何にかはわからない。世界の悲鳴をはじめて聞いたときの気持ちに近かった。
 気づけばアウデンティースに手を伸ばしていた。空色に染まった視界が、彼を捉えられない。けれど手の温もりがあった。しっかりと、離すまいと握ってくれているアウデンティースの手。それがアクィリフェルを繋ぎとめる。
「ほう?」
 空色が晴れていく。面白がるような声音と共に、アクィリフェルは目を取り戻した。ほっと息をついて竜の目が自分を飲み込んでいた空色そのものだと気づく。
「アケル。大丈夫か」
「なんとか。ちょっと正気を保つのに苦労しそうですけどね」
「おい、アケル」
 普段通り平静な声に不安が潜む。そのことに心温まるものを覚え、アクィリフェルは完全に自らを取り戻した。
「ヌベスカステルムの主よ」
「なにかね、小さなアケル」
「……そう呼んでいいのはこの男だけです。ご遠慮願いたい」
「そうかね? 小さなアケル?」
「なるほど。それであなたはなんと仰るんです? ヌベスカステルムの主殿、とお呼びしていればいいんですか」
「なんのなんの。ヘルムカヤールと呼んでもらいたい。どうだね、小さなアケル。いい名だろう!」
「えぇ、とってもいい名前ですね、ヘルム」
「ヘルムカヤールだ!」
「もう一度言いましょうね。僕の名前はアクィリフェルです」
 にっこりと笑った。その笑顔にアウデンティースは空恐ろしいものを見た気がした。よくぞ竜相手に一歩も引かないでいられるものだ、と感嘆する。むしろどこかがおかしいのではないかと疑う。
「それでもお前が――」
 愛しい。言いかけた言葉はアクィリフェルの視線に遮られた。目つき一つで王を黙らせ、アクィリフェルは笑顔で竜を見つめなおす。
「……禁断の山の狩人、アクィリフェルだな。よし、覚えたぞ。まぁ、なんだ。親愛の情とでも思ってもらえればよい。我とお前はもうこれでわかりあったな? うん?」
「そう願いたいですね、ヘルムカヤール」
 きちんと名を呼んだアクィリフェルに喜んだのだろうか。竜のヘルムカヤールはゆったりと羽ばたいた。浅い皿にたまった水が細波を立て、空が揺らめく。
「で、そっちのちっこいのはなんだ?」
 アクィリフェルとはわかりあったと言いつつ、同行の人間はまだ気になるらしい。名乗ってもいないのだから当然だ、と王は軽く頭を下げる。
「アルハイド国王、アウデンティース」
 言葉を切った途端、アクィリフェルの視線が続きを促した。はたと気づいて王は言いなおす。
「アウデンティース・ラウルス・ソル・アルハイド」
 それでよかったのだろう、アクィリフェルがほっと息をつきうなずいた。が、どうやら早計だったらしい。ヘルムカヤールが長い首をひねっている。
「アルハイドコクオウアウデンティースラウルスソルアルハイドとはずいぶん長い名だな。切ってもいいか?」
 思わず顔を見合わせる人間二人の前で竜はああでもないこうでもないと切る場所を探している。慌ててアクィリフェルが声を上げた。
「アウデンティース。そこが名前ですから!」
「なんだ。それならばそうと早く言うがよい。長い名だと思ったわ」
「失礼、ヘルムカヤール」
 今度名を呼んだのはわざとだろう。途端に機嫌をよくした竜が再び優雅に羽ばたく。前に翼をはためかせる。それには空が映っていた。背に羽ばたく。内側には水が映っていた。空であり、水であり、どちらでもない竜のその美しさ。溜息さえつけずただ見惚れた。
「我が家にご招待、と行きたいがな、小さなアクィリフェルにちっこいアウデンティース。人間がきて気持ちのいい場所ではないらしいぞ。前に、あれはなんと言ったかな。あぁ、そうだ。お前と同じだ小さいの。うぅん、確か、そうだ! チェーロとか言ったな、狩人と言っておったわ。その人間が、せっかく招待してやったと言うに苦情を言っておったわ!」
 ばさりと突風が吹く。竜が羽ばたきを強めたらしい。が、笑っているのだろうとアクィリフェルは見当をつける。強烈な風と共に聞こえてくる唸り声は恐ろしいものだったけれど、そんなものは一向に気にならなかった。
「さすがお前の父君、と言うべきだろうな!」
「そんなところに感心しないでください!」
 怒鳴りあって気の抜けたアクィリフェルはついに馬の背に伏せて体中の息を吐きつくすほど長い溜息をついた。




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