誰もいない、それどころか動物の姿すら稀な聖域の中をもう数日は駆けている。長い草が豊かに茂るだけの場所のせいで方向感覚が狂いそうだった。
「アケル」
「なんですか」
「方向、あってるんだろうな?」
 言えば馬上からさも嫌そうな顔をして睨まれた。アウデンティースは肩をすくめて遠くを見晴るかす。やはり、自分がどこにいるのかもわからない。そもそも目標物がない。遠方に見えている山は遠すぎて少しも近くなったようには見えないから役に立たなかった。
「お前、場所は知ってるんだろうな?」
 よもや、と思ったが竜の住処の具体的な場所を知らない、と言うことも考えられなくはない。アクィリフェルが長い溜息をついた。ちょうど馬を休ませる頃合だったのだろう、足を緩める。
「ヌベスカステルムまではあと三日、と言うところでしょうね」
「……何?」
 聞きなれない言葉が地名だということだけはかろうじて見当がつく。もっとも、それが何を意味するかまではアウデンティースにもわからなかった。
「ヌベスカステルム。竜の住処ですよ。真っ白な雲でできたお城のようなところです。これは伝聞ですけどね、僕は行ったことがないから」
「おい!」
「僕ら狩人は、要するにそこをよく知っている、と言うことですよ、陛下」
 茶化すというよりは皮肉に言ってアクィリフェルは唇の端で笑った。悪意ではないと知っているからこそアウデンティースも不快には思わずにすんでいる。
「だが」
「騎士殿たちがいる前でこれを言えますか? 僕らは聖域の中に入らないことになってるんです。建前ではなく、本当によほどの用がない限り入りませんけどね。でも、外の人には僕らが聖域の中を知悉しているとは知ってほしくないんです」
 アクィリフェルの声が真摯なものになった。緩やかに進ませる馬の上から、じっと見つめてくる目に逆らえようはずがない。そのつもりもなかった。
「わかった。他言無用、と言うことだな」
「できれば」
「もっと居丈高に要請してもかまわんぞ」
「どうしてそういうことを言うんです、あなたって人は!」
 かっとして手綱を操りそこなったのだろう。驚いた馬が跳ねる。それを慌ててなだめながらもアクィリフェルは怒りに頬を染めていた。
「お前は本来俺にも言うべきではなかった。違うか? 言ってはいけないことだった、のほうが正しいだろうが」
「そんなことは……ないですから」
「なるほどな」
「ラウルス!」
 にやつく王にアクィリフェルは一瞥をくれ、前を見つめることに集中する。アウデンティースが気づいていない目印がここにはいくらでもあった。
「そう言えば、お前のご両親に挨拶をするべきだった。ドラゴンのところから戻ったらそうさせてもらうかな」
 突然なにを言い出すのか、と呆れた目をしたアクィリフェルにアウデンティースはにやりと笑って見せる。かすかに彼の目の中に浮かぶ不安に心が躍る。
 つまり、とアウデンティースは思う。自分はこういう人間なのだ、と。忘れて欲しくないから、あのように酷く扱った。それも一面の真実ではある。
 だが、不安に翳るアクィリフェルの表情やおののく様、そんなものに高揚するのもまた事実。
「愛してるよ、アケル」
 ふっと翳りが消えて頬が染まる。怒りのそれではなく、薔薇色に。よく言えば、それが見たいがために意地悪を言うのかもしれなかった。
「……なにを、急に。脈絡もなく」
「いや。別に脈絡がなくはないぞ?」
「だって、僕の両親がどうのって言ってたじゃないですか!」
「だからそれだ」
「どれなんですか! もう!」
 憤然と、と言うにはいささか愛らしい素振りでアクィリフェルはそっぽを向く。我がことながら惚れた弱みで目が曇りすぎだ、と自覚する程度の理性はアウデンティースにも残っていた。
「ご両親に挨拶をするもんだろうが。お嬢さんをください……いや、この場合はご子息をいただきたい、か?」
 振り返ったアクィリフェルが見たのは、自分の冗談ににやつきながら、それでも目だけは真剣なアウデンティースだった。
「戯言ですね」
「どこがだ? 俺は真面目に言ってるぞ」
「国王陛下の寵童に召すって国王本人が一介の庶民の夫婦に告げるんですか? 馬鹿馬鹿しい。だいたい、僕には務めが――」
「別に馬鹿馬鹿しくもないがな。礼儀の範疇だろうが、立派な。相手が庶民だろうが貴族だろうが、愛しい人を迎えたい、その了解を得たいと思うののどこが間違ってる。それに、あれだ。別に俺はお前を城に閉じ込めようなんぞ、さらさら思ってないからな。お前が会いに来てくれればいい。会いたいときに、来てくれればいい。それで、充分だ」
「馬鹿な――」
「どこがだ!」
 アウデンティースの怒号に馬が驚いて立ち止まった。なんだか一日一度はこのような形で足止めを食らっている気がしてならない。アクィリフェルは空を見上げ、夕暮れも間近なのを確かめて馬から降りた。
「夜営の準備をしますよ。手伝ってください」
「アケル!」
 馬から降りることもしないで怒るというよりはやるせない表情を浮かべている王に手を伸ばす。手をとったまま、王は動かなかった。
「僕が馬鹿なことだと言ったのが不満ですか、ラウルス」
「不満に思わないほうがおかしいだろうが。アケル、なんで溜息つくんだ」
「あなたが本当にどうかしてしまったのかと疑ってるところですから。いいから、ちょっと降りてください。後で話しますから。夜営の準備が遅れたら大変なことになるのは、わかっているでしょう」
 すでに言い争いをしていて焚き火の準備すらできなかった、と言うのは二日目に経験済みだ。アウデンティースは渋々と馬から降り、狩人の集落が用意してくれた道具で土を掘る。その間にどこから集めてくるのか、アクィリフェルは枯れた小枝を用意した。
「火、頼みますから」
 言い置いてアクィリフェルは水を探しに行く。聖地の中には川こそ流れていなかったが、いたるところに水源がある。湧き出ている場所さえ見つけてしまえば容易に水は手に入った。
 アクィリフェルが留守の間にアウデンティースは掘った穴の中に枯れ枝を入れる。そうしておいて火口箱の道具で巧みに火をつける。穴を掘るのは草原の枯れ草に燃え移らないようにするための用心だった。
 程なく戻ってきたアクィリフェルが荷物をあさって器用に料理をする。他愛ない、軍の野営食と大差ない代物だがそれでもアウデンティースには美味に感じる。
「アケル」
 食後の茶を飲みながら、使い終わった鍋を草できれいに拭っていたアクィリフェルに声をかければ促されたのに気づいたのだろう。
「もう一杯、いかがですか」
 のんびりと茶を勧められた。狩人の集落で好まれている茶だそうで、集落の周辺に生える香草を乾かして作るらしい。アウデンティースは気に入って喜んで飲んでいる。普段ならば。今夜は黙って首を振った。
「続き、ですか。別にいいですけどね。自分が馬鹿だって理解するだけですよ、きっと」
「いいから、話せ、アケル」
 言葉を区切って言うときは、アウデンティースの怒りが激しいとき。短い付き合いであるはずなのに、そんなことがわかるようになっている自分が嬉しくてアクィリフェルは微笑む。それも誤解されたが気にならなかった。
「あなたは僕を城に閉じ込める気はないと言った。そうでしたよね?」
「言ったが悪いか。俺は本心から――」
「いいからちゃんと最後まで聞いてくださいね。よく考えてください、ラウルス。あなたの背中にはなにがあるんですか、今は横にありますけどね」
 言われてアウデンティースははたと漆黒の剣を見つめる。瞬間に理解して顔色が変わった。
「やっとわかったんですか? 僕らは何かをしなければ死ねないらしいですよ?」
「だが!」
「ラウルス。あなたの寿命の間に、その何かが起きるなら。こんな呪いは必要ないんじゃないですか?」
「……そういう考え方もないわけではないな」
「言い訳がましいです。ですからね、アルハイド王国が、次代の王を戴くようになったら、一緒にいればいいんです。簡単なことでしょう? それともあなたは生きている限りずっと王冠にしがみつく気ですか」
「馬鹿なことを言うな! さっさと放り出したいとまでは言わんが、早く息子に一人前になってもらいたいのも事実だぞ。……俺は、お前と離れていたくはない。それだけだ。お前は違うのか、アケル」
 薄暗い焚き火の明かりに、アウデンティースの金の目が光った気がした。胸を貫かれるような痛み、しかし甘美だった。
「そう思いますか、ラウルス? 僕が違うことを考えていると?」
 アウデンティースの腕が無言で伸びてくる。胸の中に抱き取られ、アクィリフェルは満足の吐息をつく。
「だから、僕の父母のことはいいんですよ、ラウルス」
「よくない」
「だから!」
「よくないだろう? 俺が王位にある間、お前は何度も城に通ってくれるつもりなんだろう? 狩人の務めも果たしながら、通ってくれるんだろう、城を離れられない俺だから。その間、ご両親はどうするんだ? 務めと城通いで恋人の一人も作らない息子だって不安にさせるのか? よくない。断じてよくない。お前のご両親が望む息子の幸福ではないだろうがな。それでも、挨拶くらいはさせてくれ」
「……要するに、ですね。ラウルス? 僕の両親が思い余って僕には内緒で花嫁をつれてきたりしやしないか、とそういうことが不安なわけですか?」
「そんなことはないぞ?」
「思いっきり疑わしいじゃないですか、その口調! だいたい、僕に嘘は通じませんからね! あなたの声なら、なにがあったって聞き分けられるんですからね!」
「なら俺はいま何を言っている?」
「――そういうことは口に出して言ってもらったほうが嬉しいものです」
「愛してる。アケル」
「……えぇ」
 長い吐息がアクィリフェルの充足を知らせた。誰もいない、動物の影すらないこの聖地で、このまま二人、朽ちていきたい。アウデンティースは小さく笑って彼を抱く腕に力をこめた。




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