二人は聖域の中を馬で駆けていた。朝のうちに集落を発し、聖域の入り口についたときには狩人が二頭の馬を連れて待っていた。いったいどうやって山道を抜けて馬を連れてきたのかと訝る王にアクィリフェルは秘密だと笑う。 歩いて入ったときとは、まったく趣が違った。咲き乱れる花々も、すくすくと育つ長い草も変わらない。それなのにいっそう鮮やかに美しくアウデンティースの目には映る。 「嬉しそうですね」 走らせ続けでは馬がもたない。時折歩かせてやっては再び走らせる、その繰り返しの中、ふと思いついたようアクィリフェルはそう言った。 「まぁな」 アウデンティースの背で長い塊が揺れる。御使いより授けられたあの銀にも煌めく剣だった。鞘のないその剣は、今は毛布に包まれて王の背にある。 「マルモルの説教から逃れられてありがたい」 渋い顔をして呟く王の横顔に、アクィリフェルは思わず吹き出す。 昨夜はあれからなぜかケインが階下に追いやられてきた。それより先にアウデンティースは騎士に引き立てられるようにして二階に戻っている。 いささかそれが残念だ、と思わないわけではなかったのだが、それよりケインに悟られる不安のほうが先に立った。不安と言うよりは気恥ずかしさだろうか。 「一晩中ですか?」 王は側近の騎士に懇々と説教をされていたのか。どことなく笑いを誘う情景ではあるが、マルモルの性格を考えれば、騎士としての分を超えるのではないかと一大決心を要するものであったことは疑いない。 「限りなく朝まで、だな」 こちらはこちらで早朝に集落を発ったが、騎士たちとて同じこと。見送りをしてくれた直後に彼らは王都に駆けただろう。 アウデンティースの説得だった。自分たちは必ず竜に会って鞘を獲得して戻る。だからこそ、先に戻って宮廷に知らせをもたらして欲しい、と。アルハイドを救い得る宝物を王が手にしたのだと知らせて欲しいと。 騎士たちは最後まで王を待つ、と抵抗していたのだが、内心では業を煮やしていたのだろうアウデンティースに頭を下げられ、慌てて王の意を汲んだ。今頃彼らはどこを駆けているのだろう。ケインの無邪気な人懐こさ、マルモルの毅然とした強さをアクィリフェルは思う。 「ご愁傷様」 「他に言うことがあるだろうが!」 「……謝るなら、騎士殿にですよ。あなたにじゃない」 「アケル?」 手綱を引く手に力が入った。怪訝そうに振り返った馬の額を撫でてアクィリフェルは前を向いて歩かせ続ける。 「だって、僕のことでしょう? アルハイド国王ともあろうお方が、僕みたいな地位も名誉もない一介の狩人を寵童にするですって? とんでもないことじゃないですか」 言った途端だった。頬に熱を感じた。目を瞬いて隣を見れば、真剣な顔をしたアウデンティースが、自らの所業に驚いたのだろう、振り抜いた腕もそのままに固まっていた。 「殴ること、ないじゃないですか」 「……すまん」 「悪いのは、僕ですから」 「おい、アケル」 「だって!」 言葉の途中で顔に影が射す。咄嗟に体を縮めたアクィリフェルの肩に王の手があった。 「また殴られると思ったか? それほど酷い男か、俺は?」 「酷いのは、僕ですから」 「いい加減に人の話を聞け!」 きつく肩を掴まれれば、やはり痛かった。そのせいだ、とアクィリフェルは首を振る。視界を曇らせた涙は、そのせいだと。 「マルモルに説教されたのは、確かにお前のことだ」 「でしょう?」 「だから、人の話を、聞け、と言っているだろうが」 苦笑の気配に横目で窺う。盗むような目つきをアウデンティースは咎めなかった。それどころかなだめるよう、肩に置いた手で髪を撫でてくれた。 「色々問い質されはしたがな、要するに、だ。俺がお前をいじめてたのは、痴話喧嘩だったのか、と言うことだな」 「痴話喧嘩ですって!?」 「おい」 頓狂な絶叫を上げたアクィリフェルにアウデンティースは顔を顰める。かすかな不安が脳裏をよぎる。彼は、違うと思っているのだろうか。 「おい、アケル」 「痴話喧嘩なんかじゃないです! 時間が許すなら今すぐとって返してマルモル殿に釈明したいくらいだ! 誰が痴話喧嘩だ!」 「……アケル」 「だってそうでしょう!? どこが痴話喧嘩なんですか!」 「……そう、連呼してくれるなよ」 「――僕が怒ってただけです。あなたはそれに付き合ってくれただけです。悪いのは僕です、あなたじゃない。騎士殿の、誤解です、そんな、対等の……喧嘩だったなんて」 語調が段々と弱くなり、最後は呟くようだった。言葉に詰まってアウデンティースは馬を下りる。賢いアクィリフェルの馬は、相棒が足を止めたのに従った。 「アケル」 微動だにしないアクィリフェルを馬から抱き下ろせば、そのまますがりつくよう腕をまわしてくる。それはきつく痛みを覚えるほどだった。 「俺は、喧嘩だったと思ってる。それに、これはマルモルの見解だがな、そこまでお前を追い詰めたのは誰だったのか。俺じゃないのか、アケル?」 「――でも」 「ちなみに。マルモルの説教の内容はそっちだぞ? お前を追い詰めたことを説教されていたんであって、お前がどうこうでは断じてない」 「……はい?」 「お前はティリアに気に入られていたな? あの娘はあれで意外と人を見る目が厳しいんだがな。マルモルにも気に入られているよ。そりゃあもう憎たらしくなるくらいにな」 笑って見せたアウデンティースの声に潜むものが聞こえないはずはなかった。まじまじと顔を見つめるアクィリフェルの視線から逃れるよう、王は彼にくちづける。 「ラウルス。どういうことですか」 「よもやと思うがお前は俺を聖人君子と勘違いはしていないよな?」 からかうような声音の奥にある苦いもの。アクィリフェルは黙ってくちづけを返す。それからにこりと笑った。 「偉大なるアルハイド国王陛下。稀代の名君、アルハイド王国の紋章のままに猛き鷲であられるアウデンティース王でいらっしゃるのに?」 「アケル!」 軽やかな笑い声でアクィリフェルは王を抱きしめる。いつの間にか感じていた不安は霧散していた。 「僕も自分を駄目な男だと自覚はしていますが、あなたも相当ですよ? 聖人君子ですって? いったいどこの寝言ですか」 「寝言なら寝言らしく寝て言うがな」 「そういうことを言う立派な君主がどこにいるのかって言う話です!」 「よかったよ、安心した。本当だぞ? だからな、驚かないだろうがな。俺はこのところいったい何度マルモルを叩き切ってやろうと思ったかわからんぞ」 「……驚かない自分にびっくりですよ」 それどころかアクィリフェルは頬を染めた。恥じらいと歓喜に上気した頬でアウデンティースを見つめる。うっとりと、愛しげに。 「……お前、わかってるんだろうな。俺が言ったこと? わかっててそれなら、お前も大概に最低だぞ」 「わかってます」 ゆっくりと、アクィリフェルは彼から身を離す。名残惜しげに頬にくちづけ、ひらりと馬にまたがった。 「だからね、ラウルス」 王が馬に乗るのを待ち、アクィリフェルは晴れやかに告げる。 「僕らは似合いだと思いませんか?」 「駄目さ加減がよく似たもの同士で、うまくやっていけるだろうな」 「もう少し言いようがあると思いますけどね」 ふん、と鼻を鳴らし、けれどアクィリフェルは上機嫌で馬を走らせた。休息をとった馬は面白いようによく駆ける。 気づけばアクィリフェルは歌っていた。馬上にあって、いまは背にあるリュートを使うことはできようはずもない。 それなのに、アウデンティースの耳にはリュートの調べを伴った歌声に聞こえた。否。それだけではない。大勢の声楽の、ありとあらゆる楽器の合奏だった。 「無数の音がする……」 呟きさえ、アクィリフェルの音楽に飲み込まれ、紡がれていく。決して大きな声ではない。むしろ彼の声が届くのは自分と二頭の馬にだけだろう。それほどの小さな声。それでいて、はっきりと聞こえる歌。 「アクィリフェル」 呼べば、歌声が切迫を帯びた。陽すらも翳ったかのよう、世界が薄れていく。 「アケル」 目の惑いであったかのようだった。瞬きの間に世界が色を取り戻し、生き生きと色づく。喜びの色に染まっていく。 「この世界は――」 語っているのに、歌声のようなアクィリフェルの声に聞き惚れ、一瞬とはいえ王はそれが言葉であることを認識できなかった。 「いつもいつも焦燥を歌ってはいませんよ」 片手を上げて、何かを手招く仕種をしたアクィリフェルは、遠くに向かって笑みを見せる。 「そりゃね、世界は痛みに悲鳴を上げ続けてはいます。だからこそ、なんですよ、きっと」 「説明してくれるか?」 導き手の幻視なのだろうか。それとも彼の耳は確実に何かを捉えているのだろうか。それを破ることを恐れ、王はあたう限り静かに問う。 「痛いから、忘れたい。つらいから、逃れたい。たとえ一時でも。人間と一緒ですよね」 「あぁ、そうだな」 「だから、世界は歌うんです。いつものように、何もなかったころのように。思い出で、つらさを紛らわせたくって」 「いまのも?」 「これは、夜明けの歌。新しい一日を喜ぶこの世界の歌ですよ。渇いた喉を潤す冷たい水。悪夢から覚めた目に射し込む朝陽。子供の誕生の瞬間。人は誰しも聞こえなくても、聞いているはずですよ、きっとね」 夢から帰ってきたかのよう、アクィリフェルはアウデンティースを見つめて微笑んだ。その目はあなたにはわかるはずだ、子供がいるのだから、と問うているようでもあり、王は惑乱する。 「お前な。俺にそれをどう答えろって言うんだ?」 「どう答えてもいいですよ。わかると言えば腹が立ちますし、わからないと言えばどうしてわかってくれないのかと嘆きますから」 「……実はお前、物凄く性格が悪くないか?」 「そうですよ? 嫌いになりましたか、ラウルス?」 「……自分の趣味の悪さにげんなりしているところだ」 羽のようにアクィリフェルは笑う。驚いた馬が疾駆するに任せた彼の背に、結んだ赤い髪が鮮やかにたなびいた。 |