アクィリフェルは一人、自分の小屋の隙間風に顔を顰めていた。階下はやはり、隙間風が酷い。就寝前に灯してある一本だけの蝋燭が風に揺れる。それを防ぐために二階があるのだからこればかりは致し方なかった。 王と二人の騎士が休む階上は、もうずいぶん前から静かだった。騎士たちもはじめは下で休む、と言っていたのだが、それではかえって気詰まり、とアクィリフェルは断った。 「……たぶん」 思うところが無きにしも非ず。期待しているわけではない。単に予想の範疇。そう思いつつ、どこか苛々と落ち着かない。 隙間風の音を聞く。焦燥に聞こえた。それにアクィリフェルは小さく笑う。自分の焦りや苛立ちではなく、世界の焦りだった。それなのに、我がことのように感じる。 「場合が場合だから、かな」 視線は動かない。二階を見ることなく、音だけが聞こえる。静かな気配めいた音がした。それでもアクィリフェルは動かなかった。 「――アケル。起きているか」 わずかにためらった名を呼ぶ声。まだアクィリフェルと呼ばねばならないかと躊躇する声に胸が迫るものを覚える。 「起きてますよ」 必ず来ると思ったから。言わずに振り返れば、驚きに目をみはったアウデンティースの顔。薄暗がりの中でもはっきりと見えた。 「どうしたんです」 「いや。その――」 「言いたいことがあるならばはっきり言ったらどうですか」 「畳み掛けるな。わかったから!」 忍び笑いが声に滲んで、アウデンティースが近づいてくる。それを驚異と共に見守ったアクィリフェルは身動きすらできなかった。 「アケル?」 「……どうして」 「なにがだ?」 「どうして、僕を許すんですか」 「おい」 緩やかな、今にも解け落ちそうな夜着姿のアクィリフェルの肩に手をかけた。貴族や裕福な街の住人に見られるようなそれとはまったく違う意匠。密やかで精悍な意匠は狩人の名に相応しい。それでいて、なぜかアウデンティースにはわかる。これは恋人と共に過ごすための衣装だと。 「酷いこと、たくさん言いましたよね、僕は。あなたにもらった髪飾りだって、壊して――」 「知ってる」 「……ですよね」 アクィリフェルはきゅっと唇を噛む。うつむいた拍子に梳き流した赤い髪が頬にかかった。 「だが、それがどうした? 許されるのは、俺のほうじゃないのか。お前は俺を許してくれたんじゃないのか」 「僕は――!」 す、とアウデンティースの指が唇に触れる。声の高さをたしなめられてアクィリフェルは再度うつむいた。 「たぶんな、アケル」 声の響きだけできっとわかってくれるのだろう、彼は。けれどいま言っておきたかった。告げなくともわかるはずの言葉を、言っておきたかった。 「強情で、頑なだったのは、俺でもお前でもない」 「どういうことです。からかってるんですか」 「どこがだ? ものすごく真面目に言ってる」 「だったらちゃんと説明してください。……わけがわからない」 責める声音の頼りなさ。導き手の耳など持っていなくとも、アウデンティースに聞き取れないはずがなかった。 「どうしようもなかったのは、たぶん、二人ともだ」 「……え?」 「俺もお前も二人とも、意地を張ってただけなのかもしれない。よくわからん。嫌な話をしようか、アケル」 ゆっくりとアウデンティースが息を吸う。彼の緊張を感じ、アクィリフェルはそっと体を添わせた。肩先に、アウデンティースの温もりがある。それに力を得たかのよう、彼のほうからアクィリフェルを抱き寄せた。 「お前に俺の正体が知れたあと、意図的に嬲っていた」 吸いきった息を、長く吐き出すアウデンティースの心になにがあるのか、アクィリフェルには手にとるようわかった。 だから体を預ける。王の肩に頬を押し当てれば、懐かしい匂いがする。長くなど、離れていなかった。王と導き手としてならば、絶えず傍らにあった。けれど。 「お前が俺を受け入れることはないと、わかっていた。だからと言って忘れられるか? だからと言って、お前が他の誰かに心を奪われるようなこと、耐えられるか? 俺には無理だ」 「ラウルス――」 「だから、お前を嬲った。いたぶって、叩きのめして、憎まれるよう仕向けた」 「忘れられるくらいなら、憎まれたい?」 「悪いか」 「……意外と、可愛いこと考えてたんだな、と思っただけです」 「どこがだ?」 実に不思議そうに言ってアウデンティースはアクィリフェルの目を覗き込んだ。表情など見なくとも、声だけでアクィリフェルには王の真意が知れる。嘘など微塵もないと。だから小さく笑う。 「なにがおかしい」 見咎めたアウデンティースの腕の中に潜り込む。一瞬、驚いたように強張ってから抱きしめてくる腕の確かさ。 「本当にそう思ったんですよ」 「お前な」 「だからね、ラウルス」 くぐもった笑い声が胸元から聞こえてきて、アウデンティースにも彼の本意が理解できた。静かに、けれど固く抱きしめる。不意に、たまらなく愛しくなる。 「僕もだめな人間ですが、あなたも立派にだめですよ。あなたの言うとおりなのかな。僕らは、二人ともどうしようもないのかもしれない。こういうのもお互い様って、言うんでしょうか」 「……言っておく方が平和だと思わんか」 「思います」 喉の奥でアクィリフェルが笑えば、アウデンティースの口許にも晴れやかな笑みが広がる。互いの目に映る自分の姿を驚きと共に見つめた。 「アケル」 「はい?」 「今更だ。物凄く、今更だ。が――」 「なんですか。言いたいことがあるならちゃんと言ってください。誤解したくない」 「愛してる。お前が愛しくて、どうしていいかまったくわからん」 「……物凄く馬鹿なことを言ってる自覚、ありますか」 「言えと言ったのはお前だろうが!」 「声が高いですよ、ラウルス」 その言葉をアウデンティースは聞いていなかった。身じろぎもできずアクィリフェルを見つめていたせいで。 言葉を発するより先、アクィリフェルは王の唇を奪っていた。押し当てられた唇が、いままで交わしたどんなくちづけより甘くて痛い。 「ラウルス?」 いまだ動かぬ王に不安を覚えたころ、急にきつく抱きしめられた。薄手の夜着の背中に熱を感じるほど強く。 「愛してる」 囁きのような声。小さく掠れていたのは、震えかねないそれを押し殺すためか。アクィリフェルもまた彼の背を抱き返す。 「……そうやってあなたは僕を許すんですね」 耳許に囁けば、無言で王は首を振る。聞かなくともわかる。自分のほうこそ、そう告げる声が。 「あなたも過ちを犯したかもしれない。でも、僕のはほとんど逆恨みじゃないですか。あなたは最初から正体は言いたくない、少し待てって言ってたじゃないですか。知ってしまった状況が悪かったとはいえ、何もあそこまで怒ることなかったじゃないかって、自分でも思いますよ」 なぜあなたはそう思わなかったのか、アクィリフェルの無言の問いにアウデンティースは首を振る。そのようなことを考えたことは一度もなかった。悪かったのは自分だと、そればかりを考えていた。 「酷いことをたくさんしたのも僕です。あなたもしたかもしれないけど、僕のほうがずっと酷い。――いいえ、あなたがどう思ってても、僕はそう思うんです。だから、ラウルス」 抱き返す腕に力がこもった。まるでしがみついているようだとアクィリフェルは思う。思っても、止められない。そのとおりだとすら思う。 「あなたはそうやって、僕を許す。きっと何度僕が過ちを犯しても、あなたはそうやって許してしまう。そんな気がして、怖いです」 「……なぜだ」 「それだけ何度もあなたを苦しめる、僕は。そうじゃないですか」 ゆるりとアウデンティースが顔を上げた。その表情に意外を見た。彼は微笑んでいた。一笑に付すというには穏やかに。けれど確かに。 「馬鹿か、お前は」 「ラウルス!」 「お前がいない苦痛のほうが、ずっと大きい」 答えられなかった、アクィリフェルは。答えを聞くつもりもなかった、アウデンティースは。くちづけだけで事足りた。 夜着の肩先を王の手が滑っていく。咄嗟にアクィリフェルは衝立を引く。梯子から体を隠すように。そんな自分を小さく笑いつつ。 「なにがおかしい?」 掠れて弾んだあの頃の声。この瞬間に悟った。自分の元に愛する人が帰ってきたと。 「あんまりにも、あなたが愛しくて」 答えた喉にくちづけの音。弾む息を隠したくて身をよじれば、追われる。逃げるばかりが悔しくて、獲物を狩れば追い詰められたのは自分の驚異。 「ラウルス、待って」 「待たない」 「でも。あ――」 伸びた指に背をそらし、首を振れば赤い髪が炎のよう乱れた。 「もう待てない」 抱き合えば、汗ばんだ肌が触れ合った。それすらもが、どうしようもなく愛おしい。が。唐突に激しい物音が聞こえた。梯子を蹴立てて下りてくる騎士の足音。 「狩人! 陛下がおいでにならない! 狩人!」 半狂乱の騎士の前、アクィリフェルは衝立の影から立ち上がる。羽織った夜着からいまだ上気したままの肌が覗いた。 「ここにいますよ。……せめてここにいることくらい騎士殿に言っておくことはできなかったんですか、陛下」 無茶を言う、笑いながら呟いてアウデンティースは衝立の向こうから顔だけを覗かせた。その肩先に衣服がないのをマルモルは上品に見なかったことにした。 |