夕暮れ近くに戻った集落は、大混乱の最中だった。狩人があたふたと走り回っているかと思えばあちらこちらで一群になってひそひそと言葉を交わしている。 「いったい何があったって言うんですか?」 長の言いつけを破って集落を抜け出したにしてはあまりにも横柄なアクィリフェルの問いだった。だが長は咎めもしない。それより渋い顔をするのに忙しい。チェーロの横でテイラが密やかに笑みを浮かべていた。 「お言葉があったのですよ、私の息子」 長が答えるより先、テイラが言う。長の小屋の中は狩人の主だったものに加え、当然のよう騎士たちもいた。 「どんな?」 ぬけぬけと問うアクィリフェルに、アウデンティースは笑いを噛み殺す。まったく表情には表れていなかったというのに、アクィリフェルに横目で睨まれた。 「あなたのことですよ、アクィリフェル」 「へぇ、そうなんですか?」 「とぼけるのはおよしなさい。黒き御使いと陛下は仰っていたわね? 御自らお言葉がありましたよ、あなたを召喚したのは自分であるのだから咎めてはならないと」 どことなく母の言葉の中に笑いが含まれていて、語られなかった言葉をアクィリフェルは聞き取る。いったいあの御使いはどういう表現をしたのだ、といささか恨みたくなってきた。 「それはありがたいですね。では僕は掟を破ってはいない、と言うことでしょうか、長?」 「……そうなろうな」 「ありがとうございます」 もっともらしく頭を下げる狩人と、苦虫を噛み潰したような長。それでも決着だけはとにかくついた。狩人たちがほっとした様子でうなずきを交わす。 「では長、少し今後のことをご相談したく思います。お時間をいただけますか?」 あくまでも父ではなく長に対して言うアクィリフェルをアウデンティースは少しだけ不思議そうな目で見やり、けれどこれが彼らのやり方なのだと思う。 「アクィリフェル」 「申し訳ありませんが、陛下は僕の小屋にでも戻っててください。騎士殿、お願いできますか」 「戻るのはかまわんが……」 「あぁ……。陛下が御使いから何をお聞きになったか、それを僕らに言う必要はありません。それは陛下のものです。僕らは関知しませんから。同じように――」 「つまり邪魔だから下がれということだな。よろしい、戻ろう。マルモル!」 「は、陛下!」 不遜な言い振りにもマルモルは顔色を変えなかった。むしろ無事に戻り、かつ咎められなかったことを騎士たちは二人とも喜んでくれているらしい。はじめてありがたい、そうアクィリフェルは思う。 狩人の集落の樹上の小屋から、ゆっくりとアウデンティースは降りていった。騎士たちよりよほど確かな足取りだった。 「陛下、伺ってもよろしいのでしょうか」 「なにをだ」 いまアクィリフェルは長に何を相談しているのだろう。気にかからないわけではなかったが、おそらく竜の住処への探索のことだろう。そう思って懸念を振り払う。 「その……お手にある剣のことです」 マルモルは不安そうに剣を目で示す。人の世ではありえない漆黒とも白銀ともつかない剣に不安を覚えないものがいるはずもない。 「御使いから授かった」 「それが!」 途端にマルモルの顔もケインの顔も輝く。禍々しいとでも思っていたはずの剣を見る目が突如として変わるのは見ものだった。 だがアウデンティースは面白がったとしてもそれを表情に表すことはなかった。 「では鞘はいかがなされました」 「おそらくその件だろう、アクィリフェルがいま長に相談しているのは」 「では――」 「当面は抜き身で持ち歩くことになろうな」 肩をすくめて何事もなかったかのよう言う王に騎士たちは困惑する。何か当座の鞘を差し上げなければ、と思ったところでアウデンティースが口を開いた。 「御使いが見せてくださったが、この世の金属ではこの剣を包むことはできんよ」 「では、いったい……?」 「だからそれをアクィリフェルが相談しに行っている」 相談、と軽く王は言うが、当てはあるのだろうか。マルモルはさすがにそれ以上を問うことができなくなった。 アクィリフェルが報告をしたことで、集落の混乱は多少なりとも収まったらしい。それだけ異常な事態だった、と言うことなのだろう。 騎士たちの先導で彼の小屋に戻れば、室内はずいぶん長のそれと違っている。初めてアクィリフェルの私室に入ったのだ、と思えばアウデンティースの心は弾む、騎士たちに押し隠すのが困難なほどに。 「風除けなのだそうです」 地上から上がったすぐの部屋は閑散としていた。物があることはあるが、防寒用の上着や、狩りの道具などが整然と壁にかけてあるのみ。 「陛下、こちらへ」 部屋の片隅に更に梯子があった。これで風除け、の意味がアウデンティースには知れた。樹上の小屋では下からの風を防ぐことが難しいのだろう。こうして一間を隔てて居住用の部屋はもう一つ上に作る。実用的な解決策だった。 器用に登っているマルモルが跳ね上げ扉を開けて抜けていく。続いた王は興味深いものを目にすることになった。 「いかにも、だな」 アクィリフェルらしい部屋だった。あまり物がないのは階下と変わらない。だが寝台を半ば隠している衝立に描き出された編み模様も、そこからわずかにのぞく寝台の覆い布も彼らしい慎み深さと華やぎがある。 「陛下?」 笑いを噛み殺し損ねたアウデンティースの奇妙な声にケインが思わず王を覗き込む。それになんでもないと首を振り、けれどアウデンティースはまだ心の内で笑っていた。 あのアクィリフェルを慎み深い、と考えている自分がおかしくてならなかった。 「お食事はいかがでしょうか」 先に狩人たちが用意してくれていたのだろう、軽食と言うにはずいぶん立派な食事が用意してあった。あの混乱の中でもこれだけのことをしてくれたのがありがたいと同時に申し訳ない。それを無にするのは更に申し訳ない。空腹を感じてはいなかったがアウデンティースはゆっくりとそれを口にした。 「おかしなものだな」 濃厚な木の実のソースで和えた肉を味わい、パンを口にする。軽い葡萄酒まで添えてあった。 「朝、携帯食を口にしただけなのに、さほど空腹を覚えていない。なぜだろうな」 「お疲れなのでは? 疲労が極まると空腹を感じなくなります。その場合よりいっそう心がけて食事を取らねばなりません」 断固としたマルモルの言葉にケインもうなずき、甘い蜜をたっぷりとかけた一皿を押し出してくる。 「これは?」 「無発酵のパンに蜜とバターをかけたものだということです。素朴ですが、中々美味です。お疲れのときには甘いものがよろしいでしょう」 「……まるで母親だな」 ぼそりと呟いた声はマルモルに無視された。致し方なく口にしているうちに、次第に空腹を感じるようになってきた。マルモルの言うとおり、疲れていたのだろう。 「僕にもください」 「なんだ! 狩人! 驚いたぞ。足音を忍ばせて入ってくるやつがいるか!」 「騎士殿が不注意なんです。別に僕は足音をさせなかったわけじゃないですよ」 「聞こえなかった」 「だから、僕のせいじゃないです。あぁ、懐かしい。母のタパだ」 「タパ?」 「それですよ」 言いながらアクィリフェルは大皿に盛ってあった例の蜜とバターのかかった薄焼きパンを皿にとる。器用に摘んで口に入れれば笑顔が浮かんだ。 「やっぱり母の味だ」 にっこりと笑うその表情に、マルモルは違和感を覚えた。出て行ったあのときまでと、完全に何かが違う。だがそれが何かはわからなかった。 「アクィリフェル」 「なんですか。あぁ……。探索のことですか。了承を得ましたよ。食料その他も用意してくれるそうです。ただ問題は――」 笑顔を消してアクィリフェルは騎士たちを見やる。それだけでアウデンティースには答えがわかった。 「我々のみで、と言うことが条件なんだな?」 「そういうことです」 肩をすくめて投げやりにタパを頬張った。その態度でアウデンティースは彼が言葉ほどその味を楽しんでいないことに気づく。 「陛下! いや、狩人! まず説明をしろ、説明を!」 「説明したら納得してくれますか」 「だからまず、説明だ」 根気よく言うマルモルにアクィリフェルは溜息をつく。ちらりともアウデンティースを見ず話をはじめた。黒き御使いとの会見の詳細は語らず、鞘をどうすればいいかの示唆を受けたとだけ言う。 「――ですから、ドラゴンの鱗を取りに行かない限り、陛下は抜き身の剣を持って歩くことになるわけですよ」 「だが、それはそれとしてだな! なぜ、陛下が、いや、我々が!」 「話を聞いてました? ドラゴンの住処は聖域を通っていかなきゃならないんです。我々狩人は本来聖域に人を入れないためにいるんです。それを忘れないでください」 「だが――!」 「よせ、マルモル。禁断の山の狩人の好意をありがたく思いこそすれ、非難などしてはいかん。通してくれるだけで実にありがたい」 「ですが、陛下お一人でなど」 「一人ではないぞ。アクィリフェルが同行する」 軽い言葉ではあった。だが騎士たちは揃ってじっとアクィリフェルを見つめる。その視線に押されるよう、彼もまた真剣な表情でうなずいた。 「懸念はわかるつもりです。ただ、信頼してもらえませんか。そもそもドラゴンの鱗を取りに行くんですから危ない目にあわせない、と約束はできませんけど、ちゃんと無事につれて戻りますから」 「……アクィリフェル。お前もだ」 「マルモル殿?」 「陛下お一人ではないぞ。お前もちゃんと無事に戻ってくるのだな!?」 その声があまりにも真摯でアクィリフェルは戸惑う。響きに少しだけ理解した。いままでどれほど心配をかけていたのか。気づかなかった自分を恥じる。 「……戻ってこない理由がありませんけど?」 それでもいつものよう、アクィリフェルは言う。そのような言い方しかできない自分がいやになりつつ。けれどマルモルはにやりと笑った。そしてアウデンティースの溜息に潜んだ気配にアクィリフェルもまた小さく息をつく。 |