手の中の剣を見つめた。他に、どうしていいのかわからなくなった。アクィリフェルの態度が腑に落ちない。まるであまりにも甘い悪夢を見ているかのよう。 「……戻ろう」 かろうじてそれだけを言えばアクィリフェルは鼻を鳴らして笑う。それがいままでの時間を思わせてやりきれない。自ら招いた事実であるにしても。 「それより先にすることがあるでしょう?」 「ドラゴンの鱗か? だが――」 「そんなことを言ってるんじゃないですよ!」 叩きつけるような声。だが決定的に離別以来のそれとは変わっている。剣の呪いがなしたことだろうか。アウデンティースにはわからず惑う。 戸惑いもあらわな王の腕をアクィリフェルは取る。どうしてわかってくれないのか、と揺さぶりでもするようなその目にアウデンティースの迷いはいっそう深まった。 「アクィリフェル――」 「いい加減にしてください! ちょっと、そこに座って! 話し合いましょう。いいですね」 「いや、その――」 「ご不満でもあるんですか! だったらそれも話し合おうじゃないですか。いいからそこに座る!」 憤然と、自ら率先してアクィリフェルは草地に腰を落とした。座るというよりは自分の体を大地に叩きつけたかのよう。アウデンティースはそろそろとそれに倣いつつ彼の表情を窺う。 「人の顔色を読むような真似をしない! あなたは王でしょう!」 「……国王に向かって言う言葉か、それ」 「うるさい!」 一言でアウデンティースを否定し、自らを肯定する。その無謀なやり方にふとアウデンティースの口許が緩む。 「さぁ、陛下。話し合おうじゃないですか。いったいどういうことですか」 「だから、何がだ!」 「全部ですよ! 話してください、全部!」 「それは――」 「なにもあなたに国王の秘密を話せとは言ってません。僕らに関係することをはじめから全部話してくださいって言ってるんです。それで? いったいどういうことなんです。あなたはどうして僕を手駒だなんて――」 「いまでもお前は私の手駒だ」 静かに言う声でアウデンティースはアクィリフェルを静めようとした。無情に、けれどきっぱり言うことで。だが、アクィリフェルはやはり鼻で笑った。 「僕の耳をお忘れですか。そんなことで騙されませんから」 「だが」 「さぁ、ラウルス。僕に向かって何か喋って御覧なさい。あなたの本心なんて、あなたが隠していたい本心だって、あなたが気づいていないような本心だって! ――僕には聞こえています」 アクィリフェルは、最後の言葉だけをぽつりと言った。そのことではじめてアウデンティースは気づく。 彼もまた、認めたくはないのだと。アウデンティースから寄せられている思いも、自らの心も。自分の混乱に紛れて、アクィリフェルの戸惑いに気づかなかった己を悔やむ。 「……お前が、アクィリフェルだと知らなかったのは、事実だ。信じてくれるか」 「いやでも本当だって聞こえていますからね」 「アクィリフェル。本当だ。だから――」 「信じるって言ってるんですよ!」 言葉を叩きつけ、そしてアクィリフェルは顔をそむけた。アウデンティースが誤解するだろうことは承知している。だが、いったいどんな顔をすればいいのかわからなくなった、突如として、この期に及んで。あんなにも簡単だと思っていた何かなのに。 「……そうか」 予想通りの落胆した声。大地の底に沈んでいってしまいたいと願うアウデンティースの声。国王であることも、その存在すらも捨ててしまいたい、今すぐに。 アクィリフェルはその声に耳を閉ざしはしなかった。顔を向けもしなかった。真正面から彼を見つめるなど、とても。 だから、手だけを伸ばした。横目でアウデンティースを窺い、彼の袖口を掴む。 「アケル……。いや、アクィリフェル」 言いなおしたアウデンティースに肩をすくめる。咄嗟に手を離してしまおうと思った。けれどその手はすでにアウデンティースに包まれていた。 「……どっちでもいいですよ。好きなように呼んでください」 「だが」 「もう! あなたって人はどこまで人の話を聞いていないんですか。僕はさっきからあなたをなんて呼んでるんですか。それはどういう意味なんですか。少しは自分の頭で考えてください!」 きつい北の海の色をした目がアウデンティースを睨み据える。嵐のように猛っていた。それなのに、アウデンティースにはこの上もなく穏やかな美しい色に映る。 「アケル」 「なんですか」 「もう一度、その」 「なんですか、ラウルス。それとももう一度やり直したいとでも言うつもりですか」 いまだ硬い表情ながら、口許にかすかな笑み。はじめてかもしれない、ふとアウデンティースは思う。こんなにも彼が美しい。 「だめか?」 いかにも落胆した、そんな素振りを隠さず言えば、アクィリフェルが大きく笑う。包み込んだ彼の手が抜け出し、アウデンティースの指先に指が絡む。 「答えが要るんですか、本当に? そんなこと、言わなきゃわからないような愚か者だったんですか」 「実に愚かだと思うが」 「そうですね。まだ話もちゃんとしてくれてませんしね」 再び鼻を鳴らしても、アクィリフェルの手は離れなかった。どちらからともなくほっと息をつく。ばつが悪そうに顔をそむけたのは、アクィリフェルだった。 「お前、怒っていただろう?」 あの日。謁見の間で顔を合わせたあの瞬間。アウデンティースには世界の崩壊そのもののように思えた。 「まさかあなたがアルハイド国王その方だとは思いもしませんでしたからね。……騙されたとしか、思えなかった」 「話すつもりではいた」 「いつ?」 その問いはあまりにも素早すぎた。だからアクィリフェルの疑いをアウデンティースは感じる。握った手に力をこめる。 「いつだっただろうな。だが、いつか、必ず話すつもりではいた。……正直に言えば、怖かったのかもしれない」 「なにがです? あぁ、僕が権力に酔うとか思いましたか。いささか薹が立ってはいますが、公表されれば僕は王の寵童と言うわけですしね」 「馬鹿な!」 「どこがです?」 「お前が権力に酔う? そんなこと考えてみたこともなかったぞ!」 怒鳴ったアウデンティースに、今度こそはっきりとアクィリフェルは微笑みを向けた。自分で意識するより早く上った笑みに困惑し、そして諦めたようもう一度笑う。 「では陛下。いったい何を恐れておいでですか?」 からかうような声音に力を抜き、アウデンティースは彼に向かって手を伸ばす。けれど、止まった。どうしていいのかがわからない。 「もう、あなたって人は」 小さく文句を言い、アクィリフェルは自分でアウデンティースの腕の中に納まった。一瞬アウデンティースは体を硬くする。何かの間違いのように、悪夢のように、信じがたい。 「ラウルス」 呼びかけに、意思より先に体が動いた。アクィリフェルを包み込む。まるで自分のほうがすがり付いているようだった。赤い髪に顔を埋めれば、切望していたアケルの匂いがした。 「お前が、権力にも、宮廷にも、それこそ国王なんぞにも興味がないのはわかっていた。だったら俺はどうなる? 否が応でも国王だ。俺の頭に王冠があると知ったお前はどうする?」 「別れると、言うと思ってましたか?」 「実際、そうなった」 「それは!」 言い返そうとして、けれどアクィリフェルは言葉を持たなかった。アウデンティースの言うとおりだ。諸事情と詳細は違うものの、概要としては間違ってはいない。 「少なくとも僕は、あなたが国王だったから怒っていたわけではないはずなんですけどね」 「そうか?」 「……たぶん」 違うことを互いに知っていた。ただ、違うというだけで、何がどう違っていたのか、それとも事実は別のところにあったのか、もう何もわからなかった。 「……あなたの声が、聞こえていました」 「そうか」 「それでも、認めたくなかった。絶対に、認めたくなかった。またきっと嘘ついて、僕を騙そうとしてるって、思ってました」 言いながら、アウデンティースの偽りがどんなものだったのか、わからなくなっていく。馬鹿馬鹿しいほど単純なすれ違いだったとしか、思えない。 「だったら、なぜ?」 髪に埋めたままの、くぐもった声。不安と懸念を隠そうともしない王ではないアウデンティースの声。アクィリフェルは耳を澄ます。もっとずっと聞いていたかった。 「ティルナノーグで、水浴びしていましたよね。断じて! 覗きにいったわけじゃありません。偶然、と言うよりは騙されて連れて行かれただけですから!」 「誰に騙された!」 いきなり引き剥がされて顔を覗き込まれる。仰け反って逃れようとしたものの敵わず視線を合わせられた。 「……妖精の一人ですよ、誰でもいいんです、そんなことは。人間をからかう妖精がいることを忘れていた僕の落ち度です。問題はそこじゃないんですよ」 渋々と言うアクィリフェルにアウデンティースは息を飲む。思わず自らの胸元をまさぐれば、彼がうなずく。 「……あなたの声より、はっきりしていた。いやでも僕は認めなきゃならなくなった。一緒に過ごしたあの日からあなたの心が変わってないってことを。必要なのは、それだけだった。あなたの心じゃない、僕が認めれば全部済んだことだった。そうすれば、こんなに――あなたを泣かせないでもよかったのに」 泣いてなどいない。アウデンティースは言わなかった。一滴の涙もなかった。けれど確かにアクィリフェルはあの日以来流し続けてきたラウルスの涙の音色を聞いていた。 |