柄頭に置いた手から、ぶちぶちと自分が書き換わっていく感覚。世界の歌は変わらず、自分だけが取り残されていく感覚。アクィリフェルは耳を澄ませ自らと世界を聞く。変わってしまい、なんら変わりはなかった。
「アクィリフェル――」
 呆然とした王の声。アクィリフェルは無言でアウデンティースの胸元を掴む。息を飲む気配に、少しだけ笑った。同時に笑い声。
「これは、意外と言うべきか」
 黒き御使いが笑っていた。いかにも楽しげに、清浄さの欠片もなく。それでいて間違いなく、御使いだった。
「なにがでしょうか、御使いよ」
 毅然としてアクィリフェルは身を正す。ゆっくりと柄頭から手を離す。何を言われなくとも、自分が変わってしまったのをこの耳で聞いていた。もう、選択は済んだ、と。
「王のみに訪れる運命かと思っていたが。これもまた一興。我が君の意に適う」
「それは――」
「こちらのこと。人の身にかかわりのある話ではない」
 柔らかに、けれど一刀両断し、御使いは唇に笑みを刷く。アウデンティースが彼に代わってそれ以上問おうとするのを、咄嗟にアクィリフェルは抑えた。理由はわからない、ただ知るべきことではない。少なくとも人間であるこの身が知ってよいことではない。それを世界が歌っていた。王はそれを訝しげにちらりと見やり、息を吸い、吐く。
「では御使いよ」
「我が君の剣をお前に貸し与えよう」
「――他に仰ることは?」
 用心深く尋ねたアウデンティースに、アクィリフェルは笑みを浮かべる。疑ったわけではないだろう。だが、自らの身を代償に求められたことの意味がアウデンティースに染み込みはじめていた。
「その剣は――」
 くっと、御使いが笑った。清らかさとは縁がない、否、純粋を内に含んだ妖艶。あでやかな薄い笑みだった。
「我が君の剣。本来、人の身に扱えるものではない。だからこそ、お前たちは揃って祝福を受けた。なんなら呪いでもかまわんが」
 その言葉にさっとアクィリフェルが顔色を変える。いまだ自分に起こったことを納得しきれない王は不思議そうにその顔を見る。
「仮定の話です。もし、万が一、その剣に我々以外の者が触れたならば?」
「なにも起こらない。祝福も、呪いも。我が君の剣が持つ力の半分も扱えまいが」
「なぜです!」
 どうして自分たちだけが。それが予言されたと言うことなのか。アクィリフェルはじっと御使いを見据える。選択したのは自分だ。が、選択させられたとの思い。
「アクィリフェル。いい。わかっている」
 意味などわからないような言葉。それでもアクィリフェルには聞こえる。
 たとえ自分が持つ生き物としての時間が捻じ曲げられるとはじめからわかっていたとしても、黒き御使いの剣を手に取っただろう。それがアルハイドを救うことに繋がるのならば。
 言葉にしなかったアウデンティースの声にアクィリフェルは唇を噛む。これほど悔しいことはないくらい同感だった。
「理由を問うか。人の子よ。ならば答えよう。祝福を受けない理由のひとつは、お前たちがすでに受けたから。もう一つは――それがお前たちの定めであるから」
 はじめから、決まっていたこと。御使いは言う。笑みの向こうで、人ならざるものの身にはなにが見えているのだろうか。
「すでに、このあと何が起こるか、見えているよ、人の子よ。教えはしない。運命が絡まってしまう」
 笑い声が、聖域を揺らしたように思えた。咲き乱れる花々が、萌え出る草が、身を揺すり、共に笑うよう。
「少しだけ、教えておこうか」
「いや、結構。変わってしまうのならば――」
「剣の使い方も、か?」
 意地悪く笑った御使いに、奇妙に生身を感じアクィリフェルは不思議に思う。聖域に降臨する御使いとは、このようなものだとは思いもしなかった。
「いや、それは」
「では聞くがいい」
 恥ずかしげに顔を伏せたアウデンティースに御使いは言う。アクィリフェルを使え、と。それに顔色を変えた王に御使いはまたにやりと笑った。
「それは、この世界の代弁者。この世界が歌う声。実に耳に快い歌を歌うな、この世界は。――混沌をも、惹きつけるほどに」
「それではアクィリフェルが犠牲になる! 民を救えても、わざわざ一人を見殺しにしたくはない!」
「するべきですよ、陛下。僕一人で大陸全土の命が買えるならば、安いものだ」
「アクィリフェル!」
「……話は最後まで聞かんか」
 言い合いをはじめた人間を興味深げに御使いは見つめていた。その楽しそうな目に、急に我が身が恥ずかしくなってアクィリフェルは黙り込む。
「お前たち人間の都合のいい場所で、歌えばいい。混沌を引き寄せ、魅了し、その身をくれてやらんばかりに。そして暴くがいい。混沌の核を」
「混沌の核、ですか?」
「とでも言うよりなかろうよ。お前には、その耳で間近に混沌を聞いたとき、それが聞こえるだろう。聞こえれば、王にそれを見せることができるだろう」
「そこで、この剣ですか」
「そうだ。あれしきの混沌、一撃で滅ぼせる――とは言いすぎか。本来の場所に戻るだろうよ、それでこの世界はある程度、元に戻る」
「ある程度、とは」
 まったく元に戻ることはない。はじまってしまったことは、二度と再び元には返らない。アウデンティースは言われるまでもなくわかっていたことを改めて知り、顔色を失くす。
「さて。いずれわかるだろう。ここから先は、お前たちの運命にかかわりのあること。多くは言うまい。あぁ、もう一つ、言っておこうか」
 黒き御使いはそう言って周囲を見回した。そして納得したよう一人うなずき、二人に視線を戻す。
「古き血に連なる竜がいるな」
 聖域の、果てだった。遠い山奥に、確かに竜は棲んでいる。竜には竜の掟があるのか、決して聖域に舞い降りようとはしなかったが、禁断の山からも稀に空を舞う竜が見えることがあった。
「鱗を、そうだな……一枚あれば充分だろう、もらうといい。竜の鱗は身から剥がれたばかりには柔らかいもの。巧く形作って我が君の剣の鞘とするがいい」
「革の、あるいは金属の、鞘ではいけませんか」
 時間が惜しいのだろう。よけいな旅などしたくはない、と顔を顰めるアウデンティースの肝の太さにアクィリフェルは内心で呆れつつ笑っていた。
「金属? そのようなもので、耐えられるものか。革など論外。古き血の竜の鱗のみが我が君の剣に耐え得る」
 言って、御使いはアクィリフェルが背負っていた矢筒を指差す。何もしていなかった。ただそれだけ。それなのに、一筋の矢がするりと御使いの手の中に収まっていた。
「見るがいい」
 御使いが、いまだ大地に刺さったままの剣の刃に鏃を触れさせた。と。一瞬のことだった。まるで高温に触れたかのよう、鏃が溶けていく。
「この世界の金属はかほどに柔らかい。わかったか?」
 言葉もなく、二人が揃ってうなずいていた。それを意識しないですむほどに、いまの光景は異常だった。
「では行くがいい」
 アウデンティースに向かい、御使いは掌で剣を示す。抜け、と言っているのだろうことはよくわかっていた。
 ここまで来てなにを今更。自分でもそう思う。だが、アウデンティースは恐れた。この剣を、そして黒き御使いを。
 この剣を手にするより他に道はない。わかっていた。それでもなお。不意に袖に触れるもの。アクィリフェルの手が、腕に添えられていた。
 わけもなく、覚悟が決まった。アクィリフェルに言いたい文句が山のようにある。それを思えば、剣を抜いて手にする程度、さっさとしてしまわなければ気がすまないほどだった。
 アクィリフェルが励ますよう、腕に添えている手を感じたまま、アウデンティースは剣を引き抜く。大地そのものを引き上げているように重かった。それなのに、羽のように軽かった。
「あぁ……」
 溜息とも歓声ともつかないアクィリフェルの声。耳にしつつアウデンティースは剣を掲げる。朝の光に剣は燦然と輝いた。一筋の汚れもなく、闇夜のごとく清らかに。
「お授かり物に感謝いたします」
 頭を下げ、礼をしてもアウデンティースは王だった。毅然としたその姿に一瞬、目を奪われ、そしてまたアクィリフェルも頭を下げる。
「健やかでおれよ」
 実に楽しげな笑みを浮かべ、御使いが背を震わせる。瞬きのうちに、その背に漆黒の翼。大きく広げれば涼やかな風。
「黒き御使いよ、お願いの儀が!」
 飛び立とうとする正にその寸前、アクィリフェルは御使いをとどめた。
「どうか、禁断の山の狩人たちにお言葉を賜りたい。私は禁を破って王を追った身。このままでは王をお助けすることができません。勝手な言い分とお思いでしょうが、どうか!」
 黒き御使いはその言葉に黙る。そしてアクィリフェルの赤い髪と、アウデンティースの金茶の髪に目を留める。
「異例なこと、だろうな? だが、わかった。願い聞き届けよう。お前たちには我が従者の一族が世話になったようだからな」
 それは。アクィリフェルが問うより先、今度こそ御使いは翼を広げ羽ばたく。大きく、大きく。この世界よりも大きく。くらんだ目が光を取り戻したとき、そこに御使いの姿はなかった。
 呆然と、御使いがいたはずの場所をアウデンティースは見ていた。草が踏みしだかれたあとのない場所を。だが確かに手の中には剣がある。不意にきりりと顔を引き締め、アクィリフェルを見やる。
「……どういうことだ」
「なにがですか」
「なぜあんなことを!」
 殴りつけるよう、アクィリフェルの手をとった。なんの印もない。けれど自分と同じように変わってしまった彼だった。
「だったらあなただってなんであんなことしたんですか!」
「なにがだ!」
「僕を裏切っただの、自分の手駒だの! そんなこと、少しも思ってないくせに! そうでしょう、ラウルス!」
 呼び名に。アウデンティースの手を払い、胸元を掴んだ手に。その中に服の上から握りこまれた指輪に。アウデンティースは言葉を失くしていた。
「俺は……私は」
「あなたがどっちかなんて、もうどうでもいいですよ。僕はあなたに付き合うことに決めました。だから、まず生き延びることを考えましょう。話ならゆっくりできるでしょうよ、することしなきゃ死ねないみたいですからね」
 皮肉に言って、アクィリフェルは口許を歪める。歪んでいるのに、きれいな笑顔に見えた。




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