予想外だった。どうやら長たちはかなり早くにこの聖域の入り口に達し、そして夜明けまで見張っていたものらしい。 アクィリフェルはすでに無言に戻り、走っている。入り口を抜けさえすればすぐにでもアウデンティースが見つかると思っていたものを。 焦りがアクィリフェルの呼吸を乱す。息を整え走れば、またすぐにも乱れる。 「今更――!」 ここまできて、こんなところで王を見つけられないなんて、思ってもみなかった。聖域に入りさえすればすぐにでも見つかると思っていた。 立ち止まり、荒い呼吸を繰り返す。いったいどれほどの間走り続けていたのか記憶にもない。震える体は焦慮のせい。疲れでは決してない。何度も何度も深い呼吸を繰り返し、体に活力を蘇らせる。 「あ……」 立ち止まったせいだったのかもしれない。アクィリフェルの耳が音を捉える。 「歌」 ぽつりと、呟いて気づく。荒かった息は平静に戻っていた。それすら意識の端に浮かんで消えたほど、アクィリフェルの体は世界の歌に満たされる。 アクィリフェルは聞いた。予言の意味を。そしてこれからなされるだろう取引を。 「ふざけるな――!」 再び走りはじめた彼の足はいまだかつてない強さにあふれていた。 一方。アウデンティースはすでに聖域の奥へと入っていた。夜明けを待たずして聖域へと入り、歩き続けている。道に迷うとは思わなかった。 「導き、か……」 皮肉に唇を歪めて、頭に浮かんだ面影を払いのける。不思議なほど、どこに向かうか確信がある。狩人の長は、聖域を訪れることを許されたものはみなそうだと言ったが、それだけではない気がした。 「アクィリフェル」 いま、どうしているだろうか。チェーロから決して同行は許さないと言われたときの彼の表情を思い出す。 それだけで、口許に笑みが浮かぶ。わかっている。あれは彼のアケルではなく、アウデンティースの駒である導き手。まかり間違っても愛情から同道を望んだのではない。 「それでも――」 側にいてくれる。側にいたいと望んでくれる。それだけがこんなにも嬉しい。自分でも馬鹿らしいと思わないでもない。 「前は、どうだったかな」 確かに政略結婚ではあった。が、王妃とは互いに敬意も愛情も持っていた。だからこそ、三人の子がある。けれど、やはりこんな気持ちにはならなかった、と思う。 「言えはせんがな」 むっつりと言うくせに、どこか楽しげな声だった。独りきりの気楽さがそうさせたのかもしれない。 次第に夜が明けていく。王位についてからは中々このような景色を見る機会もないのだけれど、アウデンティースは夜明けの空が好きだった。 「懐かしいもんだな」 子供の頃、シャルマークの城で見た空に似ている気がした。鮮やかで、途方もなく綺麗なもの。不意にアクィリフェルの髪を思う。朝焼けの空に、彼の面影を見る。 知らず、指先が胸元を探っていた。触れてからはじめてそうと気づき、アウデンティースは苦笑する。あの指輪だった。 「アケル。お前は怒るだろうな」 あの時の指輪をまだ持っていると知ったら。手酷く裏切った自分が、こんなものをまだ大事にしていると知ったら。馬鹿にしていると言って、怒るだろう。 だからこそ、手放せない。知られれば、怒らせるためにこそ持っている。そう嘯く自信がある。自分だけはそうではないと知りながら。 「お前が――」 不意に、アウデンティースの呟きが途絶えた。何事も起こっていない。けれど彼は立ち止まる。長閑に鳴き交わす小鳥の声。次の瞬間、ぴたりと止まった。 「ほう。人間にしてはいい勘をしている、と言うべきか」 突然のことだった。先ほどまで、否、いまこの瞬間まで、アウデンティースの目の前には聖域の風景が広がっているだけだった。 それが、なぜ。一歩と離れていない距離に、男が立っていた。少なくとも、人間の男性と同じ姿をしたものが。 「人間ではない。妖精でもない。ならばあなたが黒き御使いか?」 「冷静なものだな、人間。なぜ、妖精でもないと思う?」 かそけき嘲笑。だがアウデンティースの意識には留まらなかった。それは男があまりにも美しすぎたからかもしれない。 漆黒の衣装、漆黒の髪、なお黒い目。正に黒き御使いの名に相応しい。耳飾り、その一点だけが流したばかりの血のよう赤かった。 「妖精族とは付き合いがある。全てを知っていると豪語するほど親しくはないが」 肩をすくめアウデンティースは言う。気圧されはしなかった。不思議なほど確かに冷静だった。あるいは、驚きも恐れも麻痺しているのかもしれない。 「それでもあなたは違う。違うとしか、言いようがない」 「もっともだ」 男が、黒き御使いが笑う。御使いと称されるには、あまりにも高らか過ぎる笑い声だった。アクィリフェルならばなんと聞いたか、アウデンティースの脳裏に思いがよぎった。 「人間よ。望みはなんだ?」 いまだ笑みを含んだままの御使いだった。訝しげなアウデンティースを眺めているその目に浮かぶは、興味か。 「望み?」 不思議なことを言う、と思った。予言に導かれ、ここまできた。授けてくれるというからきたはず。そこまで思って気づく。言えというのか。 「我が望みは、混沌を退けることのみ」 燃える髪が瞼の裏を彩り、消える。アウデンティースの望みならば、アルハイドの守護。だが。 「ほう?」 御使いはその思いすら読み取ったかのよう、顎を上げてからかうよう笑む。アウデンティースは動じない。 はじめから、どちらを選ぶかと問われれば、王としての責務を選んだ。だから、アケルを裏切った。本当は、裏切ったつもりなどない。だが、彼がそう思うのならば甘受する。それが王であることから逃れられない、逃れる気もない自分の咎だと心得ている。 「ここに――」 御使いの心など、わからなかった。それでもアウデンティースは認められたのだとわかる。なぜならば、そこに一振りの剣。それも先ほどまでなかったものだった。 「剣がある」 御使いは言い、一歩、剣の横へとよけた。不可思議な剣だった。鋭い剣なのは、見ればわかる。だがいったい何をどう鍛えたものなのか、見当もつかない。 漆黒の刃。夜空のよう黒く、星のように銀に煌く。黒き御使いが持つに相応しいと言わざるを得ないその剣は、刃の中ほどまでを大地に埋めて突き刺さっていた。 「我が君の剣だ」 恭しいと言うには、どことなく冗談のような気配を滲ませ、御使いは剣の柄頭に触れた。愛撫のよう撫でさするその指に、仕種に、アウデンティースの頬が赤らむ。 「我が君? 神々のお一人と言うことでいいのだろうか」 「好きに解釈すればいい」 「なるほど」 ならばそのように、とアウデンティースは納得し、再び剣に視線を戻す。もう御使いは柄頭に手を乗せているだけだった。 「我が君の剣ならば、あの程度の混沌ごとき、軽々と退けられるだろう、もっとも操り手が人間では多少の苦労はするだろうが」 「苦労ならば厭わん」 「それは重畳。ならば、契約を」 「契約?」 「我が君の剣、そう易々と人間に触れさせてなるものか」 御使いは、けれど笑った。我が君と言うその言葉にも、敬意は微塵も感じない。むしろ、戯れに行きずりの関係を結んだ相手を呼ぶような、甘さと嘲弄。アクィリフェルがいれば、もっとよく理解することができる。それをわずかにアウデンティースは悔やみ、同時に彼がここにいないことに安堵していた。 「我が手による許しを与える。祝福だと、思えばいい」 幾分投げやりな態度ではあったが、所詮相手は御使い。人間の理解の範疇に入り得るものではない。このようなものだろう、アウデンティースは思う。少なくとも、自分の心はこの男を人間ではない、神々の御使いだと認めている。なんら問題はない。手を伸ばし、最前まで御使いが触れていた柄頭に触れる。 ――その寸前。一条の矢がアウデンティースの鼻先を掠めて消えた。 「なに!」 御使いは薄い笑みを浮かべたまま佇むのみ。アウデンティースだけが慌ててそちらを振り返る。そのまま動作を止めて息すら止めた。 「……あなたが、誰かなんかもう、どうでもいいんですよ!」 走りよってくるアクィリフェル。まるで幻のようだった。信じがたくて、目を瞬く。 「もう聞きましたか? その剣に触れれば、あなたは死ねなくなる!」 御使いすら射抜かんばかりのその視線。しかし御使いは莞爾とうなずくばかり。 「ほう。誰に聞いた。いや、何に、と言うべきか?」 「世界に」 「なるほど、な」 短い問いに更に短い答え。呆然とアウデンティースは赤い髪だけを見ていた気がした。 「だが、訂正させてもらおうか。死なないわけではないぞ。仮にも人間。中々それは難しい。為すべきことを為すまでは死ねない、と言うだけのこと。そして為すべきこととは混沌を退けることではない」 「立派な呪いですよ。それで。どうするんですか。触るんですか。あなたはこれを受け入れるんですか。そうでしょうね。これがあなたの国を守るたった一つの機会なんだから。あなたはそうするに決まってる! だから」 ぐい、とアクィリフェルはアウデンティースの手をとった。答えなど、聞くまでもない。アウデンティースが誰であろうとも、この男のことならば、わかっている。 「なにをする!」 柄頭に、手が押し付けられた。痛くも痒くない。ただ、何かが変わっていくのを感じた。魂が、書き換えられていた。アクィリフェルと共に。彼の手もまた、アウデンティースの手を握ったまま、柄頭に触れていた。 「……死ねないなら、やることやらなきゃ死ねないなら、手伝ってあげるって言ってるんですよ!」 決別以来、はじめてかもしれない。至近距離でアクィリフェルが王を見上げていた。あのとき以来、はじめてだった。泣き笑いの顔で、アクィリフェルはアウデンティースを見つめていた。 |