一行は場所を移していた。正確には王を除く三人が、アクィリフェルの住居へと移動していた。
「陛下、大丈夫ですよね」
 若いケインが不安そうに太い枝に立って遠くを見つめる。すでに、王は聖域へと発っていた。どちらかは同行してもよいと言われた騎士たちだったが、マルモルは謝絶し、ケインも結局ここにいる。
「さぁ? 平気じゃないですか」
 無責任なことを言うアクィリフェルにケインは言い返そうとした。が、できなかった。アクィリフェルのその目を見てしまっては。
「アクィリフェルさん」
「なんですか」
「その……。きっと! 大丈夫です! だって陛下ですから!」
「そうですね」
 淡々と励ましにも応えずアクィリフェルは自分の住処である樹上の小屋からケインの見ていた方角を見つめていた。
 聖域。いまアウデンティースはどこにいるのだろう。夜明けには聖域へ到着するよう、この夜の暗い道を歩いている国王が目に浮かぶようだった。
「ほら、だって、その。アクィリフェルさんのお父さんだってついてるし!」
「長が案内するのは聖域の入り口までですよ」
「う……でも!」
 なんとか励まそうとして、けれどそれ以上は何も言えなくなった。いつもと同じようなアクィリフェル。だが決定的に覇気がない。すごすごと部屋の中へと戻っていく。
 アクィリフェルはまだそこに立ち尽くし、聖域を見通そうと見つめていた。いつの間にか拳が握られる。
「父さん……」
 長が案内をするのは異例ではないとでも言うつもりか。長が慣例を破るならば、自分だって。
 思った途端に、卑怯だと思う。わかっていた。父が慣例を破ったのは、更なる異例を作らないため。アクィリフェルが無理やり同行しないため。
「でも」
 不安だった。たまらなく不安だった。何かが間違っている。今ここに自分がいていいはずがない。自分のいるべき場所はここではなく。
「――なのに」
 国王の傍らなのに。あるいは、アウデンティースの側なのに。言おうとした唇は、別の言葉を形作り、そしてアクィリフェルにも意識させず、風に消えた。
 それでも自分の声を自分で聞いた。懐かしいあの呼び名。瞼の裏に蘇るあの指輪。握り締めた拳を苛々と開き、また握る。決心が、つかない。
「アクィリフェル」
 呼び捨てられ、振り返る。そこに立っているのがアウデンティースででもあるかのよう、錯覚した。別人が呼んでいることは見るまでもなくわかっていたのに。
「どうしました。騎士殿」
 国王を一人で送り出してしまったことへの後悔だろうか。憔悴したマルモルがそこにいる。だが、いい顔をしている、不意にアクィリフェルはなぜかそう思った。
「聞きたいことがある」
「なんですか」
「お前は、狩人だろうか?」
「はい?」
 自分でも間抜けな答えだと思った。けれどマルモルが何を尋ねているのかが理解できない。自分はこの禁断の山の狩人だと再三言っていたはずではないか。
「アクィリフェル」
 マルモルがどうしようもないとばかり首を振った。別の男の影がマルモルを覆う。ぎゅっと拳を握り締め、アクィリフェルは微笑んで見せた。
「騎士殿。いったいなにが言いたいんですか? 僕にわかるようはっきり言ってくださらなきゃ困ります」
「そうか? ならば言おう。お前は狩人か?」
「ですから――!」
「それとも、予言の導き手か?」
 アクィリフェルの言葉など聞こうともしないで叩きつけられたマルモルの声。アクィリフェルは息を飲む。
「もしもお前が予言の導き手ならば。予言の導き手は何を言う?」
「僕は――」
 耳を澄ます。とっくに聞いていた世界の声。聞くまでもない。確かめるまでもない。
「導き手ならば、ここにいるべきではない……」
「私はそれを信じるが?」
「……まるで」
「陛下の言葉のようだとでも? まぁ、実際そうだろうな」
「もしかして」
「誤解は困る」
 ひらりと片手を顔の前で振る。表情を隠したようにも見えたけれど、その向こうでたとえようもない渋面が見えて無駄だった。
「私は近衛騎士だ。陛下のお考えを忖度することに慣れている。だからこうも思う。同時に陛下はここに留まって欲しいと願っている、とも」
 奇妙なことに、アクィリフェルは納得した。アルハイド国王アウデンティースは、アクィリフェルにここに留まれと言っている。危険かもしれない場所に、予言の導き手を、アルハイドを救う重要な駒をさらすわけにはいかないと。
 同時にラウルスは言っている。自分の側にいてくれと。理由などわからない。なくてもかまわない。ただ、側にいてくれと。
 アクィリフェルは笑った。先ほどのような作り物の笑みではなく、心から。何度も握った拳をまた握る。
「騎士殿。僕はここにいますよ?」
 にっこり笑ってそう告げれば、眉を上げたマルモルもまた、にやりと笑う。それから黙って部屋の中へと戻っていった。
 アクィリフェルは自分の装備を確かめる。狩人でよかったと心の底から思った。すぐにでも戦えるだけの準備ができあがっている。
「よし」
 ちらりと部屋を振り返れば、騎士たちは室内で静かにしてはいなかった。勝手に部屋の中の物を漁り、酒宴をはじめているらしい。
「意外だな」
 マルモルの芸達者ぶりに意表をつかれ、アクィリフェルはもう一度笑みをこぼす。朝までは、あれで周囲の目を誤魔化してくれるつもりだろう。
 思えばはじめからそのつもりだったのかもしれない。だからこそ、大事な大事な国王の側をマルモルは離れてくれた。
「行ってきます」
 小さく騎士たちに向かって頭を下げ、アクィリフェルは音も立てずに木から飛び降りる。軽々と降り立ち、気配すら断つ。素早く走り出しても枯葉一枚舞い上がらなかった。
 ――道は。
 どこを通っただろう。静かな呼吸だけをもしも聞き取れるものがいたとしても、決して走っている者のそれだとは思わないに違いない。
 しかしそれは禁断の山の狩人にしても目を疑うような全力疾走だった。道なき道を、それも明かりのない夜の山道をまるで妖精のように駆けていく。警戒心の強い山の獣にすら気配を掴ませず。
 ――父さんなら。どこを選ぶ? 連れているのは国王だ。父さんは知らない。あの人は、ただの国王じゃない。
 そこはかとない笑みがアクィリフェルの唇に浮かんで消える。狩人の長は間違いなく平易な道を案内しているだろう。
 アクィリフェルは別の道を選ぶ。途中で捕まってしまっては、元も子もない。走りながら考える。
 ――どうして。
 自分は同行を選んだ。呼んでいるのは、国王ではない。それはとっくに感じている。アルハイドを救うために、走っているのではない。
 ――呼んでいるのは。
 ラウルスが、呼んでいる。決して本人も認めないだろう。自分だとて認めたくない。けれど、呼んでいる。だから行く。
 信じられなかった。彼が呼んでいるから。ただそれだけのことでこんな危険を冒している自分が。禁断の山を放逐されることはすでに覚悟した。
 長の言いつけを破り、そもそも掟を破った自分だ。ならば、狩人であれるはずもない。それが、たまらなく不安。そのはずが。
 ――意外と、平気だな。
 皮肉に唇を吊り上げれば、引きつったような笑み。もしも自分が、自分たちがあのころのようであったならば、それは歓迎するべき事態だったろうか。
 狩人の責務から否応なく逃れてしまえば、自分はラウルスの側にいることができる。
 ちらりとそのようなことを考え、疾走しながらもアクィリフェルは首を振る。そうではなかった。何が違うかなど、よくわからない。でも、そうではないことだけは、わかる。
「狩人も、導き手も」
 初めて口に出し、呼吸が一瞬だけ乱れた。整え、前を見る。足元など、見てもいなかった。けれど、聞いていた。
 山の声を。大地の音を。世界の歌を。それがある限り、アクィリフェルにとって夜の山道も真昼の大通りも違いはない。
「僕は、アウデンティースが嫌いだ」
 確かめるよう、あえて口に出した。耳が聞き取る苦い真実。
 小さく息を吐き出して、それでもまだそちらの決心だけはどうしてもつかず、とにかくいまは走るだけ。
 不意にアクィリフェルは顔を上げた。まだ暗い。夜明け前のなお深い闇。薄れるつつある気配のみを聞く。
 音もなく木の上に舞い上がる。小さく歌った。とても今まで走っていた者の声ではない。否。人間の声ではない。では妖精の声か。それも違う。
 聖域の入り口からの戻り道。たった一箇所だけのその道を、長とその一行が引き返してくる。アウデンティースはいない。
 アクィリフェルは歌いながら、それを見ているようで見ていない。見ていないようで見ていた。彼らの耳にも届いているはずだった、アクィリフェルの歌は。
 木々の間で小鳥が目覚めの歌を歌う。風が吹きぬけ、草が鳴る。獣の足音。狩人の足音に驚いたのだろう、兎が草むらに逃げていく。
 長たちは、その音を聞き逃してなどいなかった。姿を現す前から兎を見つけていた狩人の一人が、矢を放つ。そうして確かに射止めたのだから、聞こえていたのだ。
 それなのに、アクィリフェルの歌だけが聞こえない。そこに彼がいることが彼らには見えない。枝に立ったまま、世界を歌うアクィリフェルの姿は、正にこの世界と同化していた。
 余計なことは考えず、アクィリフェルは歌いながら枝から飛び降りる。その音にも彼らは振り返らない。聖域への入り口をアクィリフェルが走り抜けても、彼らは気づきもしなかった。




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