それは確かに樹上の町だった。シャルマーク地方の豊かな自然の中で育ったアウデンティースですら見たことがないほどの大木。その枝々に家が建っていた。建っている、と言うよりは掛けている、のほうが正しいのかもしれない。 「なんと……!」 マルモルが感嘆の声を上げる。来客の声に気づいたのか、狩人の一人が窓から手を出してはアクィリフェルに向かって振っていた。 「本当に家だ!」 口を開け放しだったケインが驚いて叫んでは樹上の狩人に笑われていた。 「行きますよ」 なんでもないことのように言うアクィリフェルに、騎士と王は揃って疑いの目を向ける。 「狩人」 「なんですか、マルモル殿」 「ここを、上がるのか?」 「他にどこを? それと、別に僕はかまいませんが、ここにいるのは全員狩人ですよ。騎士殿の呼び方だと、全員が振り返ります、たぶん」 にっと笑って言うアクィリフェルを視界に収め、アウデンティースは何度目かになる殺意を抑え込む。自分の身を守る近衛騎士の一人を殺してやりたいと思うなど理不尽だとわかってはいる。逆に、王の命ならば殺せるとも思っている。その自分が、たまらなくいやだった。 「ぬ。それは、困るな。いや……それはそれとして、だな」 慌てるマルモルにアクィリフェルはもう一度笑い、頭上に向かって口笛を吹く。待ち構えていたかのよう、縄梯子が降ってきた。 「念のために伺いますが、登れない、なんてことはないですよね?」 「無論だ!」 力強く言ったマルモルと違ってケインはいささか心許なさそうな顔をしている。己の鍛錬不足は認識しているらしい。 「では僕がまず登りますからマルモル殿、続いてください。次に陛下。ケイン殿、落ちるなら一人でどうぞ」 「酷いです!」 「巻き添えにしたいんですか、あなたの王を?」 「う……いや、その」 「ではそういうことで」 あっさりと言ったアクィリフェルに、少しだけマルモルは疑念を持った。彼は尋ねなかった、アウデンティースが縄梯子を登れるのかとは一度も。仮にも国王、このようなものに縁があるはずはない。だがまるでアクィリフェルはアウデンティースならばなんの問題もないと知っているかのよう、無言だった。 たとえマルモルがそれを問い質すつもりであったとしても、アクィリフェルはもうするすると登ってしまっていた。片手を離してまだ登ってこない面々に手招きまでしている。 「お先に失礼いたします、陛下」 形の上では、マルモルは斥候だった。アクィリフェルの故郷とはいえ、自分たちの知らない場所に国王を先行させるわけにはいかない。騎士の考えを察して順序を指示してくれたアクィリフェルにマルモルは内心で感謝を送っていた。 当然といおうか、やはり最も手間取ったのはケインだった。アクィリフェルは心の中でうなずいている。やはり、あの男だと。自力で木に登り、窓に飛び移るほどの体術があるならば縄梯子くらいどうと言うことはない。思った途端、彼は違う、と否定する。 何度繰り返しただろう、この無駄なことを。妖精郷での出来事が脳裏をよぎる。あの指輪。そして小さな馬。あの馬のようだったはずの過去の自分たち。思い出して、忘れたくて、そうもできずに首を振った。 「入りますよ」 物珍しそうに辺りを見回している王と騎士を尻目にアクィリフェルは扉の前に立っていた。これでも多少は緊張しているのだが、そうは見えないことも知っている。 中からわずかな物音が聞こえてきて、入室を許されたのだと知る。振り返って同行者たちを手招き扉を開ければまた背後から感嘆の声。 「なんと……素晴らしい……」 外から見れば、樹上の小屋としか見えないものだった。だが内部は美しく飾られている。都市の美しさではない。手仕事の美だった。 壁を覆っているのは樹皮か葉だろうか、乾かしたそれを丹念に編んだものだったが、その編み目があまりにも複雑で単色にもかかわらず模様がはっきりと浮かび上がる。樹上にあるのだから、当然のことだったが、広くはない。天井も高くはない。そのせいだろう、床に直接腰を下ろすようになっている。が、その床と言うのがまた不思議だった。まるで生きた羊に座ってでもいるような心地、というのだろうか。柔らかく暖かい。座りやすいように、と散らされた小さなクッションにもまた丹精こめた手仕事のあとがある。 「ようこそおいでくださいました」 この家の主だろうか、中年を過ぎた婦人が頭を下げる。長い白のベールで頭から腰の辺りまでを覆っていて、表情はまったく窺えなかった。 「はじめてお目にかかる。アルハイド王アウデンティースだ」 「これはこれはご丁寧に。もう長も戻るころですわ。どうぞおくつろぎくださいませ」 言いつつ女はおそらく声音からして笑みを浮かべているのだろう態度で頭を下げる。 「アクィリフェル」 疑問に思うことが多々あるのだろうアウデンティースの表情だったが、彼はかまわなかった。放っておいて女に向かう。 「ただいま戻りました」 「おかえりなさい。私の息子」 「なんだって!」 声が揃って背後から三つ、聞こえた。渋い顔で振り返るアクィリフェルにもなんのその、一斉に問い質そうとするのをアクィリフェルが手で制する。 「幻視者のテイラです。ちなみに母です。何か他に疑問は?」 「……先に言え!」 「先に言ってどうするんですか。あなたが僕の母になんの用があるんですか」 剣でも突きつけているようなひやりとした声だった。思わず退いてしまったのをアウデンティースは深く悔いる。 「アクィリフェル。私の息子。顔を見せてちょうだい」 さすがに母親と言うべきか、まったく動じた様子もなく息子を手招く。その姿にアウデンティースは疑問を覚える。 「ずいぶんと逞しくなったわ」 「山を離れていたのは短い間ですよ」 「それでもよ。あなたに何があったのかしら。聞かせてくれる?」 「話せることも話せないことも。それから話したくないことも」 「いいわ、それで」 にっこりと微笑んでいるらしい姿。だがテイラは決してベールを取ろうとはしなかった。それが禁断の山の習慣なのかもしれない。が、それにしても多少は不自然だった。 「不思議ですか」 テイラのほうを見つめたまま、と言うよりは母に頬や肩を触られるままにアクィリフェルは背後に問う。むしろ王に問う。 「あぁ」 短い王の答えにアクィリフェルは悟られたとばかり唇を噛む。何を言うでもなく息子を見上げたテイラが仄かに笑みを浮かべた。何より雄弁で、アクィリフェルは顔を顰める。 「幻視者は、神々に目を捧げるのですよ」 テイラが言う。その間も息子をしっかりと触っていた。一見、過度な愛情にも思えるほどに。 「つまり、母は目が見えないんですよ」 小さな呻き声はマルモルのものらしい。自分の態度に何か落ち度を見つけたのだろう。アクィリフェルは何も感じなかったのだが、騎士には騎士の何かがあるらしい。 「大変失礼をした、テイラ殿」 案の定マルモルが言えばテイラは首をかしげ、ようやく息子を解放する。むしろアクィリフェルにはそのほうがありがたかった。 「無礼を受けた覚えはありませんよ。ですが、お名前をお聞かせくださいな」 「なんと! これも失礼だった。マルモルと申す。陛下の近衛騎士隊のひとつを預かっている」 「ケインと申します。マルモル隊長の部下です」 「頼もしいお声が隊長さんで、可愛らしい声がケインさんね、覚えたわ。改めてようこそ」 可愛らしい、と呼ばれたケインががっくりと肩を落とすのにアクィリフェルは唇を噛みしめて笑いをこらえる。 「お母さん、聞きたいことがあるんですが」 騎士にも王にも不思議だっただろう、樹上の小屋なのにアクィリフェルは薬缶を取り上げて茶を入れる。 さすがに暖炉やかまどと言うわけにはいかないから、移動可能な火鉢がこの町の家での火の元だ。大抵の者はこれで器用に料理を作る。 そんなものを見たことがない騎士たちは目を丸くしている。が、王は納得していた。アクィリフェルには声を聞かなくともその表情でわかってしまった。あるいはかつてどこかで目にしたことがあるのかもしれない、このような道具を。 「……シャルマーク育ちでな」 ぽつりと言った王に騎士たちが揃って目を向け、なんのことだとでも言いたそうに首をかしげる。アクィリフェルだけが自分に向けられた言葉だと知った。 「なんですか、アクィリフェル。母としての私に答えられることですか?」 熱い茶を手に持たせれば、テイラは笑ってそう言う。答えなど、だから最初からわかっているのだ彼女には。 「では幻視者としてのあなたに。アウデンティース王をお呼びしますか?」 もうここにきているのに、とは彼らは言わなかった。神々の呼び出しを幻視者が感じたのか、そしてそれを伝えるべき相手が王なのか。それをアクィリフェルは正式に問うていた。それを感じ取れない彼らではなかった。自然と居住まいを正してテイラを見つめる。 「えぇ」 にっこりとテイラが笑った。ベール越しでもはっきりとそれがわかる。小さく息をついたアウデンティースと違ってケインはあからさまなほどに強く息を吐き出した。 「アクィリフェル。あなたは問題を抱えていますね」 「聖域に関して、色々と」 「それから?」 「幻視者の手を煩わせるような問題ではありませんよ」 「つまり、個人的なことね?」 騎士たちは珍しいものを目にした。あのアクィリフェルが言葉に詰まって言い返せないでいる。彼は長く深い溜息をつきつつ白状した。 「非常に遺憾ながら、そういうことです。だからお母さん、口出ししないでくださいよ」 もちろんよ、言ったテイラの声にアウデンティースこそが背中に冷や汗をかいていた。 |