礼はいずれ取り立てる、と笑って送り出した女王に見送られ、二人は妖精郷を後にする。あれは冗談だろうか、とアウデンティースは思わないでもないのだが、妖精の助力に礼をしなかった男の末路を語る昔話を思い出してはあながち冗談でもなかったのかもしれない、とわずかに疲れを覚える。 「ここ、どこなんですか。陛下」 隣を歩くアクィリフェルが皮肉に問うのにアウデンティースはただ首を振る。 「なるほど。まったくわからないと言うことですね。立派なことです」 「お前な……」 「なにか? 仰りたいことがあればどうぞご自由に。僕は陛下の道具ですから」 思わずアウデンティースは真正面からアクィリフェルを見つめてしまった。淡々とした表情のはずが、なぜか揺れる思いを見て取れる。 「失礼ですが、陛下。僕は陛下に見つめられて喜ぶような趣味を持っていません。どうぞ前を向いていただけませんか」 今までの彼ならば、それを叩きつけるように、あるいは平静に言っただろう。導き手の耳を持っていなくとも、その程度のことは聞き分けられる。 だが今アクィリフェルの声はわずかではあった、聞き間違いほどのものでもあった。けれどしかし、確かに揺らいでいた。 「……そうしよう」 不思議と、それを問うてはならない、とアウデンティースは確信していた。怒らせるためにしていた数々のこと。 だがこれを問うては決定的に憎まれる。憎まれたいはずなのに、それができない自分を内心で王は嗤った。 「まだだな」 呟いて前を見る。妖精郷に入るのは楽なものだった。女王に呼ばれたのだから当然だ。帰るのも見送りを受けているのだから楽なはずなのだけれど、周囲は霧に閉ざされて前に進んでいるのか堂々巡りをしているのか定かではない。 「わかるんですか」 「勘だな」 「いい加減な」 ぼそりと呟き、アクィリフェルは弓に手をかける。不安を覚えたのだろう。 「アクィリフェル」 「なんですか」 「手を離せ」 弓を握った途端、どことなく霧が冷えたような気がした。アウデンティースはそれを女王の不快ととる。 「……なるほど」 「信用してくれてありがたいことだな」 「陛下を信用したんじゃありませんから。僕はティルナノーグの女王を信頼申し上げただけです!」 「それだ」 「はい?」 「なぜティルナノーグなんだ?」 アクィリフェルはメイブ女王に目通りして以来、そのように呼んでいる。アルハイド国王としては是非その辺りを聞いておきたいと思うアウデンティースだった。 「なぜ……と言われても」 「禁断の山ではそのように言い伝えるのか?」 「そうです。王国でかの地を妖精郷と言うように、僕らはティルナノーグと呼ぶ、それだけですが」 心底困ったように言うアクィリフェルに、一瞬かつてのアケルを見た思いがしてアウデンティースは黙った。 それを感じたのだろう、アクィリフェルはむっつりと黙り込む。霧より濃いよそよそしさが二人の間に流れたのに、霧のほうは突如として消えた。 「……なんだ?」 呆然と声を上げるアウデンティースに、アクィリフェルは目を向けない。女王に咎められようとも剣を取る。 咄嗟の判断でそうした自分に忌々しさを感じ、自らの心に言い訳をする。ティリア姫に王を頼むと依頼されたからだ、と。いままで思い出しもしなかったことだった。 「陛下!」 悲鳴のような叫び声。呆気にとられていたアウデンティースとは違い、アクィリフェルは即座にその声を聞き分ける。 「カーソン卿!」 「なんと、狩人。そなたはもういいのか。いったい何があった、はよう説明せい!」 「待て、カーソン」 「おぉ、陛下。よくぞご無事で。いったい何がありましたのかこのカーソン、伺うまでは陛下をお放しいたしませんぞ!」 国王と狩人に同じことを言って詰め寄るカーソンにアウデンティースは苦笑する。横目で見ればアクィリフェルも苦笑していた。 「とにかく、まずは中に入れてくれ」 冗談のようだった。先ほどの霧はなんだったのか、とアウデンティースは頭を抱えたくなる。 そこはあのとき飛び出したカーソンの屋敷の庭先だった。あるいは、アウデンティースは思う。少しでも話をしろ、と言う女王の心遣いであったのかもしれない、と。よけいなことをしてくれる、と心の中で密やかに毒づいた。 「これはこれはご無礼を。ささ、おいでくださいませ」 室内には、飛び出し損ねたらしいマルモルが目を真っ赤にして立ち尽くしていた。よほど心配したのだろう、げっそりと頬がこけている。 「マルモル」 だがアウデンティースは名を呼んだだけだった。騎士はこくりとうなずき、そして目を瞬く。安堵の溜息がその場の全員に聞こえた。 「陛下――」 滑るよう近づいてきたのはあのカーソンの騎士、ファロウだった。アウデンティースの目が冷ややかになる。 そう思ったときにはもうアクィリフェルは前に進み出ていた。彼を庇うためではない、と心に言い聞かせつつ。 「ファロウ殿、ご迷惑をおかけしました」 騎士が何を言うより先に自分が頭を下げる。そうすれば王は騎士に怒りを見せることはないだろう。そう思ったアクィリフェルの考えは当たっていて、外れていた。 「まず、己の所業の釈明をするがいい、ファロウ」 所業も何もリュートの弦を切っただけではないか、とアクィリフェルは心の中で王を罵る。ちらりと首だけ振り向けてカーソンを探せば、国王の仰せこそ当然、と言う顔をして控えていた。 「陛下、いいですか?」 「黙れ、アクィリフェル」 「いいから、少しは人の話を聞いてください! ファロウ殿、何か話してくれませんか?」 「は――?」 「何でもいいです。ご自分の名前でも何でもいいですから、僕に声を聞かせてください。早く!」 その勢いに圧されたのだろうか、ファロウがぼそりと名乗り、声が小さい、とアクィリフェルに怒鳴られやり直す羽目になる。 「やっぱりね」 「説明――」 「します、わかってますから、順番を待っていただけませんか、陛下」 言いながらアクィリフェルは困ったように頬をかく。そんな傍若無人とも言える狩人の態度に慣れてはいたけれど、今更ながらマルモルは肝を冷やした。 「……この人は、ものすごく忠実で、良いお人なんです」 「それがどうした。釈明になっていない」 「別に僕がファロウ殿の釈明をするつもりはないですから。ただの事実として申し上げてます」 「ならば――」 「まだ話は終わってません! 良いお人で、しかも優しい。……ですから、あれはただ僕の悪意に感応してしまっただけです。たぶん」 言いたくないことを渋々言わねばならないとき、人は誰しもこのような口調になるだろう。アクィリフェルは歯切れ悪く言って、そして王から目をそらす。 ファロウが感応した真の理由。メディナの地にあるもの。混沌。アクィリフェルはそれを悟っていた。いくら敏感な人間であろうとも、ただそこにいるだけで悪意に染まるはずもない。 「非常に認めたくはないですが、ファロウ殿のなさったことは、言ってみれば僕の自業自得です。庇うわけでも釈明するわけでもありません、ただの事実です。ご理解いただけましたでしょうか、陛下?」 いっそその声音の皮肉を樽詰めにしたら混沌だろうがなんだろうか一息で退却させうることが可能だろうほど辛辣な声だと、王は内心で小さく微笑む。ふいにアケルらしいと思った。あの日々のアケルの明るく華やかな声ではなかったけれど。 「なるほど、な」 けれどアウデンティースはその声よりアクィリフェルが事実上ファロウを庇った、と言う一点が気に入らなかった。 もっとも、それを表情に出すほど愚かではない。国王としてあるべき顔を保ちつつ、ファロウを見やる。 「陛下、私は――」 アクィリフェルが何を言っているのか騎士にはわからなかったのだろう。意味のわからない言葉に翻弄されて戸惑っていた。 そしてアクィリフェルは気づいてしまう。自分の言葉の意味を、正確にアウデンティースが汲み取って見せたことに。苛立ちが、拳を握らせる。 「よい、わかった。咎め立てはせん。むしろ、咎めるべきはアクィリフェルにある」 「なんと、陛下! それは納得できませんぞ。不肖陛下の騎士マルモル、諫言すべき立場ではありませんが申し上げます。狩人は――」 「マルモル、説教ならば後で聞く。いいな、アクィリフェル」 「結構ですよ。反省してますから」 その態度のどこがだ、とカーソン卿もファロウも思ったことだろう。 だがマルモルは意外に思う。意識を失くしたアクィリフェルを抱えて出て行く前よりも、なぜか二人の間に温もりがある気がした。 「ところで陛下。陛下のせいで僕は髪を切られた気がするんですが」 アクィリフェルがわざとらしく摘んで見せた赤い髪は、確かに一房ほど切り取られていた。言い立てるほどではないそれにアウデンティースが顔を顰める。 「参考までに聞くが、お前は感謝や謝罪と言う言葉を知っているのか」 「言葉は知っていますが、どうかしましたか?」 顎を上げて、傲岸不遜に言ってのけたアクィリフェルに、マルモルは小さく溜息をつく。温もりがあるなど、ずいぶんな気のせいだった。 「おぉ、陛下の御髪はいかがなされましたか!」 たったいま気づいたのだろうカーソンが大仰に声を上げる。アクィリフェルはとっくに気づいていたな、と心の内で溜息をついた。 「いやなに、妖精の悪戯、と言うところか」 「陛下のせいですから」 「認めなくはないが、まぁ……」 言葉を濁した王をマルモルは苦笑したのだと思った。他の誰もが。アクィリフェルだけが、思い出したのだと気づく。 アウデンティースが彫り、サティーが命を吹き込んだあの小さな馬を。寄り添い駆けていく互いの色彩。 |