ぬくもりの中で目覚めた。懐かしく、二度と手放したくない温かさ。すがろうとして、不意に気づく。失ってしまったはずのもの。
「――なにを、しているんですか」
 目を開ける前からわかっていたこと。ラウルスの、否、アウデンティースの腕の中だった。
「離してください。僕はあなたに馴れ馴れしくされる覚えなんか、ないはずです。陛下」
 衝撃からいまだ立ち直れないアクィリフェルの声は、自分でそれとわかるほどに震えていた。そのことにいっそうの屈辱を覚える。
「できるものならばそうしている。……周りを見ろ」
 少しばかり苦い声。如実に後悔の音色を聞き取ることができたけれど、何に対する後悔なのかまでは、アクィリフェルにもわからなかった。
「周りって……」
 言われて見回す。そしてぎょっと身をすくめた拍子に、アウデンティースにすがりついてしまった自分がいやになる。
 周囲には、サティーがこれでもかと言うほどたかっていた。ぎゅうぎゅうと身を寄せ合い、押し付けあってアクィリフェルを覗き込んでいる。
「目が覚めたのなの。よかったのなの!」
「うふふ、起きた、起きた。よかったね。びっくりしたの」
 口々に言い、また身を乗り出してくる。嬉しいと感じるより先に、なにがなんだかわからない。
「ピーノ、キノ! いいから少し下がれ」
 アウデンティースはアクィリフェルをより強く抱き寄せ、サティー族を片手で追いやる。その程度でめげる彼らではなかったが。
「……だから、離してください、と言っています。聞こえないんですか」
「まだ言うか。できるものならばそうしている、と言っているだろう」
「だから!」
 もう一度アクィリフェルは自分とサティーを見つめる。アウデンティースの膝の上に抱きかかえられた自分。見つめるだけで全身が痛む。
 それをみっしりと隙間なく取り囲む名も知らぬサティーたち。確かに身動きする隙間もない。それでも、認めたくなかった。
「どうして、陛下が僕をこんな目にあわせているのか、ご説明いただきたいものですね!」
 八つ当たりとわかっていてなお、叫ばずにはいられない。黙っていては自らの正気を疑いたくなってくる。だからアクィリフェルは渾身の力をこめて叫ぶ。それなのに、声は掠れて小さかった。
「それは私の台詞だ。サティーが倒れているお前を見つけて知らせにきた。拾いに行って戻ったら、この様だ。アクィリフェル。何があった」
「――何も。何もないです。えぇ、何かがあったりするはずがないです!」
「それは、何かがあった、と言っているも同然だと思うが?」
「人の言葉を曲解しないでいただきたい!」
 言い様に、顔をそむける。その途端にくりくりとしたサティーの可愛らしい目と視線があって、ばつが悪くなる。
「何も、ありませんでした。本当に」
 うつむいて言えば言うほど、自分の耳に嘘が聞こえる。アウデンティースにも、わかってしまうだろう。そう思えばもう何もできなかった。
 アウデンティースは、知っただろうか。自分が覗いてしまったことを。今もまだ彼があの指輪を持っていると、知ってしまったことに気づいただろうか。アクィリフェルは小さく身を震わせ、それにだけは気づかれたくない、と拳を握る。
「アクィリフェル」
「何もなかったと言っているでしょう!」
 怒鳴った途端だった。怒りか屈辱か、それとも別の何かか。アクィリフェルの目から大粒の涙があふれる。
「おい――」
 アクィリフェルはアウデンティースの腕の中で声もなく泣き出した。身を震わせ、自分の体が消えてしまえばいいとでも言うよう、縮こまる。アウデンティースにすがろうとはせず。
 だからあえてアウデンティースは彼を抱きしめた。まるで、あの頃のように、彼がその頃を思い出すように。
「やめてください――!」
 だから、離さない。きつく抱きしめれば、嗚咽が上がる。子供のように泣きじゃくるアクィリフェルは自分を憎むだろう。過去を思い出させた自分を憎悪すればいい。
 アウデンティースの口許に皮肉な笑みが、けれど目には悲哀が浮かぶ。抱きしめたアクィリフェルの燃えるような髪に顔を埋めて、自らの心をその手で切り刻む。
「どうしたのなの? 痛いのなの?」
 強引に身を乗り出してアクィリフェルを覗き込んだキノに、彼は目を向ける。しゃくりあげて泣きながら。
「泣いてるのなの、こっちのお客様が酷いのなの? 仕返し、してあげるのなの?」
 乗り出したキノがアクィリフェルに顔を近づける。不意に舌先でぺろりと彼の涙を舐めた。
「よさんか」
 苦々しげにアウデンティースは言い、指で思い切りキノの額を弾く。いっそ殴りつけたかったが、一応は客の身。そこまではしかねた。
「痛いのなのー!」
 ひょこりと飛び上がってキノが喚く。わいわいとサティーたちが笑った。可愛らしく、賑やかなその光景に、けれどアクィリフェルは泣き止まない。
 サティーたちを見ていられなくて、アクィリフェルは目をそらす。そらした先にはアウデンティースの胸があった。
 すがりたい。ラウルスではない。王は、ラウルスでもある。認めたくない。布一枚向こう側、あの真鍮の指輪がある。信じたくない。
 逡巡する彼をアウデンティースは有無を言わせず抱き寄せる。嫌がって身をよじるくせ、泣きながらアクィリフェルは安堵の溜息をついていた。
「あなたは、違うのに!」
「なにがだ。それではわからん」
 本当は、わかっていたのかもしれない、アウデンティースにも。今ここでは、彼と二人きりでいる今だけは、ラウルスに戻ればよかったのかもしれない。そう思っても、できなかった、アウデンティース王には。
「ラウルスじゃないのに。あなたに、殺されたのに!」
 ラウルスが、アルハイド王であると知った瞬間、アクィリフェルの中で彼は死んだ。そう口にされた言葉のあまりの的確さにアウデンティースは唇を歪める。
「僕のラウルスは、あなたに殺されたのに!」
 衝撃が、胸を貫いた。アクィリフェルにそれほどまでに愛されていた。いまなお、本人が認めずとも愛されている。否、一瞬はそう思ったアウデンティースではあったが、即座に否定する。アクィリフェルが愛していたのは、ラウルス。アウデンティース王ではない。今ここにいる自分ではない。
「愛していたのに。本当に、あなたがいればそれでよかったくらい、好きだったのに! それなのに、僕はただの道具だった!」
 アクィリフェルは自分でももう何を言っているかわからなかった。言葉をぶつけているのがアウデンティースなのか、それともラウルスなのか。そもそも同じ人間だとどこかでわかってはいた。
「確かにな」
 ふとアウデンティースが呟くよう言う。短い言葉の重さにアクィリフェルは王を見上げる。
「――お前が意識を失ってここに運ばれたとき、女王が気付けをしてくれた」
 覚えているか、とでも言うよう王は彼の目をわずかに覗いてすぐさまそらす。
「気付け薬を飲ませる前、女王は言った。愛しい人の声ならば、お前の心に届くと、目を覚まさせることができると」
 ひくりと腕の中でアクィリフェルが震えたのを感じ、抱きしめる。彼は抵抗すらせず、硬くなっていた。
「俺は……いや、私は試さなかった」
 届かなかったら。そう不安に思ったのかもしれない。仄かに胸の中を何かが満たすのを覚え、アクィリフェルは額を王の胸に寄せる。
「私はお前の恋人でもなんでもない。お前は我が道具。試す資格がどこにある」
 そのまま。アクィリフェルは動けなかった。声の中に聞こえた真実。いやでも感じた。聞こえたくないのに、理解した。
「あなたなんか、嫌いです」
「好きなだけ憎めばいい。道具に憎まれようとなんら問題はない」
「あなたなんか、大嫌いだ!」
 自分の声でアウデンティースの声を掻き消したかった。それなのに、心の中にこだまして、何度も何度も反響して、繰り返し繰り返し響き渡る。
 額を寄せた胸に、今もかかっているあの指輪。奪い取って、捨ててしまいたい。憎かった。アウデンティースではなく、アケルが。過去の自分が。これほどまでに愛されている、あのころの自分が。いまもなお、こんなにも。
 泣きじゃくりながら、自分の手が痛くなるほどアクィリフェルは王の胸を拳で打つ。黙って甘受する王の心など斟酌せず。
「あなたなんか、大嫌い! 僕をめちゃくちゃにして、あなたなんか――!」
 不意にその拳をアウデンティースは受け止める。そのまま手首を掴んだ。
「離して!」
「いいからちょっと黙れ。サティーが、おかしい」
 やっとアクィリフェルも気づいた。アウデンティースに抱かれたまま首だけ振り返れば、天真爛漫なサティー族の無垢な笑顔がそこにない。遠い目をし、しかし凛とした表情で何かを見つめていた。
 泣き濡れた目から涙を払いたくて瞬きを繰り返せば、手首を離したアウデンティースの腕が伸びてきて涙を拭った。厭わしく思うより、不安が勝った。知らず王に寄り添えば、腕の中に守られる。
「……道具じゃ、ないんですか」
「そんなことを言っている場合か?」
「でも」
「いいから、黙れ」
 無理やりに黙らされて、本当は少しだけ、嬉しかった。その嬉しい理由もそう感じた自分も認めたくなくて、アクィリフェルは結局アウデンティースの言うとおりに黙る。サティーが空を仰いだ。

  黒き御使い降り立ち 王の剣授けん
  寿がれし王の剣 猛き鷲に祝福を与えん

 合図もないのに、乱れもせずに揃った声がぱたりと止まる。途端にきゃいきゃいと声が上がる。もういつものサティーたちだった。
「……何が、今のは」
「知るか」
「無責任な!」
 振り返り、アウデンティースを見つめる。一瞬だけ、ラウルスの声に聞こえた。無造作な、権威とはかけ離れたあの頃の声。振り返った先にあったのは、アルハイド王の表情だった。




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