ハイドラと歩くのは楽しかった。陽気な笑い声と巧みな話術に、いまだいたたまれなさを抱えていたアクィリフェルにもようやく笑みが浮かぶ。 「あっちですよ」 そう言われたときにも特に不審を覚えはしなかった。森の小道に入るとき、普段の彼ならばもう少し警戒をしたかもしれない。 「あ――」 そう気づいたのはすでに森の奥深くに達してから。自分自身の気の緩みにアクィリフェルは密やかに苦笑する。 「どうしましたのさ、お客人」 「いいえ、なんでもないです」 「本当に?」 覗き込んでくる眼差しに、一瞬ラウルスの面影を見た。彼女が彼に似ているわけではない。ただ、その仕種。咄嗟にアクィリフェルは体を引いて首を振る。 「本当にどうしましたのさ? 森はお好きじゃなかったですかねぇ」 「いいえ、本当になんでもないです。気にしないでください。森ですか、えぇ、好きですよ」 「そうですよねぇ、だってお客人は禁断の山の狩人ですものねぇ」 口許にしなやかな指先を当て、ハイドラは笑った。不意にアクィリフェルは首をかしげる。何か不思議な気がした。 「お客人?」 「いえ、その。僕は禁断の山の狩人だって、言いましたっけ?」 「いやですよう、さっき聞いたじゃないですか」 アクィリフェルの肩先を軽く打つふりをしつつハイドラは笑って身をくねらせる。だがやはり、アクィリフェルは告げた記憶がなかった。 「まぁ、いいですけど」 いずれにせよ、妖精郷の女王は知っていることだった。別に隠し立てするつもりもなく、アクィリフェルはどうでもいいことだ、と思い始める。 少しばかり気にならないでもなかった、本当は。注意が散漫になっている。とりとめもないことばかりを気にして、気にしなければならないことに気持ちが向かない。 たぶんきっと、これも王のせいだ。アクィリフェルはそう思う。小さな馬が駆けていった一瞬に見せた表情。切望とも痛みとも違った。ならば何かと問われても、わからない。わからないのに、自分はそれをよく知っている。失くしてしまった大切なものから目をそらすこともできず、手を伸ばすこともできないとき、人はあのような顔をする。アクィリフェルは身をもって知っている。だからよけい、苛立った。 「ご覧なさいな、お客人。小川ですよう」 ハイドラが楽しそうに声をあげて、はっとアクィリフェルは注意を戻す。やはり、気持ちが落ち着かなかった。 「小川?」 「いやだ、小川を知らないなんて……」 「言いませんよ! ただ、こんなところに流れているんだなって。ティルナノーグらしい……」 森の中に突如として現れた小川。湧き水も泉もなく、ただ唐突に流れがはじまっている。ありえない現象、とまでは言わないが珍しいことに違いはなかった。 「ほうら、やっぱり」 「なにがです?」 「ここをティルナノーグだなんて呼ぶのは、禁断の山の狩人だけじゃあないですか。ねぇ、お客人?」 「やっぱり言ってませんよね、僕は」 「本当はね。気にしないでくださいな。それとも気になりますかい」 「方法によっては、気にするかもしれませんね」 にこりと笑ってアクィリフェルはハイドラを真正面から見つめた。さすがにこれでハイドラも気づくだろう。異種族とはいえ、人間ではない妖精とはいえ、アクィリフェルがなにを聞きたがっているのかくらいは。 「あたしの種族はね、ちょっと人の心が見えるんですよ、本当にそれだけですよ。ちょっとだけ、ね」 妖艶な美女が心底不安そうに肩をすくめていた。人間が心を読まれることを嫌う、と知っているのだろう。だからこそハイドラはかえって恐れているのだろう。 「少しだけなら、気にしませんよ」 だからアクィリフェルは言う。気にならないといえば、嘘だ。が、自分は招かれた身、礼儀の範疇だと思ったからこその言葉。それにハイドラは大袈裟なほどの身振りで喜んだ。いっそサティーがすれば可愛らしいだろうとアクィリフェルは内心で小さく笑う。 「あぁ、よかった。本当によかった。さぁ、それじゃ行きましょうか」 「どこに?」 「もう少しですよ、もう少し」 含み笑いをするハイドラに連れられてアクィリフェルは歩を進める。森の道は始終、誰かが行き来しているのだろう、歩きやすく整っていた。 緑の葉から降り注いでくる陽射しは柔らかで風は甘く香っている。どこかに花でも咲いているのだろう。 人の世界と変わらないな、とアクィリフェルは思いつつ歩いた。もっとも、その感想をアウデンティースが聞けば笑ったことだろう。 妖精郷はどこか遠くの別の世界ではない。アルハイド大陸にある、別の場所と言うだけのこと。ただ女王の支配の強さに、人間の地とは違うことが多々起きる、それだけのこと。 「ほうら、つきましたよう」 不意に視界が開けた。アクィリフェルの背後にまわり、ハイドラは彼の肩に手を添えてそっと前に押し出す。 「ご覧なさいな」 木立の切れ目には広場、否、滾々と湧き出る清水を湛えた泉。底まで見えるほど透き通った水が風に細波を立てる。 アクィリフェルは息を飲む。声など、出せなかった、決して。ここにいることを知られてはならなかった、断じて。 無理やり別のほうを向こうとすればハイドラに掴まれた肩が激しく痛む。首だけ振り向けば、にんまりと美女は笑っていた。 「ご覧、あれを」 泉が、風にではなく細波を立てる。アクィリフェルは消えてしまいたかった。 泉には人影がひとつ。ぽつりと、よく見知った、忘れるはずのない、忘れてしまいたい、人影。 「アルハイド王が水浴中ですよう」 耳まで裂けたかと思うほどの笑みを浮かべ、ハイドラはアクィリフェルの耳に囁き続ける。 「どうです、なにをお思いになる? もっとよくご覧なさいなぁ」 きりきりと頭を掴まれ、アクィリフェルは嫌なものを見据えさせられた。アウデンティースが水浴をしている、否応なしに覗かされている。それだけならば、よかった。 小さく息を飲む。アクィリフェルの体から力が抜け、その場に膝をつく。ハイドラに掴まれてもいないのに、目は王から離せなかった。 「嘘だ……」 ちらりとではあった。けれどしっかり見えた。アウデンティースの首にかかっていたもの。あの時の真鍮の指輪。アクィリフェルが戯れに贈った指輪。 「なんで――」 あんなもの、国王にとってはがらくた同然。一時の洒落にはなっただろう。けれど、玩具ともいえない真鍮の指輪を、なぜ今も彼は持っている。 「そんな」 わかっていた。いやでも、わかってしまった。指輪に通した銀の鎖のほうが遥かに遥かに価値がある。それなのに、いまアウデンティースは指輪を握り締め、遠くを見つめ、なにを思う。 「アケルを」 呟いた自分の声が自分の耳に届かない。アクィリフェルは、確かに王の道具かもしれない。それはそれで一面の真実。 だがしかし。けれど。ラウルスは、確かにアケルを愛していた。その、どうしようもない証がここにある。 「こっちをご覧」 ハイドラの声。のろりとアクィリフェルは振り返る。 「あぁ、その顔だ。とてもいいねぇ。とても楽しい。いい顔だねぇ」 アクィリフェルの頬を両手で挟み、ハイドラは笑う。覗き込み、舌なめずりをしてアクィリフェルの表情を貪る。 「その顔だよ、お客人。どんな気分です? 大事なものを、自分の手でだめにしてしまったってのは、いったいどんな気分ですかねぇ。お客人はもうご存知だ。あなたが、あなたの手で、だめにしたんですよう、ご自分の幸福とやらをねぇ!」 仰け反ってハイドラは高く笑う。アクィリフェルにだけ聞こえる声だった。何も気づかずアウデンティースはただ水浴を続けている。それだけが、救いだった。 「嘘、ですよね」 瞬きもせぬのにハイドラは消えていた。ただ小川に水蛇がすらりと泳ぐ。アクィリフェルは呆然とアウデンティースの裸の背中を見ていた。 「嘘だって、言ってください」 あんなに大切にしてくれていた。あれは誰なのだろう。ラウルスは、アウデンティースが殺したはずなのに。 「僕は――」 贈られたあの髪飾りは、今もあの探花荘の部屋の隅に転がっているだろうか。もう捨てられてしまっただろう。 唐突に、思い出す。あの壊れた髪飾り、踏みにじり、無残に変わり果てた髪飾り。 「見たんですよね、あなた」 あの日、アウデンティースはそれを見たはずだ。何を思っただろう。もしも、痛みを覚えたのならば。 「違う、そうじゃない」 アウデンティースなど、欲しくない。欲しかったのは、ラウルスただ一人。それなのに、今ここで、目の前でアウデンティースがあの指輪を大切にしているのを目の当たりにした。 なにをどう考えたらいいのか、わからなくなった。一つだけ、わかっていた。どうしようもなく、胸が痛い。 「助けて」 ふらりとアクィリフェルは立ち上がる。音を殺すこともしなかった。気配を隠そうともしなかった。それなのに、王は気づかなかった。ハイドラが、何かをしていったのかもしれない。 「ラウルス、助けて」 けれどアクィリフェルは背を向けて歩き出す。逃げ出す。アウデンティース・ラウルス・ソル・アルハイドから、逃げ出す。 全身を切り刻まれても、きっとこれほど痛くない。目に焼きついて離れない、あの光景。指輪を握り締めていた王の姿が、アクィリフェルの中でいつの間にか変わっていく。 愛おしげに指輪にくちづける王の姿を幻視し、アクィリフェルは声もなく悲鳴を上げて倒れ伏す。うずくまっても何者からも逃げられないと知っていてなおかつ、それでもアウデンティースに愛があるとは認めたくなかった。 |