呆然と小さな馬を見送っていた。サティー族の笑い声が、苛立つほど癇に障る。その理由をアクィリフェルは考えたくなかった。 「――まだ、女王の迎えは来ないようだな」 何かを振り払うよう、アウデンティースは言った。かすかに首を振った、その訳をやはりアクィリフェルは斟酌しない。 いつもならば、声を聞き分けられた。今もたぶん、できる。できないのはただ、したくないのだと自分のどこかが気づいてしまった。 「いささか、飽きたな。散歩に行く」 アウデンティースの体の横で、握り締めた拳が震えていた。アクィリフェルは見なかったふりをして、さりげなさを装う。けれど気づけば目までつぶっていた。 「……いいんですか」 勝手に出歩いて。そんな意味をこめてアクィリフェルは立ち上がった王を見上げる。光に阻まれて、王の表情は読めなかった。 「用があるならば誰かが呼びに来る。ここはそういう場所だ」 それだけを言い捨てて歩き出そうとする王を、アクィリフェルは咄嗟に追おうとした。が、その動作を見澄ましたかのよう、アウデンティースは振り返る。 「供は不要だ」 今度こそ、捨てられた。そんな思いに言葉もないアクィリフェルを置き去って、アウデンティースは歩いていく。 王の背中をただ見ていた。遠くまで、その姿が見えなくなってしまうまで、アクィリフェルはずっと彼の背中を見ていた。 「……どうして」 見ている理由がわからない。従者など要らないというならば、自分もどこかに勝手にいってしまえばいいはず。 妖精郷を見てまわるなど、滅多にできる経験ではない。混沌の侵略を一刻も早く止めなければならない、だから遊んでいる暇などない。 けれどしかし、女王の許しがなければ、ここから立ち去ることすらできない。ならば、やはり見てまわるのも悪くはないはずだ。 「……それなのに」 立ち上がる、ただそれだけの動作をする気力が湧かなかった。瞼の裏、歩き去るアウデンティースの姿だけが映っている。 「あなたなんか」 映ったその姿に向けてアクィリフェルは言う。聞こえないとは思いつつも。聞こえないからこそ、言うのだとは自分でもわかってはいなかった。 「……大嫌いだ」 口にした言葉が、自分の心に突き刺さる。思わず胸を押さえ、アクィリフェルは目を瞬く。自分で自分がわからなかった。この目に涙が浮かんだ理由など、思い当たらないと言うのに。 サティーもいなくなってしまった草原は、ただひたすらに穏やかだった。草を渡る風が、木々の梢を揺らしていく。そこここに生き物の気配。 「珍しい、だろうな」 妖精郷に招かれる人間が稀ならば、妖精だとて人間が珍しいのは当然のこと。いっそ見世物になってもいい。一人でいるのはいやだった。 「かと言って、でも――追えない」 呟き、自らの言葉にアクィリフェルは動揺する。追いたいと、思っているのだろうか、自分は。アウデンティースを。 自らの視線がいまだ王の消えた方角を見つめていることに気づき、アクィリフェルは目をそらす。いたたまれなかった。 「もしかして」 あなたもなのか。口の中で、呟いた。いたたまれない、もしもそうアウデンティースが感じていたのだとしたならば。 あの寄り添って駆けていった小さな馬。アウデンティースの髪を鬣に持つ馬の目は、青かった。 「僕の目と同じ」 皮肉に言った声が、自分でわかるほどに震えていた。あの馬が目を開いた瞬間に覚えたおののきを、アクィリフェルは思い出す。 恐ろしかった。そしていたたまれなかった。大切な何かを、自分の手で壊してしまったような、そんな気がした。 「違う」 アクィリフェルは思い直す。思い出したのではない。まざまざともう一度、見せ付けられたのだと知る。 「何かって、何。僕にそんな大切なものはない」 言い切る声の嘘など、たとえ世界を歌う導き手の耳を持っていなかったとしても聞き取れた。馬鹿馬鹿しさに、なにが馬鹿馬鹿しいのかもわからないままアクィリフェルは草を握り締める。ぷんと匂い立つ青い草。麗らかな陽射しに涼やかな風。自分だけがここで一人だった。 「あなたの大切なものを、見せてあげる」 不意に声がした。気配もなく忍び寄った何者かに驚いてアクィリフェルは振り返る。そこには美しい乙女が立っていた。 「大切なもの、ですか?」 とてもその姿どおりのものとは思えなかったアクィリフェルは密やかに短剣を引き寄せる。それを感じたのか乙女は眉根を寄せた。 「鉄は嫌い。やめてちょうだい」 身を引いて首を振る姿に嘘は感じなかった。ここが妖精の国だということを思い出し、アクィリフェルは剣の柄から手を離す。が、警戒は怠らない。 「あなた、大切なものがないって言っていたでしょう?」 そのことにほっとしたのか乙女は表情を和らげて先ほどの言葉を続けた。抜けるように白い肌、風になびく金糸の髪。見れば見るほど美しい乙女だった。この世のものとは思われないほどに。 「だから、見せてあげる。あなたにも本当は大切なものがあるって、見せてあげたいの」 にこりと笑う乙女の愛らしさ。間違いなく妖精族の一人とわかってはいても、あまりにも美しく、それゆえに悪意を感じない。迷うアクィリフェルの背後、笑い声がした。 「おやおや、お客人はそんなもの見たがってなどいないって言うのにねぇ?」 また背後を取られた、と半ば溜息をつきつつアクィリフェルは振り返る。こちらも女だった。少なくとも、人間の目から見て女性、としか思えないものが立っている。 「お客人、あたしといらっしゃい。大切な何かなんかじゃない、面白いものを見せてあげましょうよ」 そう言って妖艶な美女は笑い声を上げた。体の線が容易に窺える衣服は、それだけでなく、淡く透けてすらいた。思わず目をそらすアクィリフェルを女は純だとまた笑う。 「いいえ、大切な物を見失ってしまった方ですもの。私といらっしゃいな」 乙女は言う。だからかもしれない。アクィリフェルは妖艶な女に視線を向ける。大切なものなど、持っていなかった。失ってしまった。もう一度手にしたいなど、決して決して思っていない。だから、きっと。 「ほらご覧、お客人はあたしをお望みさ。消えな」 鼻で笑って女は横柄に乙女を追いやる仕種をした。乙女は悲しげにアクィリフェルを見つめ、けれど彼が翻意しないとわかってからは肩を落として背を向け歩き去る。その後姿にアクィリフェルはぎょっとした。 「あれは下位のフェイさ」 女は乙女の後姿に向けて言う。そこには何もなかった。あるはずの、背中と言うものが乙女にはない。もしも人間を頭から足先まで、薄く二枚に断ち割ったならば、あのような姿にもなろうか。 「フェイ、ですか?」 「妖精族の最も多くを占めるものさ。女王ほどになれば、見た目が欠けはしないがね」 さらりと言われた言葉にアクィリフェルは驚く。女王も妖精だとわかってはいても、あの乙女と同族とはとても思えなかった。 「お客人がフェイを知らないとはねぇ。意外ですよ」 アクィリフェルを促して歩きつつ女は小さく笑った。くすくすと笑う声は少女のようで、どこかティリア姫を思わせるあどけなさがある。けれど女のそれは、ただ純真なだけではなかった。 「そうですか? さほど妖精族のことを知らないので」 「おやおや、ご機嫌を損ねてしまったようだ。あたしが悪かったみたいですね、ごめんなさいよう。そうじゃなくってね、人間が言う妖精ってのは、普通あの種族のことですからねぇ」 「……そう、なんですか?」 「そうですよう。ほら、人間はエルフ、なんて言うでしょう? あの、どっかしらが欠けた姿ってのが、怖いんでしょうかねぇ。あたしらには、別段珍しいもんでもないのですけどねぇ」 それではたと思い出す。エルフと言うのは蔑称だ、決してここでは使うべきではないとアウデンティースに言われた覚えがあった。 アクィリフェルは禁断の山の狩人で、時折とはいえ妖精を目にしたことがないわけではない。だが禁断の山を訪れる妖精はみな、なにかしらの用事があってやってくるものらしい。だから遠目に見かけても恐ろしいなど、感じたことがなかった。 「まぁ、フェイたちもフェイたちなんですよう。人間が怖がるってわかってて、わざと人前にあの姿で出て驚かしたりするんですからね。できるんですよ、人間らしく見せることがね。それなのにわざわざあのままで出るんだから」 悪戯好きなんですよう、と女は笑った。アクィリフェルはわけがわからなくなる。あの乙女は自分を手助けしよう、と申し出てくれたはずなのだが。 「フェイの言葉を信用しちゃだめですよう、お客人。あの種族はとにかく遊び好きですからねぇ。それも人の迷惑顧みず」 からりと女は笑い、横目でアクィリフェルを見やる。言葉こそ、こちらを心配してくれているようだったが、流し目にはそれだけではないようなものが含まれていて、アクィリフェルは落ち着かない。が、それも気のせいかもしれなかった。 「ところでお客人。あたしはハイドラって言いますのさ。そう呼んでくださいな」 「失礼。僕は――」 「あぁ、お名乗りになるには及びませんよ。ここには名前を知って悪戯を仕掛けるものもいますのさ」 にっこりと女、ハイドラは笑う。まるで懸念は無用、と言い切られたようで安心する反面、本当に信用していいのかとも、若干思わないでもなかった。 「ハイドラ嬢。これからどこへ?」 行き先を聞いたのは、どことなく不安を覚えたせいか。けれどそんなアクィリフェルをハイドラは笑い飛ばす。 「あらいやだ。あたしはお客人の何倍も生きていますのさ。ハイドラ嬢だなんて、すぐったいやねぇ。ハイドラでけっこうですよ、お客人」 この見るからに妖艶な女が、妖精族の一人とはいえ、自分の何倍にも及ぶ年月を過ごしているとはとても信じがたく、アクィリフェルは言葉を失いハイドラを見つめる。 だから、気づかなかった。ハイドラが質問に答えていないことに、アクィリフェルは気づけなかった。 |