アクィリフェルは拒絶を感じた。できれば何か一言でもいい。話して欲しいと思う。別に歩み寄りたいわけではない。そんな気は微塵もない。 ただ、サティーを綺麗だと思った。このティルナノーグの地で、とても美しいものを見た。そのことだけは共有してもいい。そう思ったのに。 アウデンティースは無言で別の石をとる。きつく唇を引き結び、一心に彫刻をする。それはあたかも一切の感情をアクィリフェルに悟らせまいとするかのようだった。 あるいは、それこそが正解なのかもしれない。アクィリフェルは黙ってサティーを見ていた。アウデンティースを横目で見ながら。 不意に、歌いたくなった。自らの動作のみを音楽として踊るサティーにあわせて、何が歌えるだろう。リュートは何を奏でるだろう。 「僕は――」 言葉は続かず、握ったリュートは抱えきれない。じっとサティーを見つめ、息を吸う。ゆっくりと吐く。 「歌詞が、浮かばない」 こんなとき、本職の吟遊詩人ならば、即興でどんな歌詞でも作り上げるのだろう。けれど自分はどうしたらいいのだろう。はじめて歌うということにアクィリフェルは惑った。 「……気づいてないのか」 突如として話しかけられ、アクィリフェルは鋭く息を吸った。きつい視線を王に向ければ、目を落としたまま彫刻を続けている。 「いままで混沌と戦っている間、お前の歌には歌詞などなかった」 「……ない?」 「リュートの音とお前の声。それがお前が奏でていたものだ」 知らなかったのか。再び問われ、アクィリフェルは唇を噛む。知っていたような気もする。気づかなかった気もする。 「わかりません。――無様でしょうね! こんな僕が陛下の道具だなんて!」 叩きつけた言葉にも、アウデンティースは揺らがなかった。何事もなかったかのよう、春風にでも吹かれているかのよう、石を彫る。その姿に無性に腹が立つ。 「僕を手玉にとって、いいように使えるような道具に仕立てて! それなのにその僕がこんな有様ではね。あなたの誤算じゃないんですか、陛下?」 アウデンティースは世界を歌う導き手などではなかった。けれど理解できた。はっきりと聞こえた。アクィリフェルの声にある苦痛が。 それなのに、言うべき言葉が見つからない。はじめから自分の身分を明かせばよかったのか。お互いの名が知れたあと、もっと意を尽くして協力を頼めばよかったのか。 アルハイド王として、混沌の侵略を退けたあとであっても、決して共に過ごせるはずもない人に、禁断の山の狩人に、いったい何が言えただろう。 言葉が足らなかったのだろうか。それとも、はじめからこうなる運命だったのだろうか。 「結局ね、陛下。これが僕と、そしてあなたの運命なんですよ。僕らは理解しあうことはできない。そうでしょう!」 アウデンティースの考えを読んだかのよう、アクィリフェルは憎しみをこめて言う。その響きのなんという惨さ。それなのにアウデンティースは甘く聞く。 憎まれている。心の底から、何者も敵わないほど憎まれている。それがこんなにも心を震わせる。歓喜に。 「運命か」 「えぇ、そうですよ! 違うとでも?」 「お前がどうのではないが、運命と言う言葉は嫌いだな」 アウデンティースは手を止め、アクィリフェルを見やる。本心では、見つめていた。憎悪を青い目に滴らせた彼を。 「逆らいがたい、定められたものに致し方なく従う、そんな印象を受ける。そういう態度を私は好まない」 「だったら……」 「これは運命などではないし、我々が出逢ったのも――」 「それは立派に運命ですよ」 皮肉にアクィリフェルは鼻を鳴らした。遠ざかり、近づき、まだサティーは踊っている。 「予言を忘れたんですか。あれさえなければ、僕は王宮になどいかなかった。あれさえなければ、あなたと出会うことも――なかった」 わずかに言いよどんだせいで、アクィリフェルがまだあのころの思い出を抱えていることを知った。そのせいでいっそう憎しみが凝っていることも。 「出逢ったのはただの偶然だ。今ここにこうしていることさえ」 「あぁ、そうですね! あなたにかかっては生まれたことすら偶然だ!」 「まったくそのとおり。よくわかっている」 「理解など……したくない……!」 ぎりぎりと、歯を噛み鳴らさんばかりのアクィリフェルに王はもう目を向けてもいなかった。淡々と石を彫り続けている。 本当は、嬉しかった。自分が大事にしているあの思い出を、アクィリフェルがまだ忘れていないことが、たまらなく嬉しかった。 「キノ!」 だからアウデンティースは彫り上げた石を放り投げる。できあがったことが嬉しいと、さもそう言いたげな声を上げて。アクィリフェルもこれならば、聞き違えるだろう。抑えておけない声ならば、惑わせばいい。 「できたぞ、お前にやる!」 ピーノが受け止めたのと同じよう、キノも上手に受け止めた。笑顔がきらきらと光る。あんな笑顔を見たことがあった。心の奥が痙攣するかに痛んだ。 「嬉しいの! ありがとうなの、見てみて、ピーノ、キノのが可愛い。とっても素敵なの、ね?」 「違う違う! ピーノのほうが素敵、素敵!」 「違うのなの、キノのが可愛いの、素敵なのなの!」 口々に言い合うサティーが微笑ましくて痛かった。他愛ない口論をしたのはいつだっただろう。二人のサティーに幻を見た。 アウデンティースのみならず、アクィリフェルも。目をそらそうとして果たせず、サティーを睨むこともできない彼を、アウデンティースは不憫に思う。 自分にぶつけてくるよう、他人にも当たればいい。そう思ってふと気づいた。あるいはそれは、彼なりの甘えであるのかもしれない。本人が気づかないままに。 「嬉しいね、それならば」 王の声にぎょっとしてアクィリフェルが振り返る。一瞬強張ったものの、アウデンティースは喜ぶサティーに顎をしゃくって見せた。言葉の意味はあれだ、と。 アクィリフェルが視線を戻したことに王はほっと息をつきかけ、留まった。これですら、導き手は聞き取るだろう、本当の意味を。 「でも、でもね、お客様?」 頭上高く彫刻を差し上げ、日に透かしながらピーノが首をかしげる。同じようになんだ、と首をかしげるアウデンティースは、目の隅によく似た仕種をしたアクィリフェルを見つけ、思わず目を細める。 「もっと素敵なのがいいの。だからね、そっちのお客様?」 急に話しかけられて驚いたのだろう、アクィリフェルの目が素直に開かれる。それを見せてくれただけでも、サティーに彫刻をやった甲斐は充分すぎるほどにある、アウデンティースは内心に微笑んだ。 「ちょっとだけちょうだい? ごめんなさい、ごめんなさい、許してくれるよね、きっと。多分。うふふ、平気平気」 笑いながらピーノがアクィリフェルの赤毛に手を伸ばす。声を上げる暇もなかった。あっと思ったときには幾筋かの髪が断ち切られ、ピーノの手に握られていた。 「ずるいのなのピーノ、ずるい! ずるーい、のなの!」 慌ててアクィリフェルが自分の髪に手を触れている。ばっさりと、ではなかったけれどしっかり切られていた。 「うふふ、素敵素敵」 驚き呆れる狩人になど頓着せず、ピーノは夢中になって彫刻の馬を触っている。 「ピーノずるいのなのね? だからお客様、キノにもちょうだい?」 いったいどういう理論だ、とアウデンティースが言い返す間もない。ピーノと同じ早業で、アウデンティースも髪をむしられた。 「痛いだろうが!」 抗議の声はそれでも笑っている。サティーと過ごしながら不機嫌を保つのは難しい。 「ねぇ、何をしているの」 子供に話しかけるようなアクィリフェルの声に、アウデンティースはうっかり微笑みそうになり、慌てて顔を引き締める。 「こうしてね、こうするの。それからこうして、うふふ、あと少し!」 それでわかれ、と言うのはさすがに酷だろう、少なくとも人間には。ピーノが何をしているのかアクィリフェルにはまるで理解できなかった。 「ずるい、ずるい、ピーノ待ってなの!」 アウデンティースの金茶の髪をむしったキノも慌てて馬の彫刻に細工をはじめる。一心不乱すぎて、話しかけるのが憚られた。 「なにを……しているか、わかりますか」 話しかけたくなどないけれど、言葉が通じる人間は一人しかいない。それを体全体で表現しつつアクィリフェルは尋ねた。 「わかるわけがなかろう?」 だからこそ、アウデンティースは突き放す。万が一、歩み寄ってしまったならば。 一度は愛し合った。二度目がないと誰が言える。何かの拍子に、アクィリフェルが王を許すようなことがあったならば。 そのときに待っているのは愛し合いつつ引き裂かれる未来でしかない。 それを知っているから、拒むのではなかった、アウデンティースは。一瞬でも忘れられたくないから。醜い自分の心がいやになる。 「ほら、できた、できた! 見てみて、お客様。素敵?」 「できたのなの、できたのなの、とっても可愛くなったのなの!」 口々に言って、サティーがそれぞれの髪の持ち主へと走りよった。アクィリフェルは息を飲む。アウデンティースは言葉もない。 馬の彫刻は鬣を得ていた。一方は燃え盛る炎色、一方は鷲の翼色。それだけではなかった。 「うふふ、目を覚ますの。可愛いの!」 ピーノが言えば、キノが彫刻に息を吹きかける。彼らの手の中で、彫刻が震えた。否、小さな、掌に乗るほどの馬が身震いをした。鬣を震わせ、高らかに嘶く。 「可愛いのなの、可愛いのなの!」 キノが喜ぶ声など、アウデンティースには聞こえていなかった。赤い鬣の馬は、朝陽のような金の目をしていた。金の鬣の馬は、深い海色の目をしていた。 目覚めたばかりの馬は寄り添い、何もない空を踏み、互いだけを見て駆けていく。それをサティーが追っていった。笑い声、そして索漠。 |