サティーのピーノがアウデンティースにまとわりついていた。汲んできた水を一息に飲み干せば、ぴょこぴょこと跳ねてまた汲みに行く。
 その繰り返しが楽しいらしい。だがさほど何度も飲めるものではない。アクィリフェルはお愛想ばかり付き合っただけで、うつむいて黙っている。
「ねぇ、お客様、お客様! 他にはなぁに? ピーノにご用、ご用!」
 きゃっきゃとまとわりつくサティー族をいささかもてあまし、アウデンティースは思案する。ふと腰の短刀を思い出す。
「アーシス、聞こえるか?」
 どこに誰がいるとも思えなかった。アクィリフェルは訝しげに王を見る。何か話すべきなのかもしれない、話さなくてはいけないのかもしれない。
 そう思わないでもなかった。それなのに、何も話すことが見つからない。思い巡らすうち、話したい自分に気づき、アクィリフェルは黙る。
 そのとき大地が揺れた。思わず腰を浮かせたアクィリフェルに、アウデンティースは目も向けず、けれど心配はいらないとでも言うよう手で制止した。
「ご説明いただけるんでしょうね、陛下」
 自分の耳に聞こえてきた刺々しい声。また一つ自分が嫌いになる、そうアクィリフェルは思う。
 アウデンティースが存在する限り、自分は自分のいやなところばかりを見つけていく。
 不意にそんな気になってアクィリフェルは背筋を冷やした。まるで、彼がいなければいいとでも。ぞっとして、そんなことは考えていない。そう思った途端、目をそらしたくなる。もうとっくに王のほうなど見てもいないというのに。
「説明してやりたいが、返答があった。そちらが先だ」
 なんのことだ、と思ううち、また大地が揺れる。なんとも落ち着かない感覚だった。と、今度は揺れた大地が持ち上がる。見る見るうちに岩石の塊ができあがり、そしてごろりと転がってきた。
「な――」
 驚くアクィリフェルをピーノが笑った。悪意の欠片もなかったのに、不快になる。ピーノは気づかず岩へと踊りつつ走りよった。
「なぁに、なぁに、お客様? この人にご用なの? ずるいの、ピーノにご用じゃなきゃダメなの」
「許せよ、ピーノ。少し遊ばせてくれ。な?」
「いやん、ずるいの」
 言葉ではそう言いつつ、ピーノはアウデンティースにじゃれついた。それを横目で見ていたアクィリフェルは咄嗟に目を閉じる。見たくない。
「アーシス、悪いが少し分けてくれないか?」
 なんのことだ、と思ううち、岩石の塊からぼろりと岩が零れ落ちる。艶やかな、白い石だった。それを手に取りアウデンティースは岩石に向かって礼を言っていた。
 それを聞いていたのかどうか。アウデンティースが落ちた石を拾い集め終わるなりまた大地が揺れ、そしてアーシスは大地に還っていた。
「いまの、なんなんですか」
「妖精族の一種族だ」
「なんですって?」
「妖精にも多くの種族がいる。知らないのか?」
 知らないはずはなかった。禁断の山では妖精郷をティルナノーグと呼ぶらしい。呼び名が伝わっているということは、ある程度の接触もあり、説話も残っているということ。
 アウデンティースはティルナノーグと言う呼び名は知らない。けれどアクィリフェルがそう呼んだことで、ここがどこなのか、そして妖精がどういう存在なのか、知らないはずはない、と読んでいた。
 不意に寂寥が身のうちに満ちる。あまりにも陳腐で笑ってしまう。彼とは生まれも育ちも違うのだと、アウデンティースはそんな感想を抱いた自分を嘲う。
 禁断の山では妖精郷をどう伝えているのだろうか。ティルナノーグと彼らが呼ぶこの場所の話を聞いてみたいものだと思う。無駄な願いだとわかっていた。
「知っては、います。……が、あれは知らない」
「あれ、ではない。彼、だ。いや彼女かもしれないが。ピーノ!」
「なぁに? お客様、ご用?」
「あぁ、ご用だ」
 その言葉にサティー族が飛び跳ねる。よほど嬉しいのだろう。あのように素直に感情を表すことができたなら、自分は。そう思って、けれど自分はそういう人間だったはず、とアクィリフェルは思う。いつ変わってしまったのだろう。なぜ変わってしまったのだろう。王に気づかれないよう、小さく溜息をついた。
「さっきのアーシスはどっちなのかな?」
「アーシス? 男の子か女の子かってことなの、お客様? アーシスにそんなものないよ? 不思議なこと言うね、お客様。うふふ。楽しいの」
 そう言ってピーノはアウデンティースの腕に絡みついて笑った。可愛らしい耳が頭の上でひょこりと動いている。アウデンティースは苦笑いをしてそっと解く。
「さぁ、放してくれないか、ピーノ」
 何度もまとわりついてくるサティーに閉口して、ついにアウデンティースは音を上げた。妖精にははっきり言わねばわかってもらえないのをつい、忘れていた。
 不満そうに少しばかり離れ、アウデンティースが腰を下ろした横にピーノもまた座る。仲のいいことだ、アクィリフェルは決して口には出さずそう心に言う。
 なんの音にもなっていなかったのに、心に響いてしまった。自分の発する音が、聞こえてしまった。なんと、醜い。アウデンティースは気づきもせず短刀を日に翳していた。
「研いでくるんだったかな」
 苦笑して、アーシスからもらった石に刃を当てる。まるでチーズを切っているかのようするりと切れた。
「驚いたか」
 少しもアクィリフェルなど見ていなかった、王は。石に目を落とし、慎重に短刀を見つめている。それなのに、目を見開いたアクィリフェルもまた、見えていた。
「……驚いてはいけませんか」
「いけなくはない。ただ聞いただけだ」
「驚きましたよ。当然でしょう、陛下!」
 いったいそれはなんなのだ、とアクィリフェルは唇を噛む。そのように易々と切れる石など、見たことも聞いたこともない。
「石は石なんだがな。非常に加工のしやすい石でな。私の好みだ」
「あなたの好みなんか聞いてませんから」
「……もっともだ」
 すぐ側にアクィリフェルが座っていた。自分の傍らにはピーノが座っていた。そのどちらもが、酷く遠く感じられた、アウデンティースには。
「なにをしているんですか」
「見てのとおり彫刻だ」
「なぜそんなことを、と聞いているんですが、陛下」
「女王が何か言ってくるまでの暇つぶしだ」
「ねぇ、お客様、なにを作ってるの? ピーノに教えて?」
 短刀を扱う邪魔にならないよう、けれどピーノはアウデンティースぴったりとついていた。手元を覗き込んでアウデンティースを見上げ、そして笑う。
「うん? ちょっとした玩具だな。あててご覧、なんだ?」
「んー、何かな、何かな? あ、わかったの! 馬だ、馬だよね? そうだよね、ピーノ、あってる!」
 正解だ、とでも言うようアウデンティースは笑ってピーノの頭を撫でた。
 アクィリフェルは目をそらす。否、そらせなかった。見たくないのに、凝視してしまった。不意に湧き上がる殺意。
 手が自分の意思とは別に、腰の短刀に伸びる。柄を握ってはじめて驚き、手を放す。いやな汗に濡れた掌を、草で拭えば爽やかな、あまりにも爽やかな匂い。
「うふふ、褒めてくれたの。ね? そっちのお客様は? 何かご用ないの? ピーノ、楽しくないの」
 ひょい、と跳ねてサティーがアクィリフェルに近づいては覗き込む。
 ほっとしていた。もしもそれが一瞬早かったならば、アクィリフェルは間違いなくこのティルナノーグでサティーを惨殺していただろう。
「……いいや、何もないよ。悪いけどね」
 気づかれないようにアクィリフェルは細く息をつく。決して気づかれたくない思いばかりが胸のうちに溜まって澱になっていく気がした。
 それもこれもすべて、アウデンティースのせい。なんの感情もこめず王を見れば、一心に短刀を使っていた。
「もう少しでできるぞ」
 てきぱきと馬の形を彫り上げていくアウデンティースは、視界の端にアクィリフェルを収め続けていた。
 武術の鍛錬はするものだ、そう思って一人内心で小さく笑う。幼いころ武術を仕込んでくれた師範は常に視界を広く持て、と言っていた。ありがたいことにいまこのようなことの役に立っている。
 だから、見えていた。アクィリフェルの憎悪に燃えた目がはっきり見えていた。殺したいのだろう、そう思う。
 この自分が死んでしまえば、彼はこれほど苦しまずにすむ。叶えてやりたい、心からそう思う。
 アクィリフェルの目が憎悪に濁る様を見ていられなかった。同時に、更に憎まれたいと願う。忘れられたくなかった。
 憎まれて、できれば殺されたいとすら思う。そうすれば、間違いなく一生アクィリフェルは自分を忘れはしないだろう。
「……身勝手にもほどがあるか」
 小さく呟いて、舌打ちをした。ちらりとこちらを向いた視線を感じる。他の誰に聞かれてもかまわなかった。
 けれどそこにいたのは世界を歌う導き手と妖精の女王が呼んだ男。自分の声の抑揚からなにを聞き取るかわかったものではなかった。
「ピーノ! ほら、できたぞ!」
 アウデンティースの周りを跳ね回っていたサティーが一息で飛んでくる。その動作にあわせて上手に彫刻の馬を放り上げれば、器用に掴み取る。
「素敵、素敵! ピーノにくれるの? うふふ、くれるのね?」
「あぁ、やるよ。気に入ったか?」
「素敵、素敵!」
 小さな彫刻の馬を、まるで貴重品のよう掌に乗せ、くるくるとサティーは踊った。あまりにも嬉しそうで、心に去来する黒いものが少しばかり軽くなる気がした。
「あ、キノ! うふふ、見て、見て! とっても素敵なのもらったの」
 遠くから、また一人のサティーが駆けてきた。あっという間に走りよったその速さ。けれど足取りは踊るよう。
「とっても素敵、素敵。いいな、ピーノ、ずるいのなの、ずるい!」
 きゃっきゃっと笑ってピーノの手の中の彫刻を奪い取ろうとする。まるで見事な舞踏のようだった。サティーが巡り、離れ、近づいては遠ざかる。足の下、青草が踏みしだかれて夏の匂い。
「……綺麗ですね」
 ぽつりとアクィリフェルが言った。独り言の体。けれどアウデンティースに話しかけていた。たぶんそうだ、と王は思う。
 だからこそ、返事ができなかった。何を言っても嘘になる。今ならば、謝ることができるのかもしれない。
 けれど、何を。




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