呆れた風情で女王が笑っていた。ころころと鈴でも鳴らすような声なのに、なぜか釣鐘草の不吉な響き。 それでも怯まずアウデンティースはじっとメイブを見つめる。それができるからこそのアルハイド王だった。 もしもここにマルモルがいたならば、とっくに気を失っている。アクィリフェルならばどうだろう。ふとアウデンティースは思い、けれど視線は女王からそらさなかった。 「これは――」 メイブが手の中の小瓶を日の光にかざす。水晶のようなそれは光にきらきらと輝き、しかしそれだけではなかった。 「雪割り草に最初に置いた朝露、稲妻のひとひら、最も早く熟した林檎から、果実を傷つけずに取り出した種。それらを百年ほど雪の中で醸した――要は気付け薬ですわね」 「気付け!?」 「ご不満でも?」 むっとして唇を引き結ぶ女王が、そのときばかりは子供じみて見えた。アウデンティースはそれには目もくれず、草に横たえたアクィリフェルを見つめる。 「そんな大層な気付けがなければ……目覚めない、と言うことか」 「恋人の声でも目覚めるはずですよ。やってご覧になったら?」 「……遠慮しておく」 からかわれている気がしなくもないのだが、アウデンティースは納得して引き下がる。あからさまな溜息をついて女王は小瓶をアクィリフェルの唇に当てた。 「お目覚めなさい、世界を歌う導き手」 すう、と水薬が彼の唇に吸い込まれていく。それなのにアウデンティースまで香りを感じた。夏の薔薇園、あるいは秋の果樹園。憧れやときめきに弾む心。 「効果は覿面でしてよ」 誇らしげにメイブは言い、体を起こした。はっとして見やればアクィリフェルがぼんやりと目を開いている。 「……おい」 本当に、薬はただの気付けだったのか、一瞬ではあったがまたアウデンティースは疑った。それほど彼の目は彼らしくなかった。 「失礼な」 軽く鼻を鳴らしたメイブにアウデンティースは取り合わない。本当ならば、否、ラウルスならば今すぐ傍らに飛んでいって手を握ってやりたい。否、そもそもラウルスならば、その呼びかけだけで彼を目覚めさせることができたのかもしれない。 「……ここは?」 頭を振ってアクィリフェルが体を起こした。それから呆然と目の前の女を見る。 「ティルナノーグの女王?」 まさか、といわんばかりの声音にアウデンティースのほうが驚いていた。 「久しい呼び名ですこと。禁断の山の方々とは長らくお会いしていませんものね」 にっこりと笑ってメイブは視線を流した、アウデンティースに。それを追ったアクィリフェルの顔が強張る。 「目覚めたか」 アウデンティースは草の上に座っては、いた。けれどその身はあたかも玉座の上にあるかのごとく。傲然と、王としてそこにある。それをメイブがどこか面白そうな顔をして見ていた。 「……ご迷惑をおかけしました」 「結構。できれば何があったか聞かせて欲しいものだな。戦いの最中に同じことが起こるのは迷惑千万」 辛辣で、温もりの欠片もない声。それなのにアクィリフェルはやはり、聞き取る。懸念されたこと。心配されたこと。いいや、決してそのような生ぬるいものではなかったこと。 黙ってうつむき、唇を噛みしめる。愛されているとは、間違っても思えない。そんな幻想は抱かない。これは自らの道具が破棄されかねなかったことに対しての、不安。 そう思いつつ、本当は温かい言葉の一言だけが欲しかった。そう思う自分が、本当にいやになる。 「……何があったかは、僕にも」 ただそれだけを言い、ずっとそこにあったのだろうか、体の傍らにあるリュートを掴む。無残に切れた弦。だが、それだけのこと。張りなおせばすむ、それだけのことだったはず。 「楽器に頼りすぎですよ、あなた」 メイブが顔を顰めてアクィリフェルからリュートを取り上げる。鳴っていない楽器なのに、耳を傾けるような仕種をした。 「禁断の山の――」 「アクィリフェル、と言います。申し遅れました。ご助力に感謝いたします、女王」 「まぁ、礼儀正しいこと」 言って思わせぶりにアウデンティースを見やったが、アルハイド王は毅然と唇を結んでいるのみだった。 「女王、頼りすぎとはどういうことでしょうか」 できれば返していただきたい、とリュートに手を伸ばしたが無視された。メイブは笑ってリュートに耳を傾け続けている。 「その言葉どおりですよ。あなたはあなたであるだけで、導き手なのですよ、アクィリフェル」 「え――?」 「リュートは、ただのきっかけに過ぎませんもの。いまはあなたと言う楽器が、世界を歌っているのですよ。それがわからなかったと?」 「……正直に申し上げまして、はい」 「これは困ったこと。ではご理解なさいな。あなたには楽器などなくとも、あなたが楽器ですよ、アクィリフェル」 「女王、いいか?」 「なんです、アルハイド王」 「だったらなぜ、アクィリフェルは倒れた?」 リュートと言う楽器が損なわれたことで、アクィリフェルは意識を失くしたのではなかったのか。アウデンティースはわずかに青ざめる。 「それが頼りすぎ、と言うことです」 メイブは片手を上げてサティー族を呼びつける。その手から何かを受け取り、リュートに手を這わせたかと思ったらすでに弦は張りかえられていた。 「あなた、アクィリフェル。あなたは楽器の弦が切れてしまったことで、自分まで傷ついた、そんな気がしたのではなくて?」 「よく……わかりません」 「わからなくてもけっこうよ。つまりはそういうことだもの」 「女王、その、つまり、の内容をもう少し詳しく教えてもらえんか。ただの人間にはいささか理解が追いつかん」 額に皺を寄せて天を仰いだアウデンティースに、メイブはころころと笑う。釣鐘草の響きはもう消えていた。 「この者は、世界を歌う導き手。それはよろしい?」 こくりとアウデンティースはうなずく。すぐ側で、手の届くところでアクィリフェルもまたうなずく。同じ仕種に狩人は顔を顰めた。 「導き手は歌う、楽器を使って」 「待て、女王。このリュートは、唯一無二のものではないのか」 「ないわ。大事なのは、この者、アクィリフェル。すでにリュートを奏でるのであってもただ歌うのであっても、この者は世界を歌う。リュートはただ、彼の心を目覚めさせる役割を持っただけのもの」 あっさりと言い、女王はリュートをアクィリフェルに返した。持っていてもいなくても、同じこと、そういうことなのかもしれない。 「導き手が使う楽器が損なわれて、導き手が倒れる。ごく当たり前のことですよ、それに依存しているのならばそれだけ」 「つまり……?」 「楽器はあなたの道具、それを忘れないことです。道具に自分が壊されるのは馬鹿みたいでしょう?」 にっこりと笑ってメイブは言う。それがアクィリフェルにどう聞こえたかなど考えもせずに。 世界を歌うアクィリフェルにして、メイブの声は量りがたかった。人間の声ならばいかようにも聞き取るのに、彼女の声は取りとめがない。 だから、聞こえたのは言葉だけだった。楽器は道具。自分の道具。自分は道具。アウデンティースの道具。 ただ、それだけがアクィリフェルの耳に聞こえた。 じっとリュートの首を握り締め、メイブに向かって頭を下げる。何を言っても、感情が零れる気がした。零す感情があるのか、自分でもわからなかった。 「結局、アクィリフェルの心がけ次第で同じ事は防げる、そういうことだな、女王?」 「そうなりますね」 「結構。残してきた者のこともある。一度戻らせてもらおうか。後日また――」 「お待ちなさいな、アルハイド王。礼は拒まない、と申し上げたはずでは?」 「礼は要らん、と言っていた気もするが?」 重ねるように言って、二人の君主は同時に笑う。アクィリフェルは草の上に座り込んだまま、リュートだけを見ていた。 「さてさて、妖精の女王。何をご所望かな?」 「いま考えていますの。ですから、ご滞在なさいな。そう……長くはかけませんよ」 断る隙も与えずに、女王は立ち上がり背を返す。どこからともなく現れたシルヴァヌスが軽がると女王を肩に乗せる。 草地には、アクィリフェルとアウデンティースだけが残された。どちらが何を言うでもない。近づきも、遠ざかりもしない。緊張だけがそこにある。 「お話、終わったの? うふふ。お客様。お客様、もう考えてくれた?」 そこにひょこりと顔を出したのは、サティー族の一人だった。後ろから突然に覗き込まれて思わず前のめりに手をついた。 「驚いた!」 「どうして、どうしてなの? 驚くようなこと、した? 不思議、不思議。それで、お客様のご所望なぁに?」 それでやっとわかった。おそらく、先ほど飲み物は何がいいか、と聞いてきたサティーだろう。メイブはピーノと呼んでいた気がする。 「あぁ……ピーノ、だったかな?」 「そうそう、ピーノ、ピーノだよ! お客様、覚えてくれたの。うふふ。なぁに、なにがいい? ピーノ、お客様のお願い聞くの!」 くるくると踊りまわるサティー族を、アクィリフェルは呆気に取られて見つめていた。その表情が次第に和み、ついには昔話を思い出し口許に笑みまで浮かぶ。 「そうだな――」 もう願いは叶えてもらった。そう言いたくなって、けれどアウデンティースは口をつぐむ。ゆっくりと息を吸い、ピーノにだけ、微笑む。 「汲みたての水が欲しいな。お前は、アクィリフェル」 ピーノにかけたのとは正反対の冷たい声だった。その中、アクィリフェルは押し殺したものを聞き取る。けれどその意味までは、わからなかった。あるいは、わかりたくなかった。 |