アクィリフェルを抱きかかえたまま、アウデンティースは振り返る。そこにカーソンの屋敷はなかった。 「何度経験しても驚くな」 肩をすくめてアウデンティースは辺りを見回す。妖精郷を訪れたのは初めてではない。過去数回、女王と会談したことがある。 だからわかった。あの葦笛の音は女王の呼び声。ここに己ありと知らせる音色。 「これ、だろうな」 呟いてアウデンティースは腕の中のアクィリフェルに視線を落とす。自分でも疑わしいほどに、彼の生存を確信していた。 自分を置いて、否、この世界の危機を放置して彼が死ぬはずはない、その奇妙なまでの信頼。血の気の失せた顔をしていても、力なく抱かれるだけの体であっても。 「……信じたいだけか?」 思ってもいないことを呟き、アウデンティースは求めるものを探していた。 何者かが迎えに来ているはずだった。妖精郷、と一口に言っても、ここは決して現実にない場所ではない。 アウデンティースの治める国の、大陸の、そのどこかにある場所に違いはないのだ。ただ、一瞬でカーソンの屋敷から飛ばされただけだ。 「それはそれで毎度のことながら信じがたいがな」 小さく溜息をつき、どこへともなく歩き出す。いずれにせよ、案内人に見つけてもらわなければ身動きが取れない。 大陸の内にありながら、決して人間が気ままに訪れることができない場所、でもあるのだから。 濃く深い緑の森だった。まるで今ここに緑と言う色が生まれ出たかのような鮮烈な色。はじめて発見した気がしてアウデンティースは息を吸う。これもいつものことだった。 「早く起きろ。……見せてやりたいじゃないか」 アクィリフェルは、見たことがあるだろうか。妖精郷に招かれたことがあるだろうか。禁断の山の狩人ともなればあるような気もする。 もしも。アウデンティースの胸が痛んだ。もしもかつてのような二人であったならば、いまここの緑をなんと見たことだろうか。 アクィリフェルが目覚めたあと自分はその横で彼の驚く顔、満足する顔、笑う顔。見ていられないのだと思う。 「――すまん」 知らず指先に力が入りすぎていた。痛みを覚えたのか、目覚めないままアクィリフェルが身じろいだ。不意に音が聞こえた。 「お前……じゃないな」 答えないアクィリフェルに問いたくなるほど、それは彼の音色に似ていた。リュートの音ではない。楽器ではない。歌声でもない。 「……世界、か?」 もしも今ここに、導き手となり得るものがいるのならば。なぜアクィリフェルでなければならなかった。 かっと前を睨んだアウデンティースの目の前、木が動いた。大きな、動くはずもない緑の塊。思わずアウデンティースは声を上げる。 「シルヴァヌス!」 既知の人だった。人、ではないかもしれない。人間が樹木と化したならばこのような姿にもなろうかと思しき存在。あまりにも大きすぎるが。ただ、生きた存在なのは間違いなかった。そして王はその存在を見知っていた。 「シルヴァヌス! 女王に会いたい、どこにおいでだ!」 大きな声で怒鳴りたくはないが、そうでもしないとシルヴァヌスに気づいてはもらえない。やっとのことでシルヴァヌスにとっては「小さな声」が届いたのかその存在は振り返る。 「女王の召喚を受けた! アルハイド国王アウデンティースだ!」 国王が召喚を受ける、と言うのも妙なものなのだが、これが王家と妖精の女王の交流が始まって以来の伝統なのだから致し方ない。そもそもアウデンティースは気にとめていなかった。 シルヴァヌスの上のほうがのそりと動く。どうやら首をかしげたらしい。それから腕と思しき枝のようなものを振った。 「感謝する!」 どうやらついてこいと言っているらしいと見当をつけてアウデンティースは歩き出す。 そして小さく笑った。いまアクィリフェルが目覚めていたならば、きっと怒ることだろう。あまりにも無防備だと言って。あるいは説明をしろと言って。 「シルヴァヌスは、緑の守護者。妖精郷の端の守り手だ。前にも会ったことがあるからな、心配するな」 聞こえていないはずだから。アウデンティースはかつてのような声で語りかける。今しかなかった。今だけは、そうしたかった。 「もっとも、前に会ったシルヴァヌスと同一人物かどうかは定かじゃないがな」 くっと笑ってアケルならば怒るだろうことを呟く。アクィリフェルのような怒りではなく、目の中に愛のあったあのころ。アウデンティースの溜息を遮るよう、シルヴァヌスが腕を上げた。 「同一人物ですよ、今回は。ご苦労様、ラルヴァ」 風の中から現れたかのよう、そこに女が立っていた。絹よりも淡く果敢なく、まるで蜘蛛の糸を織ったかのような衣装がはためいて、やっとそこにいると知る。 「女王――」 アルハイド国王にして、思わず膝を折りたくなる。美しい女だった。あまりにも美しかった。透き通った紫の布は、いったい何でできているのだろう。その下に透けている薔薇色の衣装は本当に花で染めたのかもしれない。彼女が歩みを進めるたび、そこには朝日が昇るかのようだった。 「お久しい、アルハイド王」 にっこりと微笑んで、存在が確固となる。気づけはアウデンティースは長い息をついていた。あまりにも安堵しすぎて、膝が砕けそうになる。 「お座りになったらいかが?」 この場にか、と問う間もない。どこからともなく現れたものが華奢な椅子を設えていく。思わずアウデンティースは彼らを目で追う。 人間の子供のようだった。妖精郷に人間がいることは稀だと言うのに。だが、決定的に人間ではなかった。その脚は山羊だろうか、獣のもの。よくよく見れば頭の上に耳もある。 「ご存知ではなかった? サティーは人好きなのだけれど」 「サティー?」 「えぇ、あの一族。人間の伝承でも人好きと伝えられているはずですよ」 その言葉でやっとそれが人名ではなく種族名だと知った。肩をすくめてアウデンティースは口では答えなかった。 「お客様、お客様。王様? あっちの国の王様? お飲み物があるの。何がお好み? 女王様は甘いのがお好き、うふふ」 ひょこり、と踊りながらサティー族の一人が寄ってきた。無防備に覗き込まれてアウデンティースは思わず仰け反る。 「いや……まずは、その」 気圧されて、と言うよりは気勢をそがれて、と言ったほうが正しいだろう。アウデンティースは彼らしくなく口ごもる。そこに女王の笑い声がかぶさった。 「ピーノ、こちらへ。わたくしの飲み物には花の蜜を足してちょうだい」 「女王様、女王様。我らの素敵なメイブ女王様!」 くるくると、よくあれで目が回らないものだと妙な感心をしかけて、慌ててアウデンティースは首を振る。膝の上に抱いたアクィリフェルが気になって仕方ない。 息が細くなった気がしないか。頬がいっそう青くなった気はしないか。 「気のせいですよ、アウデンティース王」 「だが」 「キノ、こちらへ」 アウデンティースにはかまわず、メイブはサティー族の一人を呼ぶ。そのサティーもやはり踊りながら駆け寄ってきた。 「女王様? メイブ様、これが欲しいのなの?」 「そうよ、それが欲しいの。あとで甘いお菓子をあげるわ」 「だったら交換!なの。交換だったら差し上げるの、なの!」 きゃっきゃと笑ってサティーは手の中に握り締めていた綺麗な小瓶をメイブに渡す。アウデンティースにはそれが水晶の塊のように見えた。 「女王、お楽しみのところすまんが――」 「お言葉だけれど、楽しんでいるわけではありませんよ。わたくしは困っていますから」 「はい?」 自分でも間が抜けている、と赤面せざるを得ない声を上げてアウデンティースは思わず片手で顔を覆う。 「混沌とわたくしたちのことです。人間族よりは混沌に親しくもありますけれど、あれほど純粋では我々は生きていけませんもの」 何かさらりととんでもないことを聞いた気がするのだが、今のアウデンティースの耳には残らなかった。 「ですから、導き手を助けなければ。これはわたくしの利益ですよ」 「礼には及ばない、と?」 「しろとは言いませんが、してくださるならば拒みませんね」 にっと笑って女王は小瓶の栓を抜く。不意に目覚めた気がした。いまこの瞬間まで眠っていて、爽やかな朝が突然訪れたかのような。 「さぁ、飲ませますよ。ちゃんと支えていてくださいね」 「あ、いや。女王。待って欲しい」 慌ててアウデンティースは名残惜しいものの、アクィリフェルを膝から下ろし草地に横たえる。 「なぜ?」 不思議そうな顔をして首をかしげる妖精の女王にどう説明したものだろう。 「導き手を愛しているのではないの?」 「――実に的確だが、できればこの男の前では言わないでいただけると嬉しい」 「隠している……と言うわけでもないのに?」 この妖精は、いったいどこまで知っているのだろう、と疑問に思う。が、アウデンティースはただ首を振って全てを拒否しただけだった。 「わたくしはどちらでもいいけれど。では飲ませましょう」 「待った、女王」 「なんです!」 苛立った声を上げた途端、どこからともなくサティーやらシルヴァヌスやら見たこともないもの、会ったことがあるはずのものが湧き出るように現れる。それをメイブは腕の一振りで遠ざけた。再び静穏。 「それは、なんだ?」 飲ませるとメイブは言う。導き手、すなわちアクィリフェルを助けるとは言う。だが、アウデンティースは得体の知れないものを飲ませる気はさらさらなかった。妖精を頼ったのだろう。心の奥で自分を自分が嗤っていた。 |