今後、混沌と戦いを続けていけばいずれ遠くない将来にアクィリフェルの能力は知れ渡ることになるだろう。
 素晴らしくもあり、恐ろしくもある力だ、とアウデンティースは思う。隠したいことを知られるのは恐ろしいだろう。傷を治す、その一点だけ取ったとしても素晴らしいだろう。
 そのときアクィリフェルは様々なことに巻き込まれる。担ぎだす者もいれば疎む者もいるはずだ。アウデンティースはそのときを思う。
 彼が王の道具に過ぎないのであれば、アウデンティースが表に立ち続ければ、アクィリフェルを守ってやれる。
 アクィリフェルの心も何もかもを犠牲にして、その命だけは守ってやれる。
 そう思う自分と、そうとしかできない自分を嫌悪する。王とは何か、とはじめてだろう、アウデンティースは考えていた。
 何もかもを持っているような気がしていた。王位につく前までは。ただの気楽な庶出の王子時分には本当にそう思っていた。
 けれど王冠を得てみれば。たった一人、いまになって愛した人を守ってやれない。視線を落とし、王は自らの掌を見つめる。全てが乗っていて、何もないその掌を。
「陛下、ご出立はいつに? まさかすぐにとは仰いませんでしょうな」
 カーソンの声に顔を上げ、思案する風な表情を作り、アウデンティースは内心で苦笑した。このままでは今後が思いやられる。
 何一つ持っていない王でも、民は頼りにしている。アクィリフェル一人守ってやれない自分でも、混沌から民を守らねばならない。
「そうだな――」
 ふ、とアウデンティースの声が止まった。何かに気づいたわけではない。ただ、奇妙なことに自分で話すのをやめた。
 何があると思ったわけでもないのにアウデンティースの視線は扉を向く。当たり前のよう、それは開いた。
「お話中、申し訳ないですね」
 アクィリフェルだった。まだ充分に青い顔をしている。休め、とラウルスならば案じる言葉をかけただろう。抱きしめて眠らせただろう、ラウルスならば。
「何用か」
 アウデンティースは不快になる。それを口にしたのが自分ではなかったということに。そう言おうと思っていたにもかかわらず。
「無用の者の出入りを許すなど、なんという怠慢か」
 ファロウだった。カーソンの背後から進み出て、今にもアクィリフェルを追い出そうとしている。アウデンティースの肩がひくりと震えた。
「ファロウ殿、お控え願いたい」
 まるで王の震えを見て取ったかのようなマルモルだった。敵意に近いものを目に浮かべ、アクィリフェルを庇う。
 自分にできないことをしてくれたマルモルを、褒めてやりたいはずだった。口には出せなくとも、せめて心の中では感謝したいはずだった。
 けれどアウデンティースが心の内に抱いたのは、マルモルに対する強い敵意だった。彼がファロウに向けたよりなおいっそう強い、殺意まがいのそれだった。
「アクィリフェルは王の――」
 まさか道具だとは言えずにマルモルが言葉を切る。忠臣だと言えばアクィリフェルが反発することもいやになるほど予測できてしまってマルモルは視線を宙に泳がせた。
「――道具ですよ、僕は」
 はっとしてマルモルがアクィリフェルを見つめた。王がその言葉を口にしたとき、彼はそこにいなかった。あるいは本人に向かってそれを王は口にしたのか。まさか、と咄嗟に王を見る。アウデンティースは無表情にアクィリフェルにうなずいていた。
「どうしました、騎士殿。ただの事実ですが?」
 にこやかに言った口調の辛辣さ。茨の棘で逆撫でにされている気がした。
「自らを卑下するような言葉は慎んだほうがいい」
「卑下? していませんよ、そんなもの。ただの事実だって言ってるじゃないですか」
 鼻で笑ってアクィリフェルは動じない。けれどアウデンティースには彼の指がきつくリュートの首を掴んだのが見えてしまった。
「マルモル殿、その者は陛下の?」
 疑わしげな目でファロウがアクィリフェルを見やった。不遜な狩人の口調に慣れてしまったのか、カーソンはにやにやと笑って自らの騎士を見ている。
「狩人のアクィリフェル。陛下には必要な者だ」
 禁断の山の狩人、と言うことを言っていいのか迷ってマルモルはただ狩人、と言った。そのせいだったのだろうか。
 つかつかとファロウがアクィリフェルの前まで歩いてきた。その程度のことで下がったり怯んだりする彼ではない。じっと騎士の顔を見返す。
「狩人?」
 今度のそれは侮蔑を含んでいた。カーソンがさすがに止めようとするその瞬間、ファロウの手がリュートに伸びる。
「このようなものを使う狩人は、何を狩るのでしょうな? お優しい陛下は騙せても私は騙せん」
 言うなり誰が止める間もなかった。ファロウの手がリュートの弦を引きちぎる。鋭く息を吸った音がした。驚いて立ち上がる音もした。
「アクィリフェル!」
 けれど最も衝撃の大きかったもの。声もなくアクィリフェルが倒れ伏していた。
「な――」
 まさか自分のしたことが関係しているはずもないが、とファロウが倒れた狩人を見下ろす。咄嗟に抱き起こしたのは言うまでもなく、マルモル。
「陛下――」
 椅子から立ち上がった王を、マルモルが床から見上げた。血の気の失せた騎士から王は何も聞きたくないと思う。
「狩人が……」
 ぐったりとマルモルの腕の中、アクィリフェルは仰け反っていた。白い喉が無防備に反り返っている。倒れた拍子に解けたのか、赤い髪がまとわりついた喉は、血を流しているようだった。
「息を」
 真っ青になってマルモルが言葉を途切れさせる。後になっても不思議だった。アウデンティースは黙ってうなずき、その体を騎士から受け取っていた。
「マルモル」
「は――」
「細い。かすかだ。が、息はある」
 どうして自分がそこまで冷静だったのか、アウデンティースにはわからない。奇妙に訪れた静けさが、歪んだ憎しみだとはついに気づかなかったのは、ファロウにとって幸いだった。
「陛下!」
 腰を抜かしたカーソンが、やっとのことで寄ってくる。その目にアクィリフェルを案じる色があることを認めて王はほっと息をつく。
「事故なのだな、カーソン?」
 よもやお前が命じたのではないな、と確認をする。そのような自分を嫌いつつも。カーソンは、答えるまでもなかった。腕の中のアクィリフェルよりなお青ざめた。
「かまわん。疑ったわけではない。それなら機会は他にもあった」
「陛下!」
「疑っていない、と言っている」
 言い捨て、アウデンティースはファロウを見上げた。何が起こったのかわからないのだろうか、騎士は。呆然と、と言うには端麗な表情で意識のない狩人を見ていた。
「ファロウ」
 王に呼ばれ、はじめてファロウは動揺した。その声音にある厳しさに、アクィリフェルならば耳を覆ったことだろう。
「私は何も! ただ、このようなものを使う狩人などいないと。ただ、楽器を。私は何もしておりません!」
 いまだ手に持ったままのリュートを、まるで忌まわしいもののようファロウは振り回す。
「こ、この者こそ、陛下にあだなす。ええ、そう、混沌の手先に違いない! 人間ならば、こんなことで気を失ったりなど――」
「ファロウ」
 静か過ぎる呼び声だった。アウデンティースは黙って手を出す。呆然とファロウは立ち尽くし、その手からリュートが奪われた。
「貴様が触れてよいものではない」
 押し殺した声に含まれたものをアクィリフェルならばなんと聞いたか。もしもアケルが聞いたならば、そんな声をラウルスに上げさせた自分を悔いるだろう。
 アウデンティースは意識のないアクィリフェルにリュートを抱かせ、彼の体ごと自分のマントで包み込む。抱き上げて、運ぶ。
 どこへともわからなかった。運んでどうなるわけでもない。それはわかっていた。引きちぎられたリュートの弦にこそ、原因があると正確に理解していたのはアウデンティースただ一人。
「原因はわかっても、対処の仕様がないというのは困ったものだな」
 いやに冷静な自分の声に、嫌気がさす。こんなときでも取り乱すことができなかった。人目があるいまは、王たる己でい続けなくてはならなかった。
「マルモル」
「は――」
 ファロウを殴り飛ばさんばかりにしている騎士を心の底からアウデンティースは羨んだ。
「寝室の用意を申し付けてまいりま――」
 言葉の途中、マルモルを王は視線で制した。ゆっくりと顔を上げる。
「陛下?」
 王の仕種を理解せず、声を発したファロウをここぞとばかりにマルモルは殴りつけた。それを視界の端に収めつつ、アウデンティースは視線を巡らせる。
 何かが聞こえた気がした。と、再び。今度ははっきり聞こえる。葦笛の音色に似ていた。
「あれは」
 王の目が、庭を捉えた。正確には陽だまりの中、あまりにも大らかに輪を作る不自然な茸の一叢に。アクィリフェルを抱き上げたまま、ふらりと歩みを進める。
 その裾にマルモルは咄嗟にすがってしまった。王が、遠いところに行ってしまう、そんな理由もない恐怖感。
「マルモル、開けてくれ。手が離せん」
 庭に通じる大きな窓を開けてくれと言ったアウデンティースに、マルモルはなぜ従ってしまったのか。恐ろしさは消えていなかったというのに、手は窓を開けていた。
「陛下!」
 カーソンが手を伸ばす。殴られた口許から血を流したファロウが王を見ている。マルモルはなぜか、王にうなずいていた。
「表敬訪問と会談の予定だったのだがな」
 肩をすくめて王は言い、そして茸の輪に足を踏み入れる。不意に見つかる茸の輪。人はそれを妖精の輪、妖精郷への入り口と言う。




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