午前中が何事もなく過ぎてしまったことにマルモルは驚きを隠せない。昨夜アクィリフェルは言っていた。
「なにも起こらなかったことにする」
 と。確かにそのとおりになっているのに、何か騙されたような気がする。いっそ彼の手腕に感嘆するべきか、とも思う。
 カーソンとの昼食を終えたのだろう、アウデンティースが領主と言葉を交わして別れて歩いてきた。その姿のどこにもあれだけの怪我を負った気配が微塵も感じられない。
「……陛下」
 午前中、ずっと傍らで見ていたけれど、いまだに信じがたい。血が止まるのも、傷が塞がって行くところも見ていたはずなのだが、夢を見たといわれたほうがまだ信じられる。
「あぁ、どうした?」
 にこやかな、普段どおりの王の顔だった。ちらりと辺りを見回して、マルモルは小声になる。
「――お体の具合はいかがですか」
 その言葉に一瞬だけ王は真剣な目をした。それから小さくうなずいて見せる。
「信じられません」
「実を言えば同感だ」
「陛下!」
「……いや、アクィリフェルにはできるだろうがな。まさか私相手にするとは思わなかった」
 どことなく皮肉な口調にマルモルはおや、と内心で首をかしげる。普段どおりの王が普段とは違う気がした。
「狩人はどうしています? 姿を見なかったようですが」
 まさかまた海に行っているのか、とマルモルは思う。昨夜襲われたばかりだと言うのにそれはあまりにも軽率ではないか。
 そんな思いが表情に表れたのだろう。アウデンティースが口許を歪める。何かをこらえる表情に見えて、けれど気のせいのような気もした。
「眠っている。おそらく」
「おそらく、ですか?」
「少々脅したからな。おとなしくしているだろうよ」
 マルモルは王を疑った。あまりにも酷い言葉ではないだろうか、その発言は。傷を癒してくれた相手に感謝しろとは言わないが、もう少しばかり優しくてもいいと思わずにはいられない。
「様子を見てきましょうか」
 思えば初めて海辺に行ったとき、リュートを弾き続けたアクィリフェルは疲労困憊していたではないか。昨夜はその上でなお王の傷を癒している。いささか案じられた。
「必要ない」
 けれど王はまるで切り捨てるよう、そのようなことを言う。知らず唖然と王を見上げていた。
「アクィリフェルを気遣うな。あれは私の道具だと思え」
 アウデンティースらしくない言葉に、耳を疑った。優しいだけの王ではない。時には狡猾ですらあった。けれど人間を道具だと言うような王ではなかった。
「陛下……」
 それではあまりにもあの狩人が哀れだ、マルモルは思う。傷を負ったアウデンティースを直視できなかった昨日の姿を思い出す。
「よい、かまうな。放っておけ」
 マルモルははっと姿勢を正し、一礼する。正しく王命だった。たとえマルモルが騎士ではなくとも従わざるを得ない、従って当然の言葉。それこそが正しい道だと。
 マルモルは先に歩き出した王のあとを追う。このあとも領主との会談が待っている。王の背を追いつつ、一度だけ振り返った。一人きりで放り出されて眠っている狩人を思えば胸が痛む。
「マルモル」
「は!」
「気にするな、と言っている」
 アウデンティースの真意は決してマルモルには伝わらない。王自身に伝えようと言う気がなかった。
 ただ、いやだっただけだ。自分以外の誰かがアクィリフェルを案じるのを目にする、それがたまらなくいやだっただけだった。
 昨夜のことを思えばぞっとする。背筋が冷えるなどと言うものではない。本当に、心の底から死んだほうがましだとすら思った。
 だからアウデンティースは彼を道具だなどと言う。何もかも、実行しているのは自分であってアクィリフェルではない。
 言外にそう告げた意味が、おそらくマルモルにはわからない。この騎士はあまりにもアウデンティースの近くにいる。
 だがしかし、他人にならば通用するだろう。カーソンも、この土地の人々も。王がしていることならば正しいと、無邪気なまでに信じてくれることだろう。
 どこまで通用するかわからないが、とアウデンティースは小さく細い溜息をつく。アクィリフェルを矢面に立たせることだけは、したくなかった。
「遅くなったかな?」
 マルモルが開けた扉から室内に入れば、すでにカーソンが自分の騎士と共に待っていた。直立不動で領主の背後を守る騎士にアウデンティースは微笑ましくなる。
「これはファロウと申しまして、我が第一の騎士。神官のところに使いに出しておりましてな、先ほど帰還いたしましたので」
 首だけを振り向けてファロウを見るカーソンの目はまるで慈父のようだった。マルモルはファロウに触発されたわけではないが、彼と同じよう王の背後に立つ。王と領主が席につくと、不思議と場が和やかになった。
「噂は聞いている。中々の手練だそうだな」
 アウデンティースの褒め言葉にもファロウは目礼を返したのみだった。傲岸不遜ととられてもおかしくはない仕種だったけれど、彼がすると謙虚に見えた。
「陛下は王国随一の剣士でもいらっしゃるのだぞ、ファロウ。ところで――陛下、お体など強張ってはおられませんかな?」
 どうやら午前中を共に過ごして信じられないのは自分だけではない、とマルモルは奇妙に安堵する。
「いささか昼食をとりすぎたな。腹が苦しい」
 アウデンティースはからりと笑って見せた。大袈裟に肩をすくめて見せたのは、傷が痛まない、と示すためだろうか。
 そのことにマルモルは違和感を持つ。ここにいるのは昨夜の件を知っている者ばかり。そう考えたところで、ファロウを思い出した。カーソンはおそらく第一の騎士にも、昨夜のことを告げていない。だからこそのいまのやり取りだったか、と今更ながら思い至って一人赤面した。
 そんなマルモルの心の動きが手に取るようにわかってアウデンティースは半身で振り返る。やはり必死で押し殺しているものの、取り乱すマルモルがいた。
「陛下?」
「いいや、なんでもない」
 答えつつ、人の騎士を悪く言いたくはないが、端然と動じず立つファロウよりもマルモルのほうが好感が持てる、とアウデンティースは小さく笑った。そしてその口許を引き締める。
「地下の水瓶だが」
 アクィリフェルが歌った水瓶のことをいまだカーソンには伝えていなかった。ひとつには、昨夜のことがある。
 もしもあの場で混沌の侵略を一時なりとも止め得たならば、水瓶は使う必要がない。アクィリフェルはたぶんそう考えていた、とアウデンティースは想像する。
 思考が眠る彼に流れそうになり、気を引き締める。あのあとアクィリフェルは悔しさに唇を噛んだだろうか。それとも泣いただろうか。
「陛下?」
 もしや傷が本当は痛むのか、とでも言わんばかりにマルモルが覗き込んできた。自らの情けなさに内心で歯噛みしつつアウデンティースは首を振る。
「当面は海に近づかないのが安全ではあるが。そうも行かん用事もあるだろう?」
「えぇ、確かに」
 苦いものを噛んだようなカーソンの声だった。実際、犠牲者が二人三人と増えるに従って、海に近づくな、と領民には通達をしたのだが、生活ゆえに守られることがなかった。
「そこであの水瓶だが。詳細は省くが、神官の用意する聖水のようなもの、と思えばいい。一口ばかり飲んでいけば、まず囚われることはないだろう。が、過信はするな」
 カーソンは驚きと感激に頭を下げている。言葉もない、と言うことはこの件がどれほどこの領主に負担を感じさせていたものか窺える。
「なんともありがたい! 陛下、このご恩はカーソン、生涯の忠誠などでは決して足りず――」
「忘れるな、カーソン。ここは私の国だ。お前の領民も、延いては我が民だ」
 厳しい言葉ではあったけれど、アウデンティースはそれを笑いながら言った。マルモルにはそれがこの主従の交流の表れのように見えて口許を小さくほころばせた。
「して、陛下にはまだしばしご滞在を願えるのでしょうな?」
 浮き浮きとした声は、アクィリフェルでなくともその中にあるものを聞き取れるほどだった。このままでは帰さない、歓待に次ぐ歓待で攻め立ててやる、といわんばかりの。
「すまないな、カーソン」
 そんな領主にアウデンティースがにこやかに手を振った。ひらひらと、子供のような仕種だったのにもかかわらず、妙に王の威厳を損なわないでいた。
「いささか他の地方も不穏でな。早急に城に戻る」
「そんな!」
「許せよ、全部終わったら歓待責めにしてもらおう」
「なんと! そのときはお覚悟なさいませよ」
 残念そうな様子を隠しもしないまま、けれどカーソンは首肯した。そして思い出したよう、首をかしげる。
「そういえば陛下、あの者はいかがしました」
「あの者?」
 不審そうに尋ねつつ、アウデンティースには誰のことを言っているのかわからないはずがない。
「あの狩人めにございますよ。いやはや、中々奇矯な人物としか言いようがありませんな」
 カーソンのその言葉は貶しているようで、実際は褒めているのだとアウデンティースは感じる。マルモルは更に踏み込んで感謝に違いない、と感じていた。昨夜は激昂したカーソンだったが、一夜明けてみればアクィリフェルのしたことは歴然としている。どれほど感謝しても足りないだろう。己が体面のためではなく、王のために。
「いささか疲れが酷いようでな。いまは休んでいる」
 それにカーソンはほう、と言っただけだった。だが目に不安がよぎったのをアウデンティースは見逃さない。不安と言うよりは心配かもしれない、と思った。
 アクィリフェルならば、その声の調子から本心を聞き取るだろうに、そう思って小さく拳を握る。疲れさせたのも、惨く扱ったのも感謝すらしなかったのも、アウデンティースだった。
 泣きながら眠っただろうか、アクィリフェルは。それともアウデンティースを呪いつつ枕を握り締めているだろうか。
 誰からも案じられるアクィリフェルを思ったとき、この先も彼を惨く扱うだろう自分をいやでも想像した。




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