朝目覚めたときにもまだリュートの音がほろほろと聞こえていた。いまだ目を閉じたままアウデンティースは音色に耳を澄ます。
 カーソンは負傷した王の身を気遣って、今朝は起こしにはこないだろう。もう少しだけ、アクィリフェルと共にすごすことができる。
「――目が覚めているならさっさと起きたらどうですか」
 物思いに耽っていたアウデンティースに向けられた厳しい声。一晩中、小声で歌っていたと容易に知れる掠れたそれだった。
「アクィリフェル――」
 歌っていたのか、と問えば当然だ、と答えが返ってくるだろう。当たり前のことを聞きたくて、けれど聞けずに言葉を失う。
「傷。どうですか」
 苦々しく、しかしアクィリフェルは王にできないことをした。アウデンティースがためらったのかなど、彼は知らないだろう。
 否、知っている。そうアウデンティースは思う。知らなくとも、気づかなくとも、彼には聞こえたはずだ。
 アウデンティースの知るアクィリフェルならば、自分の声に潜んだわずかな音を聞き取る。はじめて彼が世界の音色を聞いた日のことを不意に思い出す。あの、驚きと笑顔と共に。
「悪くない」
「ほう。そうですか、悪くない、ね!」
「……訂正する。ひたすらに調子がいい」
「褒められている気がしませんが、褒められても気持ち悪いのでそれでけっこうです」
 ふん、とあからさまに鼻で笑ってアクィリフェルは音を収めた。それだけで寝室が奇妙なほどに静かになる。
「……ずっと」
 突如として口をついてしまった言葉に、アウデンティースが息を飲む。無言のままに厳しい視線が突き刺さる。
「ずっと、聞こえていた」
「当たり前じゃないですか。なにを馬鹿なことを。治療だって、わかってなかったんですか。僕が陛下の娯楽のために弾いていたとでも?」
 滔々と、流れるようにそう言ったアクィリフェルに、だから王はかすかに微笑む。聞けずにいたことの端をわずかに聞いた。
 アクィリフェルの答えから、本音が滲み出した気がした。彼は弾いていた、そう言った。けれどその声。歌っていたに違いない声。
 アウデンティースには、わからない。リュートによる音楽が大事なのか、それともアクィリフェルの声すらも楽器になることが重要なのか。
 けれど推測は、できる。アクィリフェルの言葉から、彼が言わなかったことから。ゆっくりと目を閉じ、息をつく。
 案じられている気がした。アクィリフェルの、ありえない思いに包まれている気がした。それこそ、本当に気のせいだ。理解している。
 だからこそ、体中が痛い。昨夜アクィリフェルを庇ったのは、王としての本心だ。けれどその後に言った言葉もまた、本心だ。
 ラウルスとしての。アケルを愛したラウルスとしての。アケルを失い、王として生き続けるくらいならば、死んだほうがいいと、楽だと思ってしまう。
 なんという無責任。アウデンティースは自らを非難する。そのことでよりいっそう、死への憧れが強くなったとしても。
「いまはまだ」
 呟きは、アクィリフェルに無視された。それがむしろ優しさに感じられてしまって、胸をかきむしりたくなる。
 ゆっくりと体を起こせば、近年稀なほど快調だ。傷を癒してくれたのみならず、体の根本の疲れまでも取り去ってくれたらしい。
 たとえそれがアクィリフェルの都合だとしても、彼の目的にいまだ王が必要だからだと言うだけであったとしても、まるでそれはかつてのアケル。崩れそうになる心を悟られたくなくてアウデンティースは拳を握る。何事もなかった顔をして、アクィリフェルに微笑んだ。
「ずいぶんといい。ご苦労だった。お前も休むといい」
 傲然とした王の言葉。アクィリフェルが体を強張らせる。それこそが、見たかった。アウデンティースがたった一つ、いまになってはただ一つ望むもの。
 アクィリフェルから向けられる憎悪。いまはそれだけが、生きる望みだった。忘れられるくらいならば、なかったことにされるくらいならば、憎まれていたい。アケルの愛を得られないならば、アクィリフェルの憎悪を得たい。だからアウデンティースは王者の笑みを彼に向ける。
「下がっていい」
 小さくアクィリフェルが息を飲む。まるで聞くとは思っていなかった言葉を聞かされたかのよう。アウデンティースは彼を見つめ、笑みを崩さない。
「……では、失礼いたしましょう。陛下」
 嘲りの口調で尊称を口にし、アクィリフェルは立ち上がる。リュートの首を掴んだ指が白く震えていた。
 と。つまづいたかのよう、アクィリフェルが膝を崩した。咄嗟に伸びてしまった手に、アウデンティースは内心で舌打ちをする。同じくアクィリフェルもすがってしまった手に舌打ちをしていた。
「離してください」
 そう告げた声は、いまだかつて聞いた覚えがないほどか細かった。それがアクィリフェルの疲労を克明に語る。
 思えば海辺の戦いのあと、彼は泥のように眠っていた。一晩傷を癒し続けた彼の疲れはいかばかりか。今更ながら思い至ってアウデンティースは苦いものを飲み込んだ。
「疲れているな」
 当たり前のことを言うなとばかりアクィリフェルが体をよじる。けれどいっそう強く手にすがった形になっただけ。
 自分の体が自分の思い通りにならない。それがアクィリフェルを苛立たせていた。温かい、目覚めたばかりの男の体温がすぐそこにあることがより苛立ちを強める。
「アクィリフェル」
 不意に手を引かれた。はっとしたときには遅かった。アウデンティースの腕の中に、アクィリフェルはいた。まだ熱いほどの体。拭ったはずでもまだかすかに残る血の臭い。そして懐かしい、ラウルスの匂い。
「……離して。お願いですから、離してください」
 弱々しい声に、アクィリフェルの震えを知る。体も声も震えずとも、心がどこまでも震えていた。アウデンティースは抗う力もない彼の体をきつく抱く。
「やめて」
 今度こそ震えた。このまま泣き出すのではないかと思うほど、脆い声をしていた。世界を歌う導き手などではなくとも、容易に聞き取ることのできるその心。
 疲労に冷たい体を寝台の上に抱き上げ、アウデンティースはもう一度だけ、アクィリフェルを抱きしめる。
 愛した人の匂いがした。愛し合っていたときから、少しやつれた体。視界いっぱいに広がる赤い髪。焼き付けるようにして、アウデンティースは彼を見つめる。
 息を吸い、思いを振り切ったとき、アウデンティースは王の顔に戻っていた。
「ここで休むといい」
 あたかも嘲笑寸前の笑みを口許に浮かべ、アウデンティースはアクィリフェルを寝台に放り出して立ち上がる。
 投げ出されたリュートを拾い、立てかけてからアクィリフェルを見やれば呆然とした顔をしていた。
「ここ、で……?」
「そうだ。眠るといい」
「なにを――」
 国王が、臣下に告げるにしては奇妙にもほどがある言葉。アクィリフェルは何事かを示唆されているようでかっとする。
 けれど言葉になるより先、アウデンティースの嘲笑に阻まれた。今度こそは明らかな嘲りを聞き間違えるアクィリフェルではない。その中に、別の何かが潜んでいるのまで、聞き取りつつ。
「わかるか、アクィリフェル」
 鼻で笑い、王は背を向けて衣服を脱ぐ。まるで何者も存在しないかのごとき態度だった。アクィリフェルが見ていようとも、その視線ごと無視された。
「私はカーソンのために、何もなかったことにせねばならない」
「……そう、図ったつもりですが?」
「ならば当然、今朝も朝食に顔を出さなければなるまいよ」
 一瞬前の嘲りが嘘のような淡々とした声だった。そちらが、いまの本心だとアクィリフェルは聞き取っている。
 本当は違うことを考えているのに、まるでこちらが本命だとでも言うような態度。それを王の態度だというならば、だからアウデンティースが嫌いだとアクィリフェルは言う。
「そうしていただければ、僕の努力も報われるというものです。ですから、僕も自分の部屋に――」
 振り返り様だった。身なりを整えたアウデンティースの手がアクィリフェルの首を掴む。そのまま半身を起こしていたアクィリフェルを寝台に縫いとめた。
「眠れ、と言っている」
「折りますか? あなたの力なら、僕の首くらい一撃でしょう。眠る前に永眠と言うのも一興ですが」
 アクィリフェルを睨み据えたまま、不意にアウデンティースは同じ匂いを嗅いだ。自分が死に憧れるのと同じ強さで彼もまた。
 恐怖を押し隠し、アウデンティースは緩く彼の首を掴み続ける。掌に、鼓動を感じた。
「アクィリフェル。お前は私の道具だ」
 首の代わりに、アクィリフェルの心を折る。必要なのは彼自身ではなく、リュートの音色。はっきりとそう告げたアウデンティースの顔色は変わらない。
「私が必要とするときまでに整えておけ」
 首から手を離せば、奇妙に寒かった。折ったはずが折られたもの。拳を握り締めないよう精一杯の努力をしてアクィリフェルを見据えた。
「眠れないというならば、手を貸してやってもよい」
 この声に、アクィリフェルは何を聞くだろう。できれば何も聞いて欲しくはない。そう思う。
「……どういうことですか」
 震えを押さえている声だと、アウデンティースにすらわかってしまった。悔しそうにアクィリフェルが唇を噛む。その頬をアウデンティースは優しく撫でた。途端に飛んでくるきつい目を楽しむように。
「殴られるのが好みか?」
 アウデンティースの手だけが優しくアクィリフェルを寝台に押し倒す。
「それとも、抱いてやろうか、前のように? いずれにしても、眠れるだろう?」
 無言でアクィリフェルは王を睨み、黙ったまま背を向けて目を閉じた。硬い体が温もりの残る暖かな毛布で包まれ、戯れにしては真摯すぎる指が赤毛を撫で、そして消えた。




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