寝台に横たえられた王は青白く、身じろぎもしない。ぞっとしてアクィリフェルは目をそらす。そらしてもなお、音が聞こえた。 「すぐに医師を……」 うろたえるカーソンを一瞥し、アクィリフェルはそれだけで領主を黙らせた。真っ青になったケインを見やれば、先ほどの彼のよう、目をそらす。 「……わ、私の、……俺のせいなんです……!」 「ケイン殿?」 静かなアクィリフェルの声。それどころではない、と喚くカーソンなど無視したまま。 「ば、晩餐の前……海辺で何があったか……、下働きに喋ってて……だから」 ケインの手が震えていた。アクィリフェルはやっと村人がなぜあの場に来たのか納得する。ケインは自分の手柄を得々と、少し大袈裟に喋っただけだったのだろう。 だがしかし。村人にとってそれは。下働きもまた領主の民、村人に過ぎない。彼らはあの場にいた「吟遊詩人」に不審を覚え、また同じことが起きはしないかと、否、そもそもそれが原因だったのではないかと疑った。否、怯えた。 「騎士ケイン」 アクィリフェルは掌を握りこむ。手を傷つけてはいけない。まだ用があるのだから。わかっていても爪が食い込む。 が。アクィリフェルが何を言うより先、ケインはマルモルに殴り飛ばされていた。壁まで飛んでいったケインはその場でうなだれる。悔しそうに、情けなさそうに。殴られたことが、ではない。自分の軽口が王を傷つけた、そのことに。 「騎士殿」 再びアクィリフェルはケインを呼んだ。のろりと顔を上げるのを殴り飛ばしたくなる。 「まだ王の役に立ちたいですか。だったらさっさと立つ! そんなところでへばっていて、なんの役に立てるんですか。やる気があるなら、見張りを。僕はこの場で起こることを、誰にも知られたくない。いいですね」 一息に言い放ったアクィリフェルの姿に、ようやくケインは彼の激情を知った。息を飲み、狩人を見る。ついで青白い王を見る。 「わ、わかりました――」 唇を噛み、ケインは扉の前に立つ。しかしアクィリフェルは首を振った。寝室の扉ではなく、控えの間の扉に立てと。ケインが廊下に消えたのを確かめ、アクィリフェルは寝室の扉を開け放つ。一間を隔てれば、立ち聞きもできない。 「狩人、何を――」 カーソンの苛立ちアクィリフェルは答えない。ぐっと唇を噛みしめ、ちらりと王を見た。まだ、音は聞こえている。大きく息を吸った。 「狩人、陛下の衣服を――」 「そちらで勝手にやってください、騎士殿。僕は忙しい」 言い様、アクィリフェルは寝台の傍らに座り込む。寝台を背にして、まるで王の顔など見たくもないとでも言うように。 マルモルは気づいた。見ていられないのだと。本人がたとえ何を言おうが、アクィリフェルは自分のために倒れた王を直視できないでいる。 「医師を」 「いらないと言っているんです、カーソン卿! 僕が、治します。いいえ、僕にしかできない!」 「なんだと!」 「……この人を、世界がまだ必要としてるなら、治らないはずはないんですよ。治れば、とりあえず、なかったことになる……。いやなやり方ですけどね。あなただって、自分の領地で陛下が襲われたなんて、言われたくないでしょう!」 怒鳴り声に、指先は震えなかった。あたかも本職の吟遊詩人のようゆったりとリュートを構える。マルモルが無言で王の衣服を剥いでいく音が聞こえる。 「狩人。陛下の傷は――」 「かまいません。聞こえてます」 「なに?」 マルモルには何を言っているのかわからない。アクィリフェルは説明などする気がない。黙ったまま、肩まで使って大きく息を吸う。吐く。天井を見つめ、目を閉じる。顔を戻したとき、リュートは奏でられはじめた。 「こんなことをして何になる。マルモル。これは気が違っている! 我が体面など、どうでもよいわ! 陛下が――」 喚き散らすカーソンの息が止まった。アクィリフェルは静かに歌っていた。先ほどの、海辺の歌とは違う。歌詞などないことだけが同じ。アクィリフェル自身が一つの楽器。それでもそれは彼の歌だった。 「なんと――」 リュートが音を爪弾くたびに。アクィリフェルが喉を震わせるたびに。 「傷が」 塞がっていく。マルモルは見ていた、傷の惨状を。カーソンですら目をそらした傷だった。左の肩がぱっくりと弾け飛んでいた、その傷が。 アクィリフェルは世界の音と、自らの声、そしてアウデンティースの音を聞いていた。王の体が発する悲鳴を聞いていた。 ――聞きたくない。 心の底からそう思う。それなのに、いまだけは誰よりもはっきりと聞かなければならない。耳を澄まし、繋いでいく。 ――世界と。世界がこれからもまだこの人を必要とするならば。 混沌を退け、再びこの世界が世界として正しくあるために。そのためにアウデンティースが必要ならば、必ず傷は癒える。 確信などなかった。そんな考えがどこからわいてきたのか、アクィリフェルにはわからない。どうでもよかった。一心に思うのは快癒のみ。 「狩人」 マルモルの声に含まれた畏敬。アクィリフェルは無視をする。いま聞くべきはそんなものではなかった。 小さくなっていく悲鳴。塞がりつつある傷が発する音。血が滞りなく流れる、その音。 「……傷口に、触れても、いいだろうか」 震えるマルモルの声が何を意味しているのか、いまのアクィリフェルにはわからなかった。そんなものを聞く余裕はなかった。だからこくりとうなずく。 すぐに余分な音が混じった。肌にこびりついた血を拭う音。王の衣服を整えているのだろう、衣擦れ。すでに傷は塞がっていた。 「お前は――」 それ以上、カーソンは言葉を失くしていた。目の前で起きたことが信じがたい。王が傷を負ったことよりもなお。 アクィリフェルはまだ弾き続けていた。傷は塞がっても、体の奥は治っていない。ふと音が届く。 「アケル?」 何よりも聞きたくて、聞きたくない自分の名前。誰よりも憎くて、必要な人の声。わずかに息を飲み、けれどリュートは乱れない。 「僕の名前はアクィリフェルです」 静かにそれだけを言った。目覚めた王の傍らに、マルモルが歓喜の声すら潜めて立っているのも、カーソンが震えんばかりに喜んでいるのも、アクィリフェルには聞こえていた。 「……一つ、聞きます」 リュートはもう、爪弾くだけ。ひとしきり、側近に怒られた王の傷はほぼ快癒している。もういつやめてもよかった。それなのにアクィリフェルはやめられない。 「なんだ?」 平静そのものの声。アクィリフェルはゆるりと息を吸う。見た目ほど、良くなどなっていないのを、見てもいないのに感じた。 「どうして僕を庇ったりしたんですか。僕を庇ってあなたが死んで、何になるんですか」 「忘れたか」 「なにをです!」 背を向けたままリュートを弾き続けるアクィリフェルにアウデンティースはわずかに微笑む。マルモルが小さく息を飲んだ。誰も目にしたことがない、それは笑みだった。それが一転引き締められる。 「私は国王だ。目の前で害されようとしている民を放置することができようか?」 王だから。アクィリフェルも民の一人だから。アウデンティースの言葉に嘘はない。アクィリフェルの耳が偽りだけを聞き取ったとしても。 「だからと言って。死にたいんですか」 リュートの弦に弾かれたかのよう、傷が一瞬だけ痛んでアウデンティースは顔を顰める。まるでアクィリフェルに叩かれたかのようだった。 「いいや? だが、まぁ。そうだな。死ねば楽か」 なんと言うことを。カーソンが国王を叱りつける声。アクィリフェルは今度こそ振り返る。いまだ青白い顔の王を睨み据える。 「楽になる? なに馬鹿なことを言っているんですか。勝手に楽になんかさせませんから!」 「そう言うな」 「言いますよ、何度でも! あなたは、僕の目的のために必要です。いいですか、混沌の侵略を止めるまで、勝手に死なれちゃ困るんですよ!」 「そのあとだったら?」 不意に静謐な王の声。否、ラウルスの声。アクィリフェルは目をそらさず睨みつける。目を煌かせ、そして笑う。 「死にたければご自由に。あなたが死のうと僕はなにも感じません」 不意に頬に風を感じた。見れば、カーソンが真っ赤になって怒っている。確かに臣下としては許せる言葉ではなかっただろう。 けれどアクィリフェルは眉を顰める。頬を張り飛ばそうとしたカーソンの手を止めていたのは、マルモルだった。 「カーソン。マルモルの手は我が手と思え」 よくぞ止めてくれたといわんばかりの王に、しかしマルモルもまた顔を顰めた。いささか思うところがあるのだろう。 「止めてくださらなくっても結構でしたよ。でも、僕は自分の意思は曲げませんから」 言い放ち、アクィリフェルは再び背を向けた。途絶えてしまった曲をもう一度始めようとして、手を止めた。 「カーソン卿、騎士殿。気が散りますから退出を」 「貴様、あのようなことを言っておいて今更なにを言うか! 貴様のような輩を陛下の元に一人で置いておけるものか!」 「カーソン卿。陛下を治したいんですよね。だったら出て行ってください。迷惑です」 今度は直接国王に抗議をしたカーソンだったが、手もなくあしらわれた。マルモルが引きずるようにして寝室を出て行く。 「アクィリフェル」 「なんですか」 「……もう、ほとんど治っている。かまうな」 「……御侍医は苦労しているでしょうね。患者が勝手に傷をはからない。黙って寝ててください」 ぎこちない言葉はお互いだった。なにを言っても嘘になる。なにを言っても真実が零れる。 「アケル」 「僕の名前はアクィリフェルだと言っています!」 「……寝言だ」 「そんなはっきりした寝言があるわけない!」 アウデンティースには、アクィリフェルを怒らせるしか方法がなかった。 アクィリフェルには、彼の声から響く音を無視するしか方法がなかった。 |