一心にリュートを奏で、歌い上げるアクィリフェルは王に自らの行為を看破されているとは気づいていなかった。 もっとも、看破されていたとしても気にも留めなかっただろう。むしろ、喜びに似たものを感じる自らを唾棄すべきもの、と詰ったかもしれない。 アクィリフェルは確かに戦っていた。目に見えず、正体も知れない混沌と。ただの吟遊詩人のように。月夜に誘われた甘い詩人のように。ただ、歌い、リュートを弾き。 自分の心に悲鳴が満ちているのを彼は感じていた。それが自分のものなのか、それとも世界のものなのかの区別すらつかず。 声が出るのならば、歌いながら声が出せるものならば、アクィリフェルは悲鳴を上げていただろう。否、絶叫していただろう。 体中が、痛い。骨の一つ一つが軋みを上げ、筋肉の一つずつがほどけていきそうな痛み。 ――これが、世界の痛み。混沌に侵される痛み。 アクィリフェルの歌で満たされていない心のどこかがそう思う。思う側から音色へと変っていく。まるで自分が楽器になったようだった。世界を歌うのではなく、世界に奏でられているかのような。 ――それでいい。 小さく笑ったのに、アクィリフェルは気づかない。知りもしないままに歌を続けた。少しでも遠く。一瞬でも、時間を稼ぎ出す。ただそれだけのために。 根本的な解決策になどなっていない。そんなことは知っている。今はただ、これしかできない。 「できることを、できるだけ――」 呟いた言葉が歌になり、音色になる。かたくなって立ち尽くしていたケインが不意にはしゃいだ声を上げた。 アクィリフェルは見もしない、感じもしない。それでもわかった。突如として安定した音色。不意に楽になる体。 「……遅いですよ」 口にして、はじめて待っていたのだ、と気づいた。苦く笑い、それもまた歌になる。 音楽を乱すことを恐れてか、アウデンティースは近づいてはこなかった。少し離れて立っている。まるで、アクィリフェルの背中を守るように。 守られて、見つめられてアクィリフェルは奏で続けた。深く息を吸えば空気が甘い。海辺の潮風が、疲れた喉を焼くのに、それでも甘かった。理由など、ない。 もう少し、続けなければならない。混沌は確実にこちらに気づいている。それが人間のような認識を持つものか、アクィリフェルにはわからない。むしろ、わかりたくないと思う。 知ってしまうのが、恐ろしい。知れば「こちら側」に帰ってくることができなくなってしまうような予感。 それでもいずれは知らねばならなかった。戦うために。根本的に排除するために。この世界を守るために。 怯えているのだろうか、怪しんでいるのだろうか。混沌が手を引くのを感じる。一時的な撤退。直後に大々的な侵攻があろうとも。今はこれしかできない。わずかに唇を噛み、アクィリフェルはまだ続ける。 「陛下――」 そんな彼の背中を遠く見守るマルモルの声はかすれていた。何を問おうというのか、自分でもわからなかった。 「どうした?」 答えを返しつつ、アウデンティースはケインを見やっている。殊勝にも、アクィリフェルの警護を忘れていないのか、彼の傍らから離れてはいない。そのことにわけもなくほっとする。 「狩人は、その……」 「戦っている。そう言ったが?」 「その意味を是非お教えいただきたく」 「……わからん」 「はい?」 口に出して、はじめてとんでもない返答をしたとマルモルが青くなった。が、アウデンティースは気づかなかったのだろう、遠い目をしたままアクィリフェルの背中を見ている。 「戦って、いるのだろうな。それは、わかる。混沌と戦っていることは、類推できる。が、どうやって? 音楽でか? アクィリフェルは、何をどう認識している? 全部わからん」 それはわかりたくともわからない己を悔いるような声だった。アウデンティースの背後から風が吹く。 「何もかもわからん。だが、私は信じている。あの男のすることを、無条件で信じている」 マルモルは王を見上げた。口許に笑みがあるかと思って見上げた。 けれど王は真剣な表情のまま、黙って狩人の背を見つめ続けていた。少し細められた眼差しは、まるで太陽を見ているかのよう。眩しくて、けれど暖かいものを見るかの。 言葉をなくしマルモルは目をそらす。その雰囲気を感じ取ったのか、一瞬迷う素振りを見せたものの、ケインが走りよってきた。 「おい!」 一応マルモルはたしなめる。けれど辺りのどこにも不審なものはなかった。ただの夜の海岸。月に照らされた深い夜色の波が銀の縁取りを輝かせて岸辺に打ち寄せる。穏やかな夜風は、肌寒いというほどではなく、かえって心地よいほど。そしてアクィリフェルの音楽。事情を知らないものには、貴重な吟遊詩人の音色のよう。 村人が数人、彼の音楽に誘われでもしたのだろう。海岸を散歩していた。ゆっくりと、狩人の側に近づいていく。 「……なに」 不意に目覚めたかの王の声。はっとしたときには騎士たちはすでに遅れていた。 突如として走り出した王に間に合わない。何を意図してのものかわからない。それでも彼らは追随する。彼らは、騎士だった。 「陛下!」 一瞬、村人がぎょっとしたように立ち止まる。ついで彼らは走り出した。一直線に。アクィリフェルに向かって。 「よせ――!」 アウデンティースの叫びは届かない。村人にも、アクィリフェルにも。音に身を委ねきっていたアクィリフェルは現実に帰ってくるのが遅れた。村人は、もう止まれなかった。 騎士たちは気づく。そして背筋が震える。村人は、手に手に武器を持っていた。月光に、鍬やら鋤やらがこの世のものではないかのごとく輝く。 「アケル――!」 叫び声が不快だと思った、アクィリフェルは。振り返って叫ぼうとしたその瞬間。 「……え?」 目の前が何か大きなもので塞がれた。視界を覆った何かが揺らぐ。真っ暗になったと思ったら、また夜の海が見えた。重たいものが砂浜に落ちる音。 「……ラウルス?」 無意識に、そう呼ぶ。アクィリフェルの前、アウデンティースは砂浜に墜ちていた。 「陛下!」 騎士たちが駆け寄ってくる。怯えた村人が捕縛され、ようやくアクィリフェルは彼らこそが王を切ったのだと理解する。 「……どうして。なんでこの人を!」 歌い続けて掠れた声だった。それなのに、遠くまで響いた。あたかも、悲鳴のように。 「違う。違う――!」 「そいつが。なんか知らん、奇妙なことしやがって」 「また、あんなことになる。絶対、こいつのせいだったんだ」 口々に村人は叫び、己の言葉に錯乱していく。アクィリフェルは唇を噛みしめる。アウデンティースに手を伸ばすことができなかった。ぴくりとも動かない、王。 「騎士殿」 妙に平静な声に、村人を縛っていたマルモルがぎょっとして振り返る。 「それ、黙らせてください。うるさいです」 「おい、狩人!」 「あなたも、黙りますか、騎士殿」 返す言葉を失ってマルモルはアクィリフェルを睨んだ。すぐに視線が外れる。見ていられなかった。 「ケイン殿」 「は、はい!」 「マルモル殿と代わってください。村人を黙らせるくらい、あなたでもできますよね。マルモル殿。この人を……王を、運んでください。内密に」 「だが、狩人」 「すぐに!」 反論など、できなかった。絶叫じみた声は何もかもを語っていた。王の前にぺたりと腰を落としたアクィリフェルの目など、とても見ることができなかった。 不意に走りよる足音。荒い息遣い。アクィリフェルはのろりと振り返る。 「……あなたですか、黒幕は。カーソン卿?」 狩人の視線を先を追った騎士たちが、一様に剣の柄に手をかけた。 「お答えを、カーソン卿」 領主は答えられなかった。ただ呆然と立ち尽くす。その目が見つめているのはただ一点。倒れ伏した王の体。 「陛下!」 先ほどのアクィリフェルの絶叫が悲鳴ならば、これは絶望だった。アクィリフェルは目を閉じ、息をつく。 「……少なくとも、あなたは敵ではないようですね」 「なんなんだ、いったい、これは!」 「見てのとおりですよ。大事にしたくなかったら、内密に」 「なにを言っている! マルモル、説明しろ!」 対してマルモルは肩をすくめただけだった。ちらりとアクィリフェルを見やり、溜息をつく。それから王の体に近づき、担ぎ上げた。 「ここは狩人の言うとおりにするのが最も安全かと」 「だが、待て。何が」 「カーソン卿。あなたは王を死なせたいと思っていますか」 「なにを、貴様!」 「だったら早くしてください!」 ようやくアクィリフェルの尋常ではない様子にカーソンは気づいた。息を飲み、ケインが連行する村人に身を震わせる。 「こちらだ」 内密に、と言う理由はわからなかった。自分にならば、ある。こんなことが自らの領地で行われたなど、口が裂けても漏らせない。 硬く強張ったカーソンを、アクィリフェルは追い抜かんばかりにして急ぐ。つられるようにしてマルモルも足を速めた。 「ケイン」 ふと首だけ振り向け、マルモルはケインに何事かを指図する。村人の、否、犯人をどうするかだろう。アクィリフェルは聞き流して急ぐ。 「聞こえるんですよ、今でも。聞きたくないのに。聞きたくなんかないのに!」 口の中で呟く叫びは、誰にも届かない。いまだけは届かせたかったその人は、流れ続ける血でマルモルの肩を染めていた。 |