自分で思っていたより、ずっと体は疲れていたらしい。こんなことでは先が思いやられる、と目覚めたアクィリフェルは寝台の上で溜息をついた。 領主の城に帰ってきてからのことをよく覚えていなかった。倒れるように眠った気はするのだが、他にも何かをした気がする。 「あぁ……そうだ。あれだ」 何かに突き動かされるように動いていた、あのときは。帰還後すぐ、喜び勇んで王を出迎えたカーソンに、と言うよりアウデンティースに水瓶を要請した。 「それと、静かな場所を」 「お前一人になれる場所、と言う意味か」 「わかっているなら聞かないでください、鬱陶しいな!」 王に向かって叩きつけた言葉にカーソンが顔色を変えた。が、アクィリフェルは意に介しもしない。むしろ少しばかり驚いたのは、そんなカーソンをマルモルが諌めていたことだった。 無言で王を見据えれば、アウデンティースはカーソンに視線を移す。むっつりとうなずいて領主は水瓶と場所を提供してくれた。 「それに歌ったんだ、僕は」 寝台の上、頭を抱えていた。なぜ、そんなことを要求したのか。自分の意思ではないとは言いにくい。確かに少しばかりは効果があるだろう。だが。 「どうして、あのときだったんだろう……」 村人は解放した。少なくともしばらくは大丈夫だろう。それなのに。 「え――」 大丈夫。そう思ったことに根拠がない。それに今更ながら気づいた。 「そう言うことか……」 自分では気づいていなかったことを、世界の悲鳴が教えてくれた気がした。これで終わりではないと。すぐさま次の手を打たねばならないと。 「だから、歌ったんだ」 水瓶に、否、水に向かって。海辺に赴かざるを得ないときには、あの水を一口なりとも飲んでいけばいい。さして長い間持ちはしまいが、多少の効果はあるだろう。不思議とアクィリフェルは確信している。水を示唆したのが王だと言うことは強いて忘れた。 「次。行くか」 ゆっくりと体を起こす。拳を握り締め、伸びをする。大丈夫、問題ない。それを確かめてアクィリフェルは部屋を出て行った。 思いがけなかった。もう日が落ちているとは信じられない。それほど長く眠ったつもりはなかったものを。 「疲れていたからな、ずいぶんと」 はっとして振り返れば、王がいた。これから晩餐だろうか、それなりに見られる格好をしている、と思った瞬間にアクィリフェルは顔を顰めた。 「知った風な口をきかないでもらえますか。僕の体です。自分のことは自分が一番知ってますから」 本当はどうだかわかったものではない、とアクィリフェルは内心で認めてはいる。だが、アウデンティースに言われることだけが、耐え難い。 わかって、やっているのだ、この男は。自分の癇に障ることをやり続けている。それがわかっているからこそ、いっそう気に障る。罠にでもはまった気分だった。 「これ、狩人。アクィリフェルと言ったな。陛下に向かってそのような――」 いくらこれが狩人の常態だ、と納得したとしてもさすがに今度は目に余ったのだろう。カーソンが渋い顔で口を挟む。 「よい、カーソン。気にするな。かまうと話が面倒になる。これはこういう男だ。口は悪いが、することはする」 「ですが――」 「あなたに褒められても貶されている気がしますね、陛下」 「実は貶している」 以前だったらかっとして言い返しただろう、アクィリフェルは。だが今は冷たくアウデンティースを見据えるだけだった。 「……これから晩餐ですか」 ゆっくりと息を吸い、話題を変える。こんなところで、この男と話をしていたくない。自分のすべきことが今はまだある。 「いや? 終わったところだ。だからよく眠っていたと言ったんだが。わからなかったか?」 からかうような口調の中に潜む音色を、聞き取れないとでも思っているのだろうか。否、やはりわかってやっているのだ、アウデンティースは。 王の声の中にわずかに、時折混じるラウルスの音。願っても祈ってもこの手に戻ることのない男の声。アクィリフェルは耳を閉ざせないのならばいっそ聞こえないふりをする。 「ならば陛下にお願いの儀が」 せいぜいかしこまって言って見せればそこに浮かぶ傲岸。とても請願者の態度ではなかった。だがアウデンティースはそれすらもよしとするかのよう、鷹揚に微笑んで見せる。 「どなたか騎士をお一人。僕一人で一向に構いませんが、よけいなことをされても迷惑ですから」 「護衛などいらんか? お前の腕ではそう言いたくなる気持ちもわからんでもないがな。まぁ、連れて行け。マルモル!」 「――いえ、もう一人の若い騎士殿、ケイン殿と言いましたか。あの方がいい」 「……ほう?」 訝しそうに首をかしげ、ついで王はにっと笑った。その表情にラウルスを見た。カーソンが王を見上げるまでのほんの一瞬だけ。アクィリフェルは王の顔に戻ったアウデンティースを睨みつける。 「どこに行くか、なぜ騎士を借りるか聞かないんですか」 「聞いて素直に話すのか?」 「いいえ?」 ふっとアクィリフェルが笑った。鼻で笑うも同然だったにもかかわらず、表情自体はなぜか奇妙に柔らかい。 アウデンティースは思わずここがどこか、周囲に誰がいるのかを忘れそうになった。誰にも気づかれないよう拳を握り締め、あえてアクィリフェルから目をそらさない。 そんな王をアクィリフェルはつまらなそうに見やって笑みを消した。そして何事もなかったかのよう視線でケインを探す。 「……いませんね?」 晩餐が終わったばかりと言うのに、いったいどこに消えてしまったのだろうか。マルモルが慌てて人を走らせるのに、悪いことをしてしまったとアクィリフェルらしからぬ反省をする。別段、あの騎士を求めていたわけではなかった。いないのならば他の誰でもかまわなかったのだが、今更もう遅い。 「申し訳ありません!」 飛んできた若い騎士は手にパンの塊を持っていた。どうやら晩餐が足りず、厨房にもぐりこんでいたようだ。 「隊長、お呼びですか!」 「呼んだからきたんだろうが。いいから、狩人についていけ。……パン、落とすなよ」 「え、あ、はい! その……!」 「行きますよ、騎士殿。いいですから、パンを齧りながらでも歩けるでしょう。それともあなたは口で歩くんですか」 不幸にもケインはちょうどパンを口に押し込んだところだった。もごもごと言いながらそれでも果敢にアクィリフェルについていく。 そんな彼らをアウデンティースは苦笑しながら見送る。結局どこに行くかもなにをしに行くかも彼は言わなかった、振り返りもしなかったと。 「……陛下」 「うん? カーソン。いかがした?」 「陛下はよいと仰せですが、あの傍若無人。彼はいったい」 「放っておいてやれ。あれにも思うところは色々とある」 アウデンティースの口調に何を感じたのか、不承不承にカーソンは黙った。もうよいとばかり王がうなずいて見せれば、やはりむっつりとしながらもカーソンは不平を言わず下がっていく。 それを見定めたのち、アウデンティースは視線を巡らせる。周囲には股肱の騎士たちだけが残っていた。 「マルモル」 「は」 「海辺は冷えるかな?」 「はぁ……この刻限ですと、それなりに」 「では、マントを」 「陛下、いったい何をするおつもりで!」 「声が高い。抜け出すぞ」 「ですが――!」 言い募ろうとしたマルモルの口を咄嗟にアウデンティースは押さえる。周りを見回して、カーソンの臣下がいないことを確かめた。 「陛下、お疑いで?」 「まさか。忠義が服を着て歩いているような男だぞ、カーソンは。が、知られたくないこともある」 「……狩人めのためにございますか?」 「間違えるな、私のため、だ」 ぴしりと言って若い騎士が取ってきたマントを羽織る。そのまま騎士たちに混じって庭へと出た。だから城の者は誰も気づかなかった。騎士が一人二人欠けていたところで、気づくはずもなかった。 「陛下、どちらへ?」 悪いことをしているわけではないのに、マルモルは妙に小声になってしまって、そんな自分に腹が立つ。 「海岸だ」 「そこに何が?」 「アクィリフェルがいる」 「狩人が? ですが、先ほどケインをつれて……」 「待っているだの先に行くだのあの男が言うと思うか?」 アクィリフェルの名を王は冷たく呼んだ。冷ややかに、なんの関わりもない者のように。だがマルモルはアウデンティースと言う王を知っていた。 「あれは、私が追ってくるのを知っている。だからお前を残した」 「私を?」 「ケインを連れて行ったのは、私の側にお前を残すためだ。私の身に万が一のことがないように――と言ったら間違いなく殴られそうではあるがな」 そんなことをアウデンティースは実に楽しそうに言った。マルモルは唖然として夜の中を歩く王を見る。 海岸は、昼間よりずっと近く感じた。それは二度目のせいかもしれないし、重い鎧をつけずに歩いているせいかもしれない。 「陛下……」 マルモルは息を飲む。火の気のない海岸に、人影がまるで怪しい何かのように、妖精のようにわだかまっていた。 マルモルの驚きを世界が汲んだかのようだった。夜空から雲が去り、月の光が射し込む。瞬きの間に、海が輝いた。漆黒の波が、まるで白いレースをまとったかのよう煌く。 「あぁ……弾いているな」 驚きに息をすることも忘れそうなマルモルの耳に王の声と同時にリュートの音色が響き渡った。さして大きな音ではない。それなのに、包み込まれるかの心地。 「綺麗だな。――が、あれでアクィリフェルは戦っている」 この世の幸福を歌い上げるような甘い音色に向け、アウデンティースはそのようなことを言った。怪訝な顔をしたマルモルに視線を据える。 「――混沌と」 何も気づいていないのか、ようやく二人に気づいたケインがはしゃいで彼らに向かって手を振った。 |