丘の上、マルモルは感嘆していた。なにがなんだか今もってよくわからない。だが彼の王が村人の肩に手をかけるたび、彼らは目覚めていく。 「陛下……」 感極まった声がリュートの音色に乗る。若いケインなど、身を乗り出さんばかりにして王の一行を見つめていた。 最後の一人、最も水際に近い場所に立ち尽くしていたものの肩にいま、アウデンティースが手をかけた。 まるで深い呼吸のような音。思い切り吸い込んだ新しい大気。胸を満たしていくのは何か。あるいはそれを希望と言うのかもしれない。柄にもなくそんなことを考えたマルモルはリュートを弾き続け、歌い続けるアクィリフェルを見やる。 「狩人――」 なんと声をかけたものか、迷った。もう済んだ、とでも言えばいいのだろうか。それとも感謝していると言えばいいのだろうか。 そう思った途端、この男がいったい何をしたのかまるでわかっていない自分に気づく。ただ、リュートを弾き、歌っていただけだ。 だがマルモルの心の奥深くが違うと言う。この狩人がいたからこそ、民は目覚めた。王ではなく――。 「違いますよ、騎士殿」 「な! 貴様、何を言っている!?」 「あなたの顔に書いてありますから。僕のせいじゃないです。僕は何もしてません――と言ったほうがいいんでしょうけど、実際は少し手を貸したというところでしょうね」 「よく言う!」 「そうですか?」 「いまこちらを見ていたか? 見もしていないくせになにが顔に書いてある、だ!」 憤然と言ってのけたのはおそらく畏怖の念を振り払うためだ、と後になってマルモルは気づいた。あまりにも平静だった、狩人は。 これだけのことをしてのけた男だった、アクィリフェルは。手を貸した、と本人は言うけれど、そのようなものではないとマルモルは悟っている。 「だったら聞こえた、と言ったほうがよかったですか? それで意味が通るならそちらのほうが正しいですけどね。でも、わからないでしょう?」 リュートを弾いているせいだろうか。話しながらもいまだアクィリフェルは音楽を奏で続けていた。多分、そのせいなのだ、とマルモルは思う。いつになく穏やかなアクィリフェルの声だった。 「すごい、すごいですよ、狩人さん! ほら、みんな正気になった!」 はしゃぐケインの声にアクィリフェルは目を上げる。いままで視線は遠くさまよい、あたかもこの世のものではない場所を見ているかのようだったものを。 事実、アクィリフェルは現実のこの場所を見ていたのではなかった。体はこの場にあり、歌い、奏で。けれど心はアウデンティースと共にあった。彼の手となり、声となり、民を目覚めさせたのはアクィリフェルとも言えた。 「……違うんだけどな」 あれは王の手だった。誰が何を言おうとアクィリフェルは知っている。例えば自分があの場にいて、そして村人の肩に手をかけたとしても彼らは決して目覚めなかっただろう。 「え? 何が違うんです? ほら。陛下がこっちに手を振ってらっしゃる。すごいなぁ。尊敬します!」 「誰をだ?」 「いやだな、隊長。陛下に決まってるじゃないですか。あ、でも、狩人さんもすごかったなぁ。あれ……?」 若いと言うことなのか、それとも別の何かなのか、ケインははしゃぎ続けている。その声が一瞬曇り、アクィリフェルは振り返る。 「どうしたんです?」 「いやぁ、その。なんで狩人なのかって。だって、吟遊詩人でしょ?」 あっけらかんと言われては反論する気も起きなくなってしまった。溜息をつき、首を振るだけにとどめてリュートを弾き収めた。 「戻りますよ、騎士殿がた」 自分が何をしたのか、アクィリフェルはわかっていたけれど、説明はできなかった。自分でわかっていればそれでいい、そう思う。そして自分以外に彼が知っている。それで充分とも。 「……いやだな」 呟きは騎士たちには届かなかった。ぎゅっとリュートの首を握り締め、息を吸う。遠く、視線を向けた、海の彼方へ。 「混沌」 あちらにいる。あるいは、ある。どちらが正しいのか、いまだアクィリフェルにもわからない。ただわかっていることが一つあった。 「見つけられましたね」 自分と言う存在が。そしてアウデンティースと言う王の存在をも。 「アクィリフェル」 空馬の手綱を握った王が馬上から声をかけてきた。どうやら迎えに来てくれたらしい。 「なにしてるんですか。迷惑な」 言ったものの、本当は感謝していた。背負ったリュートを重く感じるほど、疲労している。意外だった。ただ、弾いていただけだ、外面的には。けれど心はずっと混沌と戦い続けていたようなもの。 「まぁ、そう言うな」 何事もないかのようなアウデンティースの声に苛立ちすらしなかった。疲れのせいだ、とアクィリフェルは思う。 思っただけで黙って手綱を受け取る。馬上に上がろうとして、体がふらついた。それを悟られまいと手綱を強く握る。 「……迷惑です。そう言いましたよね」 体が揺らいだ瞬間だった。振り返らずとも、アクィリフェルにはアウデンティースがどう動いたのかわかっていた。 まるで自分の体を隠すよう、さりげなく馬を動かした。疲れを他人に見せたくはないというアクィリフェルの意を汲んで。 「そうだったか? 聞こえなかったな」 「なに言ってるんですか! 返事だってしていましたよ、そうですよね!」 「まぁ、そう怒鳴るな」 「怒鳴らせているのは――」 すっと息を吸い、そしてアクィリフェルは黙った。まるで過去に戻ったかのようなやり取り。アクィリフェルは目をそらし、アウデンティースの表情を見ようとしなかった。 はらはらとマルモルたちが見守っているのが感じ取られている。アウデンティースが苦笑しながら、横目で自分を見つめているのを知っている。 聞こえていた。人々の動き、感情の音まで。煩わしいほど鮮明に。アクィリフェルの耳にいまだ世界の歌が響いている。そのせいだった。 アクィリフェルが民の事に気づいたのは、出発してしばらく経ってからだった。辺りを見回せば、騎士たちの数が少ない。 「騎士隊の半数を民につけた。村まで送っていくことになっている」 アクィリフェルの疑問を見透かしたかのような王の声。アクィリフェルは黙ってただうなずいた。 「……どうでしたか、感触は」 自分は混沌と相対していた。アウデンティースが違ったとは、アクィリフェルは思っていない。 「恐ろしかったよ、私は」 やはり、とアクィリフェルは思う。自分が感じていたことを、彼もまた感じていた。すぐ側で見聞きしていたのだから、当然だと思う反面、それを忌々しくも思う。 「不本意ですが、同感です」 何かに飲み込まれるような、自分が汚れていくようなあの感触。たとえ汚物の中で転げまわったとしても、あれほど不快ではなかっただろうとまで思う。 「どうだった」 短い言葉に、口論を仕掛ける気力も今はなかった。言いたいことはわかっている。伝えたいこともある。それでいいような気がして、首を振る。 だがアウデンティースはその仕種さえも明確に読み取って見せた。なんの意味もないということを。ただの動作に過ぎないと。感情が伴ったものではないと。 腹を立てるには、疲れすぎていた。他人の思いを汲み取るには、頭の中が霞みすぎていた。だから、わかる。アウデンティースのことは、自分のことのように。 「失敗したかもしれませんね」 鋭く息を吸った音。間違ってもアウデンティースのそれではないとアクィリフェルにはわかっている。のろりと首を巡らせて見れば、やはりマルモル。 「なんと……狩人。どういうことだ……?」 「申し訳ありませんが、騎士殿」 「なんだ?」 「黙っていてください。言葉を選ぶ余裕が今の僕にはない。説明するのも面倒です」 叩きつけて言うのならば、マルモルは言い返しただろう。だがアクィリフェルはそれを訥々と言った。言葉通りなのだろうと充分に窺わせる口調で。おかげでマルモルも口を閉ざすよりなかった。不満そうに王を見やれば、苦笑が返ってくる。 「それで、アクィリフェル?」 けれど王はマルモルに取り合わず、アクィリフェルに尋ねた。疲労がつらいのだろうとわかっていた。理解しているからこそ、喋らせ続けねばならない。このまま黙らせれば、アクィリフェルは落馬しかねない。そしてそんな自分を強く恥じるだろう。今できる、これがアウデンティースの精一杯だった。 「見つけられました。たぶん。いや、間違いなく」 「そうか」 「僕だけではなく」 「私もだな。当然と言う気はする。もっとも、ありがたくもあるが」 「なぜ?」 「こちらに目が向いてくれたほうが楽だ。民に危害を加えられては、やりにくくてかなわん。私は一人。どこにでも赴けるわけでなし」 溜息のような言葉にアクィリフェルは目を上げる。視界が霞んでいる気がした。王が、笑っているように見えた。 楽しげではない。むしろ、これから先の苦難を覚悟したかのような。それでいて晴れやかな。不意にアクィリフェルはこのまま死にたくなった。 「……あなたは、この国の王なんですね」 ぽつりとした呟き。自分の手の届かないところにいってしまった一人の男。追い求めるのはいやだった。もう忘れてしまいたかった。 それなのに、折に触れ、何度も何度も繰り返し思い出すことを強要されてでもいるよう。この思いを、世界の悲鳴に乗せて叫んだら、どうなるのだろう。 思った途端、視界がはっきりした、恐怖に。 「アクィリフェル。どうした」 平静を装ったアウデンティースの声の中に焦燥を聞き取ったアクィリフェルは、皮肉に唇を歪めて笑う。 「ちょっと。自分で自分が怖くなっただけですよ」 もしも実行したならば、そのときは。この世界は自らの悲鳴で壊れるだろう。試すまでもなく、世界を歌う狩人は悟っていた。 |