不満の表れだろう高い足音が追いつき追いすがる。アクィリフェルは聞こえていながらそんな素振りは決して見せなかった。 「待て! 狩人、待たんか!」 肩に手をかけられそうになり、咄嗟にアクィリフェルは体を開いてかわしていた。 「やめてください。気色悪い!」 酷い暴言だと、言ってしまってから思った。が、言葉は還らない。ばつが悪くなって視線をそらせば、それでマルモルは機嫌が悪いとでも思ってくれたのだろう、軽い舌打ちはしたけれど、それだけで済ませてくれた。 「説明しろ、狩人」 「別にしてもいいですけどね――」 思わせぶりに言葉を切り、もったいぶった表情でアクィリフェルは振り返る。視線の先には騎士の指揮を執る王。 「さっさと配置につかないと、騎士方も陛下も民の二の舞ですよ」 「なに!?」 「混沌の侵略です。聞いてますよね」 自らの言葉を証し立てるよう、アクィリフェルは足早に丘へと向かう。高いところから、海を臨むために。そして人目につかないために。 「みんな、魅入られてるんですよ、混沌に」 「なんだ、それは!」 「そんなこと、僕に言われたってわかるわけないでしょう! 僕はただ、感じ取ってるだけだ」 「……だが」 「なんですか」 「陛下は、お信じになった」 ぽつりと言い、そしてマルモルは決然とした顔をする。彼が戴く王が信じたものならばまた自分も信じるのは当然だとでも言うように。 アクィリフェルはそんな彼の顔から目をそらし、唇を噛む。マルモルのよう、単純な信頼を持てたならば、世界はどんなに生き易いだろうか。 そう思った自分に小さく嗤った。まるで複雑だとでも言っているようで、笑えてしまった。決してそんなことはない、と思う。 あれは国王で、自分は狩人。決してラウルスでも愛した人でもない。ただ、それだけだ。 自分に言えば言うほど、信じ難くなっていくことの奇妙さには目をつむったまま。漏れでそうになった溜息をこらえたことにすら気づかなかった。 「なにかよくわからんが、陛下はお信じになった。私は貴様の護衛なのだな?」 「別に要りませんけどね」 「そう言う可愛くないことをぬかすな!」 「あなたに可愛いと思われてなんの得がありますか、僕に?」 「えい、煩いわ! ケイン、ケイン!」 ちょうどそこに通りがかった若い騎士をマルモルは呼びつけた。跳ねるような足取りが、若い鹿のようだとアクィリフェルは思う。年のころは自分とさして変らないはずなのに、なぜか幼く思えた。 「隊長、お呼びですか。何かご用ですか」 「用があるから呼んでいる。無駄口を叩かずさっさとこい」 「――無駄口、あなたも叩いている気がしますけどね、騎士殿」 「狩人! 貴様、一度痛い目にあいたいか?」 「騎士殿」 「なんだ!」 「急ぐんじゃないんですか。僕はできれば陛下が混沌に魅入られるのは避けたいんですが」 「煩いわ、わかっている!」 どこまでわかっているのかとアクィリフェルは半ば呆れつつも、マルモルにわずかながら感謝の念を持たないわけではなかった。 無駄口、暴言。国王に対するそれを騎士がどう感じているかは聞くまでもない。それを許されている気がした。その上、付き合ってくれた気さえした。 「隊長――」 「黙ってついてこい」 「はい……」 若いケインと言う騎士は、あるいはまだ初陣前なのかもしれない、とアクィリフェルは思う。国王の側近くで働くことを楽しみにしていたのではないかと。 「騎士マルモル」 「なんだ、狩人アクィリフェル」 「僕は一人なので一々そう呼ばなくともわかります。それで、騎士殿。そちらのお若い騎士殿は陛下の元にお返しになったらいかがですか」 「なぜだ。私一人で護衛するに不足があるとは言わんが、目は二組あったほうがいい」 きっぱりとした言葉だったせいで、アクィリフェルはそれ以上を言えなくなる。ケインが不満なのではない。 ただ、なぜとない不安があった。ケインがここにいることが、では多分ない。では何かと言われれば、わからない。あるいは本当にケインのせいかもしれない。 ちらりと見やった若い騎士は、アクィリフェルの進言が容れられなかったとはいえ、そう言ってくれたことを喜んだのだろう。目が輝いている。 そんな彼を見てしまっては、この騎士が不安の原因であるとはとても思えなくなった。思いを振り切るようにしてアクィリフェルは足を速める。 丘はすぐそこだった。登るにも、たいして時はかからない。足早に上り詰めて下を覗いたとき、国王の一行が海辺に近づくのが見えた。 「まったく。気の早い。こっちの準備というものを考えてもらいたいですね」 どうやらアクィリフェルの独り言は聞かないふりをされたらしい。もっとも、聞いて欲しかったわけではないからかまわなかった。 「狩人」 「いま忙しいです。手短にどうぞ」 「なにを、している?」 「あなたは僕がこれから食事をするように見えるんですか」 「リュートの演奏の準備をしているように見えるから聞いている!」 「だったら、それで正解ですよ」 「狩人……説明……」 呆然としたマルモルの言葉も、ケインの丸い目も無視してアクィリフェルは丘の頂上に足を組んで座り込む。 膝の上、リュートを抱えた。目を閉じてしまってもよかった。が、結局アクィリフェルは遠くを見つめる。 「見えませんね、ここからでは」 「なにが、だ?」 不意にラウルスの声に聞こえた。咄嗟に振り返らずに済んだのは、狩人としての鍛錬の賜物に違いない。 「混沌が、ですよ。騎士殿。高いところに登れば見えるかと思ったんですけどね。別に、見えなくともかまいませんが」 「なにを、言っている?」 「見えなくとも、聞こえるからいいんです」 答える気はなかった。マルモルには理解させる気がないことはそれで知れただろう。口をつぐんで鼻を鳴らした音がした。 「見えますよ――」 リュートの弦に指を添える。アクィリフェルの言葉が何を指しているのか確かめるよう、騎士たちが目を凝らす。 「陛下だ!」 若い騎士の弾んだ声にリュートの音が乗った。はっとして息を飲んだのはどちらだったか。ケインのように聞こえたけれどアクィリフェルの意識はすでにそこにはなかった。 「混沌の糸が、絡んでいる――」 呟きに、答えるものはない。アクィリフェルの遠い眼差しの向こう、王が振り返った。丘の上から流れ出た小さな音を聞きつけたとでも言うよう、そして見えはしないと侮ったかのよう、微笑んでいた。 「だから、見えてるんですよ、甘いです」 言うアクィリフェルの唇にもなぜか微笑が浮かぶ。彼はそれに気づかずリュートを爪弾く。アクィリフェルの耳には混沌の響き。世界の悲鳴を覆い隠さんばかりの不協和音。 「――それでもこの音は隠せない」 リュートを奏でる。騎士たちに、王に届けと。彼らを包み、混沌の糸から守れと。不意に眼下の騎士たちの誰かが顔を上げた。 「ほら、これで動ける」 背後に立つマルモルが奇妙な視線を向けているのにアクィリフェルは気づいた。けれど、かまってはいられなかった。 「……気づかれたか」 「誰にだ!?」 「……混沌に」 あたかも会話のよう。が、アクィリフェルはマルモルに答えたのではなかった。混沌に向け、自分はここにいると示すよう、高らかにリュートをかき鳴らす。 「僕には届かない。今はまだ、お前の指は届かない。……あの人には、決して届かせない」 自ら口にした言葉にわずかにアクィリフェルは顔を顰め、その拍子に思わず仰け反りそうになる。舌打ちをして、意識を耳に。 「届かせない。決して」 繰り返し、しかと見えるはずもない小さな王の姿を探す。気が緩めば、混沌に操られる。身をもってそれをいま知った。ならば強い心を保つまで。 「それがあなただとはね」 忌々しいとでも言わんばかりの口調に滲む柔らかさ。奇妙にアクィリフェルらしかった。マルモルもケインもただそんな彼を見つめるばかり。 何をしているか、彼らには決してわからないだろう。わかるのは、王が何事もなく民の元に向かっていることだけ。 「それでいい――」 自分は切り札とアウデンティースは言った。だが、一介の狩人に過ぎない身。彼こそが、この国の王。 「腹立たしいくらい、あなたしかいない」 毅然とした背中が、まるで目の前にいるかのようよく見えた。 「違う――」 よく見えるのではない。いま自分は彼と共にある。不意にアクィリフェルは気づいた。体は丘に、心は王と共に。 アクィリフェルはリュートを奏で、世界を歌う。そして同じ手で王の手をとる。耳に囁く。 「あなたの手は癒しの手――」 アクィリフェルの手に導かれた王の手が、立ち尽くし自らを失った民の肩に触れる。 「あなたは民の光。民の炎。燃え盛る、猛き鷲。民はあなたを見つける。どこにいても――」 心を失っていても。混沌に絡めとられていても。不意に民の目に光が戻った。きょとんと目を見開き、ついで怯えて惑う。その目が王を見つけた。安堵の表情に、王が微笑む。疲れてくずおれた民の体を、随行の騎士が受け止めた。 ゆっくりと王はまた一人、民の元へと歩みを進める。背後に付き従う騎士たちの目に浮かぶ畏敬の表情まで、アクィリフェルには見えていた。 「アケル。お前のおかげだな。……聞こえないことを願うぞ」 誰にも聞こえないよう呟いたアウデンティースの声だった。けれどアクィリフェルは丘の上で顔を顰める。 「だから、聞こえるんですよ、僕には」 苦々しげに言ったのに、リュートは明るく笑うよう華やかな音色を響かせた。 |