翌朝だった。眠りの浅かったアクィリフェルは甲高い声に苛立ちを募らせる。見れば騎士たちはすでにうち揃い、出発も間近となったそこでカーソン卿が抗議をしていた。
「陛下! なぜです、どうして私をお連れ下さらない!」
 どうやらアウデンティースは領主を置いていくつもりらしい。そのことにアクィリフェルの苛立ちが少し、静まった。
「様子を見に行くだけだ。大事ない」
「ですが」
「いいから留守を頼む。いいな、カーソン?」
 王に頼むと言われてしまってはカーソンもそれ以上言葉がないのだろう。いかにも不承不承といった表情ながら渋々とうなずく。
「出発!」
 王の傍らでマルモルが声を上げる。そのきびきびとした声に慌ててアクィリフェルも馬上の人となった。
 海まではすぐだった。馬に乗るほどのことではない、と思うのだが、完全武装の騎士たちは歩くということが考えに浮かばないらしい。
 アクィリフェルはちらりとマルモルを見やる。重たい鎧をまとった騎士を背にした馬は長い溜息でもつきそうな顔をしていた。
 あえてアウデンティースには、目を向けなかった。何かを言葉にするのを恐れたせいもあるし、何を言っていいかわからなかったせいもある。
 ただ無言で馬を駆った。アクィリフェルの背中でリュートが揺れる。手放そうなど思いはしなかった自分に少しアクィリフェルは驚く。
「……必要だから」
 それがわかっていても、放り出したい気持ちがないわけでもない。が、自分はそうしないだろうことも理解していた。
「なにか言ったか?」
 思いがけない声に夢想が破られ、アクィリフェルは唇を噛む。こんなとき、ラウルスだったら黙って自分を待っていてくれただろうに。そう思った自分が許せなかった。
「別に。なんでもないですよ、騎士殿」
「そうか? 何か言ったような気がしたが」
「一々独り言にくちばしを挟まれるのは迷惑ですが」
「貴様、狩人!」
「なんですか、騎士殿!」
 怒鳴られたのに、同じ調子で言葉を返し、ふと彼の声音に潜んだものに気づく。
「騎士殿」
「なんだ!」
「言っても怒られるだけではないかと言う気がしますがね。不安ですか」
「……貴様!」
「あぁ、やっぱり。あってましたね。色々と」
 怒られるだろうと言ったこと。そして自分の指摘。どちらもあっていたと嘯くアクィリフェルをマルモルは睨みつける。
 だがすぐに周囲をはばかりながら肩を落として見せた。一瞬、彼の目が王を見たのをアクィリフェルは見逃さない。けれど気づかなかったふりをした。
「……正直に言えば、不安だ。何が起こる。我々は何をする。我々が何かをして、どうなる」
「できることをするしかない――そうですよ」
「なんだ、それは」
「陛下のお言葉です。そうですよね、陛下?」
 知らんふりを決め込んでいただろうアウデンティースは少しばかり嫌な顔をし、それから重々しくうなずいた。
「なにが起こるかは、わからん。が、正しいことではある」
 その言い様に、アクィリフェルは呆れ顔を隠さない。かえってそのことでマルモルは落ち着いたようだった。アクィリフェルをいつものように叱り付け、そんな自分に安心したのだろう。
「正しいと、どうして言えます?」
 マルモルの小言を風と聞き流してアクィリフェルは皮肉に言う。リュートはいまだ背にあったけれど、楽の音が響いた気がした。無惨で、醜い音が。
「お前がいる」
 だが王は、その音楽が聞こえなかったのだろうか。実に軽やかにそう言って笑った。聞こえなかった、とはアクィリフェルには思えない。
 思えないからこそ、苛立つ。自分に聞こえている音が、彼にも聞こえているであろう確信。聞こえなければいいのに。思ってそれがわからなくなる。自分か、それともアウデンティースか。どちらに聞こえなければいいのだろう。
「僕は僕にそれほど信が置けませんね」
 鼻を鳴らし、アクィリフェルはそれだけを言った。その意味の真実すら、彼は感じ取るだろう。馬上でアクィリフェルは拳を握る。
 海まであと少し。アクィリフェルもアウデンティースも無言で進んだ。何事かを感じたのか、マルモルですら静かだ。
「――あれだな」
 片手を上げ、王が馬を止めた。否、止めようとせずとも、騎士たちもまた止まったことだろう。一様に押し黙ったまま、前方に目を凝らす。
 海辺だった。穏やかな日差しに風が光るような、長閑な。ただ、そこに立ち尽くす人々がいなければ。あれなのだろう、メディナ領主が訴えてきた人々とは。
 しんと立ち尽くす人の目は、何を見ているのだろう。見てみたい。同時に決して見たくはない。見れば、魅入られてしまう。それを予感するからこそ、震える。
 そしてアクィリフェルの耳には音が聞こえた。世界の悲鳴。それを圧する混沌の歪み。ふ、と騎士たちを見回す。誰も気づいていない。ただ人々のよう、立ち尽くす。王を見つめる。アウデンティース一人、顔を顰めていた。
 自らの民を襲った混沌を憎むゆえか。アクィリフェルは思う、違うと。彼もまた、耳には聞こえず、心にも響かず。けれどアクィリフェルが聞いた何かがそこにあると感じている。微動だにせず、海と人々を見ていた。
「言うまでもないですね」
 アクィリフェルが憎まれ口を叩かなければ、全員がそのまま固まってしまったかもしれない。そのことにただ一人気づいたのはやはり、アウデンティースだった。
「アクィリフェル」
「僕は何もしてません!」
「それならそれで結構」
 ちらりと目許で微笑う。それがラウルスを思わせ、アクィリフェルは目をそらす。そらした先に丘があった。
「アクィリフェル。マルモルをつける」
「要りません」
「連れて行け。何かがあってからでは遅い」
 むっとしつつも、アウデンティースの言葉には力があった。従わざるをえないアクィリフェルは視線をそらす。その先には要領を得ない表情のマルモルがいた。
「陛下? 何を仰って?」
 きょとんとしながらアウデンティースの顔を、まるで覗き込むように騎士は見た。その態度が、仕種が癇に障ってアクィリフェルは顔ごとそむけた。むしろ、癇に障った自分に腹が立った。
「アクィリフェル」
 再び呼びかけられてアクィリフェルはかっと言い返そうとする。だがその声をとどめたのはアウデンティースの表情だった。
 何を見ているのだろう。何も見ていないのかもしれない。アクィリフェルにそう思わせる顔を、王していた。
 不意に恐ろしくなる。アクィリフェルはつかつかと歩み寄り王の眼前に立ち、その目を覗く。押し退けられたマルモルが声を荒らげて怒っていた。
「なにを見ているのですか」
「――なに?」
「いま、何を見ていたんですか!」
 アクィリフェルは自らの問いに自らで答えた。王の視線の先にあったもの。自分を越え、マルモルなど眼中になく。
「……海、見てましたよね! 海ではないですね、混沌ですか。あれを見てましたよね、陛下!」
 長閑な海辺。人々さえ立ち尽くしていなければ。否、違った。見えはしない。いまだ遠く、混沌は見えはしない。けれど誰もが感じていた。
 王は人一倍強く、それを感じているに違いない。民を守り、国を守る義務を負った彼には。アクィリフェルが感じているのと同じほど強く。そしてアクィリフェルのよう、世界の奏でる音楽の守りは彼にはない。
「……見ていた」
 呟くような小さな声。気弱と言ってしまってもいいほどの果敢なさ。そのことにアクィリフェルはぞっとする。
 この傲岸なほどに強い男が。はじめてアクィリフェルは悟った。アウデンティースもまた、一人の人間に過ぎないと。
「非常に不本意ですけどね」
 アクィリフェルは拳を握り締める。このあとリュートを奏でるのに支障があるほど、きつく。それからもう一度はっきりと王の目を覗き込む。金色の、猛禽のような目が不意に和らぎ、それを恥じるよう厳しさを増す。
「僕に言えることはただ一つです」
 ゆっくりと、アクィリフェルは息を吸う。言わなくとも、アウデンティースにはもうわかっているだろう。だが、言う必要があった。彼のためにではなく、おそらくは自分のために。
「僕を信じるんですね」
 そしてアウデンティースの表情を見るより先に背を向けた。目指すは丘に。これから先の算段など、アウデンティースと話し合うまでもない。それが不快で、快い。
「お前は……私の切り札だ」
 何を言おうとしたのか、言いかけて言葉を改めたのか、アクィリフェルには手に取るようにわかった。わかったからこそ、無視をした。
「待ってください、陛下! どうか、いま少しご説明をいただきたく!」
「言っただろう? アクィリフェルは我々の切り札だ。人目に触れさせたくはない。彼が何をするか、彼がここにあることの意味。わかるか、マルモル?」
 マルモルはわからなかったかもしれない。が、アクィリフェルは察した。それではアウデンティースは、メディナ領主にすら自分が何をするのかを話していないということか。小さな微笑が浮かびそうになり、顔を引き締める。
 少しばかりほっとしたのも事実だ。説明を求められてできることではないし、できたとして理解してもらえるとは思い難い。こんな自分ですら信じられないようなことを、あっさりと信じた男を思う。
「アクィリフェル」
 黙って丘に目を向けたまま王の声を背に受ける。暖かな、陽射しにも似た声だった。
「後は頼む」
「頼まれました。行きますよ、騎士殿」
 文句を垂れながら、むしろ喚きながら、それでもついてきたマルモルに向かってではなく、アクィリフェルは笑った。




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