ゆっくりと耳を澄ましていく。リュートの音色に導かれ、ここにはない音を聞く。ふとアクィリフェルは気づく。
 何者かに阻まれている。人ではない。何か。混沌と気づいた。メディナの城館のすぐ側にある海。海の向こうから押し寄せる混沌。
 それが音を乱している。世界の悲鳴をかき消そうと。アクィリフェルに、予言の導き手に聞かすまいと。意図してのものかはアクィリフェルにもわからない。そのような人めいた意思などあるものかどうかすら。
「邪魔はさせない」
 小さく呟いた己の声が歌になる。リュートに合わせ、世界の音色に合わせ囁くよう歌う。己の声で雑音を圧していく。
「――小さな蛇」
 呟いた、否、歌ったアクィリフェルに言葉の意味がわからない。
「危険。取り巻くもの。――誰」
 ならば、人か。混沌ではない。が、近い。アクィリフェルの意思が世界を巡る。例えようもない感覚だった。もしも今、ここに混沌の侵略がなければ、たまらない解放感を与えてくれただろう。
「違う。遠い」
 ここではない危険。アクィリフェルの声が遠くを見る。海ではない。メディナか。違う。もっと遠く。もっと遠くに。
「――王宮」
 呟きに触発されたよう、視覚は確かになる。浮かび上がった影。人の姿。
「王女様」
 リュートの色が一瞬乱れた。彼女を取り巻く危険を知らせるかのように。
「違う」
 アクィリフェルは呟き、リュートを止めず息を吸う。振り返りもせず、そのまま。
「……そこにいてください。非常に不本意ですが、音色が安定します」
 どこか物陰から、こちらを見ている視線。その存在そのものが音色に乱れを生じさせない原因。誰かなど、問うまでもない。
「気づいていたか」
「僕ではなく、リュートが」
 答えになっていない、とアクィリフェルは知っている。そのリュートを奏でているのは自分に他ならないのだから。
「陛下」
「ティリアならば心配ない」
「聞いてたんですね。ならば結構。ではその根拠は」
「メレザンドがいる」
「ずいぶん……信頼していらっしゃる。メレザンド伯爵にお任せして大丈夫なのですか。他意はありませんが」
「私がここにいる以上、娘の側についていられない以上、他に手がない。メレザンドに無理ならば、致し方ないことだ」
「それで、いいんですか」
「個人的にはよくはない。――が、あれも王家の娘。覚悟は決めているだろうよ」
 突き放すような冷たい言葉。その中にアクィリフェルは聞き取りたくないものを聞く。アウデンティースが、おそらく最も愛しく思う我が子への思い。王冠を継ぐ息子よりも愛しいものか。ならばなぜ。答えなど、知れている。亡き王妃に似ているから。
「アクィリフェル」
 リュートの乱れは王にさえわかるほど。アクィリフェルは答えず再び呼吸を整え奏でだす。
 世界の音を聞くために。メディナの異変を聞くために。それなのに、音は乱れて定まらない。そこに王がいるから。アウデンティースがいなくなれば、いっそう乱れると知りつつ。
「目障りなんですよ!」
 突如としてアクィリフェルは振り返り、叫んだ。すぐ側にいるものと思っていた。背後に、背中を守るよう彼がいるのだと思っていた。
 が。アウデンティースは何歩も下がった後ろにいた。まるで決して触れはしないから心配はいらないとでもいうように。そのことがよりいっそう苛立ちを誘う。
「あなたなんか、死ねばいい。無様に、民を助けられることなく犬死すればいい、あなたなんか――!」
「アクィリフェル」
「うるさい!」
「どちらがだ? 一々突っかかられるのもいい加減に鬱陶しい。いまの私はお前の相手をしていられるほど余裕はない」
 はたと音が止んだ。今まで言葉を交わしながらも止めることのなかったリュートを爪弾く指が、完全に止まった。
「ティリアのことよりも、メディナだ。わからないのか、お前が」
 挑発だと、それもあからさまなそれだとわかってはいた。それでもアクィリフェルは王を睨まずにはいられない。
「……確かに」
 あとは、声にならなかった。あるいは今ここにいるのがラウルスであったならば、この心に浮かんだ声を聞いてくれただろう。アクィリフェルは思う。
 アウデンティースは確かに聞いた。滴る涙もなく呟いたアクィリフェルの声を。鬱陶しいのは自分だと、いっそ死にたいのは自分だと。
 それでも、互いに何を言うこともできなかった。アクィリフェルは気づかず、アウデンティースは気づいたとしても、口にすることはできず。
 涼しいリュートの音色がメディナを歌い、海を奏でる。無言で佇む二人を置き去りにした美しい楽の音。
 アウデンティースはアクィリフェルの背中を見つめていた。邪魔にならないよう、密やかな視線で。それでも彼は見られていることに気づくだろう。
 ただ、メディナを救いたい一心だと思ってくれればと願う。心の片隅が愚かな己を嗤う。考えるのはアクィリフェルのこと。メディナを、混沌をと口にしながらも、今こうしているのはアクィリフェルのため。
「……違うな」
 呟いてしまってから、そっと口許に指を当てた。アクィリフェルの耳に届いていなければいいのだが。願いが叶ったのかどうか、アクィリフェルの背中からは窺えなかった。
 アクィリフェルのためではない。自分のためだとアウデンティースは内心に自嘲する。ただ彼の側に、近くにいたかった。姿を見たかった。それだけで、充分だった。
 心配が、なかったわけではない。理由もあるにはある。メディナに近づくにつれ、アクィリフェルの様子がおかしくなっていった。
 マルモルなど、ただ苛々していただけだとでも思っていることだろう。違うことをアウデンティースは気づいている。
 アクィリフェルは何かを聞いている。あるいは、聞こえていない。世界が語りかけてくるその歌をはじめて己の耳で聞いたときの彼の表情を思う。
 あの瞬間なのだろう。アクィリフェルが予言の導き手になったのは。苦くそれを思い出すアウデンティースはきつく拳を握っていた。
 もしも、彼が導き手でなかったのならば。彼が世界の歌を聞くことがなかったのならば。今も彼の手は自分の手の中にあっただろうか。
「聞こえなくなればいい」
 世界の歌など、アクィリフェルの耳からなくなってしまえばいい。王として、最も望んではいけないことをアウデンティースは祈るよう呟く。
 アクィリフェルが、導き手が失われたなら、世界はどうなることか。混沌に飲まれ、正にアクィリフェルが最前口にしたよう民を救うことなく犬死するのみ。
 わかっていても、なくなってしまえと願わずにいられない。もう一度帰りたかった。アケルのラウルスに戻りたかった。
「……聞こえなくなって、困るのはそちらですよ。陛下」
 ひくりと王の体がすくんだ。聞かれていた、その思いが体の自由を奪っている。
「……もっとも、この雑音が聞こえなくなれば僕はもっと楽ですが。でも雑音がある程度、正体に近づけてもくれますから」
 どことなく言い訳めいた声に聞こえたのは、アウデンティースの気のせいか。背中を見せているアクィリフェルの表情を、見てみたかった。
「それで。アクィリフェル」
 何事もなかったかのよう繕った声をアクィリフェルは背中に受けた。数歩としか離れていない距離で、自分の耳に届く音が聞こえないなど、愚かなことを考えたものだとアクィリフェルは嗤う。
 わかっていた。本当は、わかっていた。アウデンティースの、あれは生の呟き。王としてではなく、おそらくラウルスとしての。
 だからこそよけいにアクィリフェルはアウデンティースを憎む。二度とこの手に戻らない人。たった一人の恋人を奪った相手がその本人だなど、複雑すぎて笑えてくるではないか。
 小さく笑い声を立て、それをリュートの音色に乗せていく。なんという惨い音だろう、アクィリフェルは思う。なんと哀しい音かとアウデンティースは聞く。
「原因の見当はつくか」
「つかないんですか、思ったより馬鹿ですね」
「……混沌だということは見当がついているのであって、確定情報ではない」
「一理ありますね。では確定です」
「なるほど。対処のしようはあるか。現時点で」
 素早い思考が紡ぎだす声は、すでにアウデンティースのものとなっていた。アクィリフェルが聞きたいと切望し、何にもましても聞きたくないと祈るラウルスのものではなく。
「混沌に魅入られている人がいる、と言う話でしたね?」
「お前はどう感じた?」
 報告では、海辺から帰ってこないものがいる、とのことだった。が、アクィリフェルはそう聞いたのか。ならばそれが正しいはずだった。
「混沌ですよ、間違いなく」
「では?」
「僕が側で歌えば正気に返るでしょうよ」
「……だが」
「そのとおり。それで問題の片がつくなら、喉が潰れるまで歌って、指が擦り切れるまで弾いたってかまいませんけどね」
 なんでもないことのように言うアクィリフェルに、彼の責務を見た思いだった。酷く眩しい思いがしてアウデンティースは目を細める。篝火一つない中庭だというのに。
「そうだな……。神官は、聖水を作るだろう。神の威光をこめたとでも言うのか?」
「水瓶に向かって歌えとでも? ……いや、効果はあるかもしれませんけどね」
「けど?」
「僕の存在そのものが姑息なんですよ。そのうえ、場当たりに対処して、あとはどうするんですか」
「この際――」
 答えがわかっていたかのよう、アクィリフェルはゆるりと振り返る。沈んだ赤毛が血のようにアクィリフェルを彩り、アウデンティースは密かに体を震わせた。けれど、だからこそ、口には笑みを浮かべ言い放つ。
「場当たりでもなんでもかまわん。できることからできるうちにやっていく」
「……できることしか、できませんからね」
 話は終わりだと立ち上がり、去っていくアクィリフェルの背中を王は見送る。まるで励まされたかのようだった。最後の言葉は間違いなく、励ましだった。明かりのない中庭に、王は一人立ち尽くす。




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