翌日は大きな村に泊まった。その翌日は辺境の塞に泊まった。おかげでアクィリフェルの狩りの腕にも火口箱の世話にもならずにすんだマルモルは大変に機嫌がいい。
 もっとも、そのような気晴らしでもなければとても耐えられない強行軍だった。夕暮れまでにメディナの城につく。
「信じがたい……!」
 実際この地に立った今もまだマルモルは体を震わせてありえないものでも見ている気分だった。
「なにがですか、騎士殿」
 けろりとした顔の狩人だったが、ここまで来ると腹立たしいより感嘆したくなる。騎士の鍛錬を積んだ自分がこれほどまでに疲労している。事実、体の震えは極度の疲労のせいもある。
 だがしかし、この狩人は。何事もなかったかのような涼しい顔で身軽に馬から下りている。いっそ化け物、と罵ってやりたいほどの気持ちはあるのだが、いかんせん王も同じほど飄々としているとあってはできようもない。
「信じられるか、狩人! ここまでこの短時間で到着するとは!」
「信じられなくとも実際にいるのだから信じたほうが気が楽になりますよ」
「そう言う問題ではない!」
 怒鳴ればいかにも軽く肩をすくめられた。やはり、腹が立つほうが先に立つ。更に声を荒らげようとしたところ、王の笑い声に阻まれた。
「マルモル。そう怒鳴るな。行軍中、怒鳴り通しだっただろう? 喉は平気か?」
「私の喉の心配をしてくださるのは大変かたじけなく存じますが、この狩人をなんとかしていただきたい!」
「生憎と私の手にも負えん。すまんな、マルモル」
 騎士たち全てが下馬したのを確かめ、王はゆるりと馬から下りる。ねぎらうよう、馬の首を叩いていた。
「陛下!」
 ちょうどそこに転げるよう駆け込んでくる男。さっとアクィリフェルは緊張し、腰に下げた小剣の柄に手を置く。
「カーソン!」
 アウデンティースがにこやかに両手を広げた。だがアクィリフェルはその前に見た。自分のほうを見ず、王が軽く片手を広げたのを。
「あれは……」
 制止の仕種だった、間違いなく。アクィリフェルはきっと唇を噛む。自分が柄に手をかけたのなど、間違っても王の視界には入っていない。
 では見間違いか。騎士たちの誰かに向けてだったのか。アクィリフェルは何気ない様子で辺りを見回したが、騎士たちと現れた男は旧知なのだろう、誰も警戒などしていない。
「なら」
 あの制止は自分に向けてのもので、間違いなかった。耐えられない、そうアクィリフェルは思う。こちらを見なくとも、アクィリフェルが何をするか悟った男。警戒からなのか、それとも「アウデンティースに向かって走ってきた不審者」に向けてなのか自分でもわからず剣をとりそうになったアクィリフェル。
「知っている」
 自分は知らなくとも、アウデンティースは理由まで理解している気がした。体の隅々から思考まで、隈なく知られているこの不快感。握りこんだ掌が痛かった。
「アクィリフェル」
 当の王に呼ばれても、だからアクィリフェルはいつものよう厳しい顔つきのままだった。否、普段よりいっそう険しかったかもしれない。カーソンと呼ばれた男が訝しげに王を見上げていた。
 年のころは幾つくらいだろう、とアクィリフェルは男を見やる。王よりはだいぶ年長に見えるけれど、王族の外見などあてにならない。現にアウデンティースには三人の子がある、それもアクィリフェルとさして年の変わらぬ子が。だからカーソンが王家の血を引いていないのならば、初老だろう、と曖昧な見当をつけた。
「禁断の山の狩人、アクィリフェルだ。私の手助けをしてくれている」
 カーソンに向かって王はにこやかにそう告げる。アクィリフェルも一応は礼節と言う言葉を知らないではないので、手伝わせてやっているのは自分だ、とここで言いはしなかった。
「アクィリフェル。メディナ領主、カーソンだ」
 カーソンのほうも禁断の山の狩人の存在くらいは聞いたことがあるのだろう。主に、子供の頃の物語として。おかげで双方が訝しい顔をすることになったが、王は気にもせず大きく笑った。
「陛下!」
「いや、すまん。久しいな、カーソン」
「はい、王宮には永の無沙汰、どうぞご容赦を。陛下におかれましてはますますご壮健のご様子――」
 そこまで言ってはたとカーソンは現状を認識したらしい。見る見るうちに赤くなる。照れたのならば、意外と可愛いところもある領主だ、とアクィリフェルは思ったのだが、間違っていた。
「陛下!」
 マルモルが飛び上がるほどの怒号だった。アクィリフェルにはわからなかったが、これは軍勢を指揮する声。将軍の声だった。
 理解はできずとも、アクィリフェルは聞き分ける耳を持っている。カーソンがただの辺境の田舎領主でないことはよくわかった。
「許せ、カーソン。久しぶりにその怒鳴り声が聞きたかった。懐かしいものだ」
「あなたは……! あなた様は……!」
「わかったから、そう怒鳴るな。体に悪い」
 自分で怒鳴らせておいてよく言う、とアクィリフェルは冷ややかにアウデンティースを見やった。その視線を感じたのか、ちらりと彼はアクィリフェルを見返し、そして片目をつぶって見せまでした。
 咄嗟に殴らなかった自分の自制心を心の底から褒めてやりたい、とアクィリフェルは思う。握った拳の震えくらい、だから見逃してもらう。
「……人を怒らせるのが大変、上手でいらっしゃいますね、陛下」
 怒りを押し殺したアクィリフェルの声もアウデンティースにはこたえた様子もなかった。本当ならば近づきたくもない男。義務を果たすため、と心に誓ってこうしているというのに、嫌がらせのよう腹立たしい真似ばかりする男。
「反逆者が出ないのが実に不思議ですよ」
 言い放ち、アウデンティースを見つめる。見る、と言うには険しすぎた視線ではあったが。
「そこまでにするがいい、狩人」
 カーソンの静かな声だった。が、アクィリフェルは残念ながらその中に秘められた気迫を聞き逃すような耳を持ち合わせていなかった。
「……失礼しました」
 短く言って、王にではなく、カーソンに向けて頭を下げる。それが不満だったのだろう、後ろでマルモルの咳払いが聞こえたけれど、そちらは無視した。
「あまり苛めてくれるな。貴重な協力者だ」
「と、仰せになりましても……?」
 仲裁されるなど真っ平だ、言ってはいけないと思いつつも口にしかけたアクィリフェルの喉から先に言葉がでなかった。
「聞こえるか、アクィリフェル」
 真正面からアウデンティースに見つめられた。猛禽のような金の目。空駆ける狩人の目に射竦められたわけでは決してない。あるいは、見惚れた。
「陛下、何を仰せに……?」
「アクィリフェル」
「……どうしてわかるんですか」
「なにがだ」
「どうして僕の耳に聞こえているって、わかるんですか!」
 叩きつけるよう言い、一瞬彼に見惚れたことなど忘れて睨み据える。けれどアクィリフェル自身気づかず、握った拳は震えていた、怒りにではなく。
「なぜわからないと思う」
 音にならない彼の声が聞こえた。二人きりでリュートの練習をしたころ。心の内を易々と言い当てた男。何一つ疑わずに信じてくれた男。
「なぜだ? アクィリフェル」
 咄嗟のことだった。自分で意識するより先にマルモルは飛び出している。アクィリフェルの右腕を掴んで、自分が何をしたか知った。
「……ありがとうございます、騎士殿」
「狩人?」
「あなたが抑えてくださらなかったら、僕はこの王を殴っていた」
 なんと言うことを。言葉にならずマルモルは驚愕もあらわにアクィリフェルの表情を覗き込む。と、視線を感じた。
「陛下?」
 呼びかけたはずだった。けれど声にならなかった。王は笑っていた。仕方のない、まるで子供のやんちゃを見守るような顔をして笑っていた。けれど。
 ゆっくりと、マルモルはアクィリフェルの腕を放す。視線の圧力が去っていく。気づかれないよう、細く長い息を吐いた。
「それで。アクィリフェル」
 返答は如何に。迫る王の視線の強さ。嘘などつくつもりはないものの、アクィリフェルですら、圧されそうになる。
「こんな雑音が多いところで、何を聞けって言うんですか。聞こえていますよ、確かに。色々ね。関係ないことまで一つ一つ選り分けろとでも仰いますか」
 アクィリフェルの啖呵にカーソンは肩をすくめただけだった。どうやらこれが狩人の常態で、しかも王が許している、と悟ったのだろう。マルモルほどの若さを持ち合わせていないのは幸いだった。
「やはり、聞こえているのは確かか……」
「わからないで言っていたんですか。いい加減な人だ」
「確信はなかった」
「だったらいい加減なことを言わないでいただきたいものですね。気が散りますから」
「散らせない方法は」
「一人にしてください。誰もこない場所を」
「わかった。――と言うことだ、カーソン?」
 どうやらこれは一種の話し合いだったらしい、とカーソンは呆れる。
「陛下、一つ伺いたいのですが」
「なんだ?」
「陛下は我々を救いに来てくださったもの、と解釈してよろしいのですな」
 狩人との会話を聞く限り、そうは思えずカーソンは不安に思っていた。だが王が答えるまでもなかった。王の目を見ればよかった。無礼を詫びるよう頭を下げたカーソンの肩にアウデンティースは軽く手を置いた。
「中庭に」
 いつの間にかすっかり日は落ちていた。百名からの騎士と国王を城館に案内するだけでもずいぶんと手間がかかる。アクィリフェルはその間に中庭に導かれていた。
 ここまで背負ってきたリュートを取り出し、爪弾いてみる。どうにも音が定かではなかった。メディナに近づくにつれて感じていたこと。アクィリフェルは雑音、と言ったが耳に聞こえるそれではない。ただ雑音としか表現のしようがない。
 何度も何度もリュートを奏でる。今ここで異変が起こっているならば、アクィリフェルの耳に聞こえないはずがない。世界が悲鳴を上げていないはずがない。アウデンティースはそう言ったに等しい。それは事実だった。
 舌打ちしたくなるほど雑音交じりのリュートの音色。再び奏でても同じ。はずだった。途中から不意に音が安定しはじめた。




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