話の続きは聞きたかったけれど、これ以上言葉を交わしたくなかった。アクィリフェルは無言で炙り肉を齧り、嚥下する。食べ物を必死で飲み込んだのは、はじめてだった。
 夜も更けた、と言うほどではなかったが、明日の行軍も厳しいものになるだろう。王に言われずともそれと悟ったマルモルが、騎士たちに指図をしている。焚き火の火を絶やすなだの、見張りを立てろだの言っているところはいかにも指揮官らしい。
「おかしな人だ……」
 自分に食って掛かってくるときには奇妙なほどに若い青臭さが見えるのに、こうして配下の前に立てば立派な騎士に見える。
 人など、そのようなものかもしれない。アクィリフェルはふと思う。自分の前にいたラウルスと、今ここにいるアウデンティース王。
「なにか言ったか」
 声にアクィリフェルの思考は破られた。はっとして顔を上げ、そこにいる王を見る。
「なにも言っていませんが?」
 ただの返答のはずが、今の自分が声にするとこれほどきつい。自分で耳にして醜いほどの声だった。
 なぜかは、わかっていた。改める気だけがなかった。自分の手の中から奪われてしまったものを思う。なにが悪かったのだろうと思う。
「明日は早い。もう休むといい」
 そう言って王は立ち上がり、騎士たちが作った休み所へと向かう。本来ならば天幕を張って休んでいただくものを、とマルモルは酷く悔いていた。
 アクィリフェルは火の側にいたほうが体が楽だ、と思うのだがそれを口にすることはなかった。黙って暗いほうへと歩いていく王の背中を見ていた。
「なにが……」
 誰が、かもしれない。アクィリフェルは不意に思う。あのとき悪かったのは誰なのだろう。ラウルスは、確かに嘘をついていた。身元は言えないといっていた。それを自分は受け入れていたはずだった。
「……僕が、悪い?」
 口にして小さくアクィリフェルは笑う。笑った分、心の中に響くもの。悪いと思いながらも、認めたくはない思い。
「まさかね」
 あれほど酷い嘘だと思いはしなかった。あのような嘘をついたのならば、全てが嘘であるはずだった。アクィリフェルはじっと自分の手を見る。焚き火の明かりに掌が歪んで見えた。
「この手が」
 リュートを弾く手が、必要だった。予言の導き手が必要だった。必要なのは、導き手で、アクィリフェルではなかった。
「誰が、導き手でも」
 王は言っていた。アクィリフェルが導き手だとは知らなかったと。それを信じることができれば、あるい自分は無邪気に幸せだっただろう。
「嘘に、決まってる」
 絶対に信じない。あの時の笑顔も、言葉も、寄せられていたと信じた思いも。肌に触れた手の優しさも、何もかも。
 いつの間にか握りこんだ掌が、痛いほどだった。それでもアクィリフェルは握り締め続ける。いっそリュートなど弾けなくなってしまえばいい。
 それなのに、手は勝手にリュートを引き出していた。袋から取り出し、小さく奏でる。爪弾く弦が、あたりにかすかに響く。
「聞こえなくていい」
 誰にも。否、彼には。自分の耳にだけ聞こえればいい。騎士など、どうでもいい。今ここに、聞こえていいのは自分だけ。
「わかってるけど」
 この音を、彼は聞いているだろう。奇妙なほどの確信。それなのに、信じたくない。あの暗闇の向こうでラウルスが耳を傾けているのが見えるよう。
「違う」
 ラウルスではない。アウデンティース。自分の愛した男は偽りの中に消えた。はじめから存在しなかった。
 アクィリフェルの奏でる音は、確かに騎士の耳には届かなかった。不思議と彼らを越え、王の耳には届いた。
「陛下?」
 夜の中、不意に半身を起こした王に騎士が密やかな声をかける。訝しげなその声音に王は知る。
「いや、なんでもない」
 彼らには、この音が聞こえていないと。間違いなかった。聞き間違うはずがなかった。アクィリフェルの奏でるリュートの音色。
 酷く惨い音がした。責められているかの音。自らを苛むかの音。どちらでもなく、どちらでもあった。それがアクィリフェルの本心だとアウデンティースは、ラウルスは知っていた。
「そう言うものだな……」
 王の呟きに、騎士はちらりと視線を向けただけで声をかけはしなかった。自分が語りかけられているのではない、と気づいたのだろう。無言で見張りを務める。
 夜は更け、リュートの音はいつしか止んだ。それでもアクィリフェルの耳にはいつまでも音楽があった。ラウルスの耳にも、アクィリフェルの音色が響いていた。
 どちらもが、どうにもできず。ただ聞こえない音楽だけが、二人の間を漂い、流れ、捉えられることなく、消えもせず。
 翌朝も、強行軍だった。夜明けと同時に起きだし、仕度が出来次第、馬を駆る。まだ体が強張っているのだろう、騎士たちは顔を顰めている。それでもさすがにつらいと口にするものはいなかった。
 アウデンティースは、嫌々ながらも隣で馬を走らせているアクィリフェルを横目で見やる。しっかりと前を向いて当たり前の顔をして馬を駆る。
 それでも王は騙されなかった。酷い顔をしていた。眠れなかったのだろうか。それを問うても素直に答えるとは思えなかった。
「アクィリフェル」
「なんですか」
「夜営は、慣れているのか」
 遠まわしな問いに、アクィリフェルは王を睨み据える。王を挟んで反対にいるマルモルが逸早く気づいて文句を言う。
「王都ハイドリンの高貴な方々には珍しいご経験でしょうけれど、僕は禁断の山の狩人ですから。山の中で寝起きするのが通常の生活です」
 言いたいことはわかっていた、アクィリフェルにも。自分の顔を見ることはできなかったけれど、おそらく顔色がよくはないだろう見当くらいはつく。
 それをたぶん、心配されているのだとも思わないでもない。不快だった。
 そのようなことをされる覚えも、していいと言った覚えもない。この王には。それをしていいのは、自分が喜んだだろう男はもういない。
「そうだったな」
 答えは、どちらへのものだったのだろう。アクィリフェルは戸惑い、そんな自分を嗤う。狩人だと答えた言葉への返事に決まっている。
 人の心がわかるような男ではない、この王は。だから、内心での思いへの返事では決してない。あるはずがない。
 心に言えば言うほど、疑わしくなってくる思いを抑えきれずにいる。心のうちを見透かす人だった。あれはラウルスだった、王ではない。思っても、同じ人間であることは否定しきれない。たとえ偽りの人格であったとしても。
 苛立ちを紛らわしたくてアクィリフェルは口を開く。残酷なことをする自覚はあった。自覚だけがあって、止める気がなかった。
「――姉君は」
「なにか言ったか?」
「姉君の話が、途中でした」
 一瞬、アウデンティースが手綱を握り締めた。驚いた馬が足取りを乱す。咄嗟にそれをなだめてアウデンティースは平静に戻った。
「……自殺した、と言ったはずだが」
「えぇ、聞きましたよ。それだけは」
「他になにが聞きたい」
「言うまでもなく、原因を。奇妙な話ですから」
 アウデンティースの傷を見つけた思いだった。話したくないことを無理に話させていることくらい、わからないアクィリフェルではない。それが妙に嬉しい。
「多くは、言えないな」
 ぽつりと言うものだから、いよいよこれは口にしたくない話だ、とアクィリフェルは思う。心が弾んで、自分が嫌いになりそうだった。
「陛下、どうかその話は」
 マルモルが必死になって止めている。アクィリフェルのほうを睨んで、お前もやめろと目顔で言う。聞く気など、さらさらなかった。かえって王を横目で見やって話の続きを促した。無視されたマルモルが、苦い顔をしてアクィリフェルを怒鳴りつけるのを王が片手で制止する。
「兄王子たちが、愛した女が一人いた」
「喧嘩の原因はその辺りですか」
「そういうことだ」
「それで?」
「兄たちが死んだその日に、姉は自殺した。――これ以上はさすがに口にできん。許せ」
 はっとしてアクィリフェルはアウデンティースを見つめた。二人の男が愛した一人の女。殺しあった兄弟。死んだ姉。
「アルハイド王家も長く続くと血が澱むかな。無茶な恋をする」
 誰にともなく言ったアウデンティースの言葉。先ほどの言葉を受けてのそれだと、マルモルは聞こえただろう。慌てて王を諌めている。
 アクィリフェルは違うことを聞いた。二人の間でだけ、通じた。いやでも聞こえた。無茶だとわかっていても、人を恋うる気持ちは止めようもない。この男が、誰に向けて、何を言ったのか。正確に聞き取ったのは、アクィリフェル一人だった。
「傍迷惑な話ですね」
 投げやりに言えば、小さく聞こえた溜息ともつかない吐息。マルモルには理解できなかっただろう言葉も、王には間違いなく届いた。
「まったくだな」
 答えた声に力がない。そのことをアクィリフェルは何より喜ぶ。騎士など誰も気づいていない。自分にだけ聞こえるアウデンティースの弱々しい音色。アクィリフェルの心で弾んで響く。
「幸いでしたね、陛下。陛下にはいまは亡き最愛の王妃様がいらした。愛しいお子様方もおいでだ。無茶をなさらずに済みますね」
 意気揚々とやり込めているようにマルモルには聞こえるのだろう。再三再四アクィリフェルを叱りつけている。本当は違うのだ、とアウデンティースはマルモルこそを叱り付けたい気持ちでいた。
「確かに無茶をする必要は、なかったな……いや、ないな」
「あるはずがありませんからね」
 滴らんばかりの声をアウデンティースは聞く。そこからなにが滴っているのかは、わからず。
 皮肉か、それとも憎しみか。あるいは涙か。だから言う。
「さて、どうかな。必要ならば恋のひとつやふたつ、仕掛けることもあろうものさ。それがこの国のために必要ならば」
 アクィリフェルの顔が輝いた。やはり、との思い。同時に裏切られたとの思い。視界の端にそれを収め、アウデンティースは満足する。泣かせるくらいならば、憎まれていたかった。




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