焚き火を作りにいっていたマルモルが戻り、話はそれまでとなってしまった。それをどこか残念に思う自分がいるのをアクィリフェルは自覚し、嫌悪する。 さすがに騎士たちは火口箱は忘れても糧食だけは持参していた。とはいえ非常用の携帯食だ。さして美味なものではない。 アクィリフェルは数人の騎士が同行するというのを振り切って一人、木立の中に入っていく。先ほど薪を集めたときに作った簡易な罠に獲物がかかっていれば幸運だ。 「運は、いいみたいだな」 喜んでいいはずなのに、皮肉な口調だった。それに自分で少しばかり驚く。どうにもアウデンティースがそこにいる、と言うことが気に入らなくてならないらしい。 「早く――」 メディナにつきたい。メディナで果たすべきことをしていれば、多少はあの男が近くにいることにも耐えられる、そんな気がした。 かかっていたのは若い兎だった。アクィリフェルはその場で獲物の始末をし、肉だけを夜営地に持って帰る。丹念に始末したから、血の臭いを嗅ぎつけて下手に獣が寄ってくることもないだろう。自分の手際に満足し、アクィリフェルはこれを食べる男のことを思わないよう努力した。 夜営地には赤々と焚き火の明かりが燃え盛っていた。騎士たちには薪を調整する、と言うことを教えるところからはじめねばならないらしい。このままでは朝になるまでに薪は尽きてしまうだろう。 「もう少し焚き火を小さくするんですね」 アウデンティースを無視してマルモルに言えば怪訝な顔をされた。せっかくの火をなぜ、との思いもあらわな顔にアクィリフェルは溜息をつく。 「わからないんですか。まったく。このままでは朝まで持ちませんよ、何のための焚き火なんですか」 「……わかっている!」 「本当ですか?」 騎士との言い合いを、アクィリフェルは楽しんですらいるらしい。アウデンティースには少なくともそう見える。 それが、心を疼かせていた。かつてのアクィリフェルならば、あのような言葉遊びは自分としたのに。そんな思いを振り払うことができない。 二度と戻ってくることのない日々を思えば全てから逃げ出したくなる。逃げればアクィリフェルが戻ってくると言うのならばそれを選んだだろう。そう思いはしたが、自分はアクィリフェルと王の責務とを比べ、彼は選べないとアウデンティースは知っていた。 「物わかりがよすぎるのも考え物か……」 自分自身に課された責任を厭うたことはかつて一度もない。今現在でさえ。これは自らがなすべきこと。自分にしかできないこと。そう思えばアクィリフェルは、自身の幸福は二の次にならざるを得ない。 「なにか言いましたか!?」 険のあるアクィリフェルの声。不意に以前のアケルの声に聞こえ、アウデンティースは体を強張らせる。 が、アクィリフェル自身のほうが身をすくめていた。自分の声が何を意味しているか、己の耳で聞いてしまった。 こんなとき、世界の音を聞く耳を持ってしまったことが忌々しくなる。聞きたくないとどんなに願っても、音を閉ざすことはできない。 「いいや。何も言っていないが?」 ゆっくりと、王者の傲慢な優しさを前面に立て、アウデンティースは微笑んで見せる。そうすれば、アクィリフェルがいっそう苛立つのがわかっていた。 案の定、アクィリフェルはアウデンティースを射殺さんばかりに睨み据え、無言で焚き火の前に腰を落とす。 「狩人、それは獲物か?」 「これが武器にでも見えるんですか、騎士殿!」 「見えるわけがなかろう!」 「自明のことを聞かないでくださいと言ってるんです。鬱陶しい!」 「貴様!」 アウデンティースは、マルモルを殺したくなった。楽しそう、と言うのはアクィリフェル側であって、マルモルは苛立つ一方だろう。 それでもアクィリフェルとあのように言葉を交わす自分の騎士に、アウデンティースは殺意を覚えずにはいられない。 「陛下に温かいものを供するとは、お前も中々礼節を心得ているな、狩人」 「はい? 馬鹿なことを言わないでいただけますか。僕が食べたいから獲ってきたんですけど」 「狩人!」 「なんですか」 殺意が、迂闊に目に表れるより前、アウデンティースは大きく笑った。そうでもしなければ、本当に剣を抜きかねない自分を笑い飛ばすように。 「アクィリフェル。私にもわけていただけるかな?」 「……結構。陛下が礼儀正しい方でよかったですよ。当然だろう、寄越せとでも言われたら火のついた薪をぶつけてやろうと思っていました」 「それは困るな」 言いながら、できることならばそうして欲しかった、アウデンティースは思う。思うより願う。アクィリフェルにつけられた傷ならば、一生残ればいい。傷の痛みを彼の思い出に抱え込みたい。 アクィリフェルはじっとアウデンティースを睨んだ。本当は、ただ見たつもりだった。が、アクィリフェル自身が思うより目は険しい。 アウデンティースを疑っていた、アクィリフェルは。困ると笑い、朗らかに過ごすこの王の本心がわからない。否、わかっている。 ここまで傷つけたのだから、今度はお前が傷つける番だとでも言わんばかりに痛めつけられることを望んででもいるようなその態度。 「声……かな」 仕種より何より、声にそれが表れている。何より如実なその謝罪。アクィリフェルは固く唇を引き結び、火の加減を見る。若く肉の薄い兎はすぐに焼けるだろう。 「騎士殿、荷物を取っていただけませんか」 「これか?」 「他にありますか?」 「貴様、その態度はなんとかならんのか!」 「生憎ですが、なんとかなるとしてもなんとかする気がまったくありませんから」 鼻を鳴らし、騎士が放って寄越した自分の荷物の中からアクィリフェルは小箱を取り出す。ぴっちりと組み合った木の箱だった。 「それは?」 「塩ですよ」 不思議そうな騎士に溜息をついて見せ、アクィリフェルは横目で王を見る。王はさもありなんとばかりにうなずいている。わけがわからなかった。 「塩がないと人間生きていられないということをご存知ですか、騎士殿。どういうわけか陛下はご存知のようですけどね」 アクィリフェルの声にわずかにアウデンティースは驚いていた。見ていたとは気づかなかった。見られていたと知っていたら、自分はどうしていただろう。 考えてもわからなかった。あえてどこか別のところでも見ればよかったか。そう思いはしてもアクィリフェルから目をそらすことはとてもできそうにない。 「先ほどの続きですけどね、陛下」 決して敬意の表れではなく、通常の呼びかけでもないアクィリフェルの呼びかけに、アウデンティースは一々胸をかきむしられそうになる。それでもただ微笑んでアクィリフェルを見やる。 「私の生まれのことか?」 「育ち、だったと思いますけど?」 「どちらにしても同じだ。生まれたのは王宮らしいがな」 「同じじゃないじゃないですか」 マルモルには、かつての自分に対していたよう叩きつけるよう物を言うアクィリフェル。自分には冷ややかに感情を殺して話す。それをまざまざと見るのがつらくてアウデンティースは直視する。 「覚えていないと言う意味では同じことだ」 アクィリフェルは肩をすくめ、まるで詭弁だとでも言うよう鼻を鳴らした。その態度にマルモルがまた一くさり文句を垂れる。 「王位を継ぐ王子はよそで育てられる慣例でもあるんですか?」 マルモルをアクィリフェルは相手にしなかった。面倒になったのだろう。そのことを内心密かにアウデンティースは喜び、自らの心の卑しさを嗤う。 「いいや。私には二人の兄と一人の姉があった。その上、私の母は側室だったからな」 「側室?」 「父王の愛妾の一人だった」 「言葉の定義は聞いていません! どうして……」 アクィリフェルがなぜ正室腹の王子たち、それも年長の王子たちを差し置いてアウデンティースが即位したのか、そう尋ねかけたときマルモルが厳しい顔をして制止した。 「狩人アクィリフェル。もうよせ」 一瞬アクィリフェルはマルモルを睨み、顎を上げて何かを言い返そうとする。それより先にアウデンティースが小さく笑った。 「かまうな、マルモル。いずれにせよ、知っているものは知っている話だ。過去の話でもある」 「ですが、陛下――」 「王家の恥部か? 何十年前の話だと思っている」 「何年経とうとも口にすべきことではありません!」 臣下にとっては、そうなのだろう。アウデンティースも思わないでもない。が、このような機会でもなければ、アクィリフェルに話すことはない気がした。 「私の母は、王妃から生まれた三人もの子がいる以上、国王の息子とはいえ私を臣下として育てたい、いずれ王位を継ぐ兄王子の補佐となるべく育てたい、そう我が父王に願ったと言う」 「よけいな争いを避ける意味でですか。賢明ですね」 「まったくだ。そのまま行けば、私は母の実家であるシャルマークのアンセル大公家の家名を継いでいただろうな」 あちらは幸い世継ぎがいなかったから、とアウデンティースは続けた。アンセルの名に聞き覚えはないのだろうアクィリフェルにマルモルが、先々王の弟君だ、と続ける。 「側室生まれと言ってましたが、毛並みはいいんですね」 「国王の側室などそういうものだ」 「へぇ、そうですか!」 何を思ったのかアクィリフェルの声が刺々しくなる。原因を理解しているアウデンティースは心の中だけで微笑んだ。ラウルスとして、微笑んだ。 「それがある時――」 「陛下、そのお話はどうかここまでで」 「ここでやめれば、アクィリフェルは探り出すぞ。噂話より事実のほうがまだましだ」 「そこまで好奇心が強くはないですが、話を途中でやめられるのは不快ですね」 「だろう? アクィリフェル、察しているだろうが、他言はしないでもらいたい」 「他言する相手がどこにいるんですか。僕はあなたがたの中にあって、ただ一人ですが」 誰も自分を知るものも、親しいものもいない。断言するアクィリフェルにアウデンティースは言葉がなかった。マルモルは納得していたのだから、それは通常の言葉の意味の範囲を超えるものではなかったのだろう。 だがアウデンティースは知っていた。お前とはなんの関わりもない、赤の他人と言うのも面倒だ。アクィリフェルはそう言ったに等しいのだと。 |