理由のわかっているこの不快感。だが、理由がわかっているからこそ、認めたくなどない。決して。アクィリフェルはじっとその感情に堪えていた。
 あの男の娘だから、あの男が愛した女性の娘だから。その思いに彼女を憎んでしまえば、自分の中にまだかすかに存在する感情をも認めることになってしまう。
「……馬鹿な」
 そんな感情などない。あるはずがないものをどうしろと言うのか。思わず呟いたアクィリフェルに、ティリアは何も言わなかった。
 このようなところも、彼女は父親によく似ている、アクィリフェルはそう思わざるを得なかった。傍若無人かと思えば、妙な気遣いを見せる。嫌いではなかったけれど、今は。
「わたくしたちが最後のようね」
 しばらくしてそう言ったティリアの声は、少し大きすぎたよう、アクィリフェルには聞こえた。はっとして彼女を見やれば、王家の姫らしくはなく片目をつぶって見せている。
 彼女の背後にその父を見るのは、いったい何度目になるのだろう。忘れてしまいたいのに、まざまざと見せ付けられている思いだった。
 無言でアクィリフェルはティリアの視線の先を追う。そこにはすでに到着していた二人の王子が、父に挨拶をしていた。
 見回しても、賢者たちの姿はない。神託の神官もいなかった。それだけ急ぎの出立だ、と言うことだろう。
「ティリア」
 王子との別れを済ませたアウデンティースが娘を見つけてゆったりと微笑む。
「――似合わないな」
 我知らず、アクィリフェルは呟いていた。ティリアの側に控えていたメレザンドが奇妙な顔をしてそれとはじめて気づく。
「メレザンド伯爵。何か?」
 いかにもあなたが何かを言ったのだといわんばかりの態度でアクィリフェルは彼に向かって首をかしげて見せる。
「君が……いや」
 まるで射竦められたようだった、メレザンドは。たかが狩人、そう思っていたアクィリフェルに威圧されていた。
「君は、不思議だな」
「そうですか」
「そう、気張るものではないのに、と言っても無駄かな?」
「気張ってなんかいませんから!」
 言い返した言葉にメレザンドが苦笑する。アクィリフェルの苛立ちは最高潮に達していた。何を見ても、誰を見ても一人の男を思ってしまう。
「アクィリフェル。出発だ」
 その男の無造作な声。手。態度。仕種。王であることを誇示するでもなく示す。それなのに、その声の裏側に潜むものを、アクィリフェルは聞いてしまう。
「はい。陛下」
 聞きたくなくて、頭を下げた。誰かの溜息が聞こえた。アウデンティースのものではない。それならば、聞き分ける自信がある。
「王女様?」
 ティリアの溜息だった。アウデンティースが軽く娘を睨んだところを見れば、どうやら親子の間にも色々あったらしいと見当がつく。今度は王の溜息が聞こえた。
「ケルウス。お前は私の世継ぎだ。私がいない間、よく治めよ」
「はい、父上。姉上の助言を頼りにお待ちしています」
「ルプス、兄をよく助けよ。お前には王佐の才がある」
「はい!」
 明るい弟王子の声に、からりと空気が晴れ渡る心地がした。アウデンティースの表情がふわりと和む。そのことでアクィリフェルは王の焦燥が強いことを知った。
「ではティリア。行ってくる」
「はい、行ってらっしゃいませ。お早いお帰りを」
 にこりと笑ったティリアに、悪戯をするような顔をして王はティリアの耳許に口を寄せる。
「シンケルスからの助言だ。スキエントに気をつけろ」
 その声は、ティリアとアクィリフェルにだけ聞こえた。まさかこんなところでこんなことを言うとは思っていなかったアクィリフェルは愕然として慌てて辺りを見回しそうになり、ティリアの視線に縫い止められてそれと知る。
「まぁ、いやなお父様! こんなところで何を仰るの。恥ずかしいわ」
 ティリアはあたかも父親が冗談でも言ったかのよう、頬を赤らめて父の肩を押しやった。何か悪夢でも見ているような、自分の耳が信じられなくなるようなものを見た、とアクィリフェルは思う。
 が、これが現実だった。ティリアの一瞬のあの目。そしていま自分を見たアウデンティースの目。アクィリフェルは聞かされたと同時に、演技に加わることを求められていると知る。
「いつまでお喋りをしておいでなんですか。一刻も争うようなことを仰せだったと記憶していますが!」
 だから憤然と言ったのは、アクィリフェルの本心だった。たとえ怒りの内容が別物だったとしても、感じている感情はまぎれもなく本物。
「そのとおりだな。アクィリフェル。我が横に」
 にやりと笑い、王が言う。これもまた、意味のない言葉ではないのだろう。自分を側に置きたいだけが理由とは思えない。アクィリフェルは黙って頭を下げた。
「では、王女様」
 姫にも一礼し、メレザンドにも目礼をする。そんな自分を王が見ている気配を感じ取っていた。
「違うでしょう、アクィリフェル」
「え?」
「出発の時にはなんて言うのかしら、アクィリフェル? 行ってきます、ではなくて?」
 今ここで長く深い溜息をついてもいいはずだった。だがアクィリフェルはなぜかまじまじと姫を見ていた。不意にアクィリフェルの顔がほころぶ。
「……行ってまいります、王女様」
「はい、行ってらっしゃい、アクィリフェル。無事に帰っておいでなさいね。待っていますから」
「待って?」
「えぇ。だって、あなたはこのハイドリンに知人がいないのでしょう? だから、わたくしが待っていてあげます。待っている人がいるのだから、帰ってこなくてはいけませんよ」
 胸が、詰まった。馬鹿なことを、子供じみた言を、笑ってもよかった。けれどアクィリフェルは口許を歪めて姫を見ていた。
「――行ってきます」
 再び言って頭を下げたのは、突如として触れた温かさに歪んだ顔を見られたくなかったせい。
「ティリア」
 まるでたしなめているかの王の声。それなのに、アクィリフェルの耳は彼の不安を聞き取る。自分が姫に恋をしたのではないかと。
「参りますよ、陛下。遅くなるのは困るのではないんですか!」
「お。おう、では行こう」
「ご依頼の件、了解しましたよ、姫様」
 奇妙に軽くなった心を抱き、アクィリフェルは発ち際に振り返って言う。吹き出すまい、とこらえているティリアがいた。
「お願いするわ、アクィリフェル」
「面倒ですが、お願いされました」
「あなたって、どうしてそういうものの言い方しかできないのかしらね」
「育ちのせいですよ!」
 アウデンティースにとっては突然のことだっただろう。アクィリフェルがティリアに対して好意を微塵も持っていなかったのはつい先日のことだ。それから何があったとも思えない。
「アクィリフェル」
 尋ねてはいけない。そう思ったのに声は出てしまっていた。用意された馬のところまであと、少し。
「……別に王女様とは何もないですから。ご心配がそのことなら」
「いや……それは、そうだが……」
「よく似ておいでなのが不愉快です。他にも色々不快です。……が、優しい姫君でらっしゃる。こんな僕にも手を差し伸べてくださるんだから」
「似て?」
「なんでもないです!」
 この男は気づいていないのか、と思った途端にアクィリフェルの不快さは増していた。ちらりと見やってもアウデンティースは顔を引き締めている。
 王は、内心の喜びを表すまい、と懸命だった。自分に似ているからこそ、アクィリフェルが不快を感じているのならばこんなに嬉しいことはない、そう思う。
 あのような形で失ってしまったアクィリフェルだった。彼の怒りが解ける日がきたとしても、あのころのような目で自分を見てくれることはない、とアウデンティースは確信している。
「いっそ」
 怒りがずっと解けなければいい。そう思う自分がいるのをアウデンティースは知っていた。その思いゆえに、あの日以来何度となく怒らせ続けている。憎まれていたかった。忘れられるより、憎まれていたかった。
「なにか仰いましたか、陛下!」
 刺々しいアクィリフェルの声。敬称をまるで侮蔑のように発音する。その声を、いつまでも聞いていたかった。
「いや、なにも」
 だがここに騎士たちが揃っていた。たかが狩人、とアクィリフェルを侮る気分を抱かずにはいられない騎士たちが。
 騎士たちの中にも禁断の山の狩人、と言う言葉を聞いたことがあるものがいないではない。だが、正に言葉を知っているだけで実態など少しも知らない。狩人なのだから、山で獣を狩っているもの、一介の庶民、そう思わないはずがない。
「なんだ、そんな小さな弓で兎狩りでもするのか?」
 その狩人が、王の横に馬を進める権利を得たのだ。騎士たちが不愉快に思うのも致し方ないところというもの。
「引いてみますか?」
 何を思って自分を隣に置いたのか、アクィリフェルにはわからない。こうなることは目に見えていたはず、と皮肉な口調で弓を差し出す。
「こんなもの――」
 鼻を鳴らして騎士は手にとる。どこかで見た顔だと思ったら、先ほどのマルモルと言う騎士だった。あの騎士ならば、自分を不快に思う気持ちはいっそう強いだろう。アクィリフェルは内心で面白がりつつ、渡した弓を見ていた。
「なに?」
「引いてくださってかまいませんよ、どうぞご遠慮なく」
「貴様!」
 言いつつマルモルの顔は真っ赤になっている。注目を集めているのが一つ。もう一つは。渾身の力をこめてもびくともしない弓の弦。
「禁断の山の狩人の強弓の伝説は本当だったわけだな、アクィリフェル?」
「ご覧のとおりですよ」
 肩をすくめてマルモルから弓を奪い返し、アクィリフェルは軽々と引いて見せた。満月のよう引き絞られた弓からアウデンティースを覗き、マルモルを覗く。
「小さな弓ですが、完全武装した人間でも射抜けますよ?」
 驚きと怒りに顔を赤くしている騎士たちに混じって王は一人涼しい顔で笑っていた。




モドル   ススム   トップへ