花園を訪れる気になどなれず、かといって部屋に閉じこもるのもいやで、アクィリフェルは探花荘の前庭で一人リュートを奏でていた。
 城下町を訪れてみたい気はした。このリュートの音色で本当に混沌の侵略が止まっているのか。アウデンティースがアクィリフェルの部屋を密談に使ってから二日。それでは街でもまだ噂話は聞けないだろう。
 その思いだけがアクィリフェルをここにとどめている。焦りはあった。焦っても仕方ない、だからじっと待つ。狩人として体に叩き込まれた習性によって、かろうじて自制できている。
 けれど苛立ちばかりはどうしようもなかった。リュートの弦を爪弾く指が、時折不規則に痙攣する。そのたびに音色が乱れた。
「……本当かな」
 自分の苛立ちが音色を乱れさせているのか。それともこの世界の音色が乱れているのか。区別がつくようで、つかない。
 長い溜息をつき、アクィリフェルは爪弾く指を止めないままに空を見上げた。
「こんな日なのに、きれいな空」
 ぽかんと無邪気な子供のように晴れ上がった空だった。混沌の侵略も、世界の異変も嘘のよう。長い夢でも見ていて、目が覚めればここは懐かしい山。
「そうであれば、どんなにいいか」
 アクィリフェルの目は夢を見る。アクィリフェルの耳は現実を聞く。ひび割れて、歪んだ音色。この世界そのものの音。
「これに影響されてるのかな……」
 自分の心のざわつきが、世界にもたらされたものであるならば、いっそ気が楽だった。
「――ラウルス」
 小さく呟いてみる。冗談のよう、鮮やかになったリュートの音。アクィリフェルは聞かないふりをして、自覚を閉ざす。
 再び、世界を思って奏ではじめた。混沌の侵略を、たとえ一時なりとも止められることを祈り、願う。この音色が続く間は決して混沌に飲まれることはない。誰に言われなくともアクィリフェルは知っていた。
「アクィリフェル!」
 はっとして顔を上げる。そこには青ざめたシンケルスがいた。
「賢者様?」
「すぐ、王宮に」
「ずいぶん早いですね、もう使者が?」
「いいから、早く行くんだ」
 面倒そうに立ち上がったアクィリフェルは一瞬、足を止めた。違う。決定的に何かが違う。シンケルスの表情、声の色。
「賢者様、何があったんですか」
 ゆっくりと、尋ねる。首をかしげ、物柔らかに。けれど一歩も退かず。
「いまここで、私が話すことではない」
「賢者様」
「いいから、行きなさい。すぐにわかる。ここで時間を潰しているより、早いはずだ」
 賢者もまた、退かなかった。アクィリフェルは自分が折れるよりないと知る。わずかな不満を顔に表せば、ようやく苦笑する賢者。
 その顔に、アクィリフェルは彼がいまだかつて見たこともないほど強張った顔をしていたのだと気づいた。
「行ってきます」
 一礼したアクィリフェルを見送るのかと思いきや、シンケルスもまたアクィリフェルに続く。
「賢者様?」
「私も呼ばれているからね」
「だったら――」
 小声で思わず文句を垂れる。一緒に行くと言ってくれればこれほど嫌がらなかったものを。
「アクィリフェル?」
 嫌がった理由。王宮。そこにいるはずの男。それを悟られたくなくてアクィリフェルは首を振る。
「いいえ、なんでもないです。急ぎましょう」
 ちょっとした嫌がらせに足を速めた。運動を得意としているわけではない賢者の足音がすぐにも乱れる。
「君は……。まったく」
 何事かを言う賢者の小さな声が聞こえず、アクィリフェルはそれなのにそっと笑った。自分と同じことを賢者がしている。ファーサイトの賢者団、このアルハイドにあって最も知恵に優れ、重んぜられる賢者の一人が。
 幸い、シンケルスがへたり込むより先に王宮につく。賢者がこの有様では、よほど急いできたのだと言う印象を与えるだろう。それはそれで幸いだ、とアクィリフェルは皮肉に思っていた。
「大丈夫ですか、賢者様」
「そう見えるかね?」
「実はあまり」
「ならば余計なことは言わないことだ」
 そう言ってじろりと睨まれてしまった。どうやら恨まれてしまったらしいと肩をすくめかけたアクィリフェルは、ついで笑い出す。シンケルスが悪戯っぽく片目をつぶっていた。
「賢者様――」
 アクィリフェルが言葉を続けるより先に見てしまった。通った小さな謁見室の中は人で埋まっている。こんな短時間でなぜこれほど。きっと別のどこかで彼らは会談を持っていたのだ、とアクィリフェルは気づく。
「来たか」
 王の入場を告げる声もなく、無造作にアウデンティースが現れた。そのことに少しばかり驚いたのだろう、騎士と思しき人々がざわめく。アクィリフェルにとっては見慣れた姿だった。
「……いやだな」
 あんなものを慣れたと感じてしまうことが。ぎゅっと手を握り込んで、いまだリュートを持ったままだったと気づいた。さほどそうは感じていなかったけれど、それなりに慌てていたらしい。アクィリフェルはわずかに目を伏せて恥じた。思いを振り払い、声を上げる。
「陛下、これは何事ですか。あるいは?」
 騎士たちは事情をあまり知らないのかもしれない、とアクィリフェルは思う。不遜な物言いだと憤然とする彼らを王が止めていた。
「使者が戻ったか、と? いくらなんでも早すぎる」
「――と、感じましたのであえてお尋ねしました。では?」
「それどころではなくなった、と言うことだな」
 アウデンティースは簡易な玉座に腰を下ろしつつ皮肉に唇を歪める。声の響きに焦りを聞いた。耳にした音に、なぜか奇妙なほど安堵していた、アクィリフェルは。
「アクィリフェル。地理には明るいか」
「ある程度は」
「シャルマーク地方東部沿岸地域、メディナ。わかるか」
「わかります。ファーサイト賢者団の本拠にも近い」
 アウデンティースはアクィリフェルが口にしなかったことを汲み取ったようだった。賢者団の本拠に近い、それはすなわち禁断の山からも遠くはないと。
「メディナの領主から、緊急の通報がきた」
「離反ですか、謀反ですか」
 すぐさま尋ねたアクィリフェルに騎士の一人が息を飲み、剣を抜きかけさすがに思いとどまったのか声を荒らげることに変えた。
「貴様! いったい何を知っている。吐け!」
「この状況下で何が起こりうるかを考えれば尋ねることなんか決まってます!」
「なんだと!」
「よさんか、マルモル」
「ですが、陛下」
「よせ、と言っている」
「は――」
 軽い頭痛を覚えでもしたかのよう、アウデンティースは溜息をついた。それから騎士の不始末を許せとでも言うよう、わずかにアクィリフェルに向かって目礼をした。
「アクィリフェルの言葉は当たらずといえども遠からず。民が海に向かっているとのことだ」
「海に、ですか?」
 アクィリフェルはよほど怪訝な顔をしたのだろう。王ははじめから事情を語った。
 当初、メディナの領主は民が混沌を不安に感じているのだろうと思っていたらしい。じっと海を臨む場所に佇み、日がな一日海を眺めている民がぽつりぽつりといたそうだ。
「それが、増えた」
 単に増えただけではない。まるで魅入られたかのよう、海を食い入るように見つめる。怯えた家族が肩を揺すぶり、無理やり家に連れ帰っても、気づけば海を臨んでいる。
「そのうち、また一人、また一人と増えていく。家族のものも」
 アクィリフェルはぞっとしていた。周りを見回せば、同じ思いを共有しているのはどうやらシンケルスと、王だけらしい。そのことにまた恐怖する。はじめて賢者の長、スキエントがいないことに気づいた。
「アクィリフェル」
「僕の力が必要です。馬を一頭、賜りたい」
「待て」
「待っている時間があると思うのですか! ……陛下」
 いかにもとってつけたような敬称に、アウデンティースは顔色を変えはしなかった。苦笑の気配が揺らめいただけ。
「時間はない。だが、人手は要る。馬は巧みか?」
「それなりに」
「近衛騎士団の一部を出動させる」
「時間がないと――」
「すぐにも出発は可能だ。あとは、お前の準備次第」
「心得ました。では」
 焦燥を、それは強い焦燥を感じていた。アウデンティースよりメディナの地名を聞かされた瞬間、体を雷に貫かれたかと思ったほど。あるいは轟音を聞いたかの。
 間違いなく、混沌が何かを起こしている。混沌が何かがわかれば。何を望んでいるものか、あるいはどう対応すればいいものか。それがわかれば。
「アクィリフェル。準備は万全に」
 小声でシンケルスに言われた。背を返そうとしてアクィリフェルははっとして足を止める。それからにこりと笑った。
「そんなに焦っているように見えましたか?」
 シンケルスに言いながら、この表情を別の男が見ていることを感じていた。
「お前は、予言に語られた導き手。我々人間の、切り札だ。失うわけにはいかないのだよ」
 賢者の温顔に嘘を感じる。予言も何も関わりなく、一人の人間を案じてくれるシンケルスを、はじめて感じた。
「はい」
 堅く返事をした。シンケルスはそれだけできっとアクィリフェルの真意を悟るだろう。笑顔と共にうなずきを返す賢者にアクィリフェルは一礼する。
「アクィリフェル」
「なんですか、僕はもう準備に行きたいんですが!」
 思わず言い返し、ここがどこかを思い出す。かすかに赤面したアクィリフェルに気づいた様子はなく王は言う。
「言い忘れていたが、私も同行する」
 アクィリフェルは無言で頭を下げ、部屋を後にした。きたときよりも更に速い足取りで王宮を後にする。そうでもしなければ、不敬罪で捕まりかねない暴言を吐いていた。




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