時が静止した気がした。あれはいったいいつのことだったのだろう。二人で笑いあったり、寝顔を見つめて幸福な気持ちになったりしたのは。まるで生まれる前のよう、遠い記憶だった。 「僕は――」 何を言うつもりであったのか、わかってはいたけれどアクィリフェルはやはり見失った。だからこそ、二人きりになどなりたくなかった。 本当は、賢者がいる間に言うべきだった。言えばよかったのに、言い切れなかった。アクィリフェルは自嘲する。 もしかしたらまだ、自分は未練を残しているのかもしれないと。かつて愛したはずの人との間にだけ、交わす言葉を。 アクィリフェルの逡巡を、アウデンティースは黙って待っていた。蝋燭のほの明かりの中、アクィリフェルの赤毛が暗く沈んでいる。それでも彼の目には輝いて見えた。部屋の隅に目を向けないよう心がけているからこそ、そう感じるのかもしれない。 「――もう、ご存知かとも思いますけどね。一応、言っておくべきだと思って」 「なにをだ?」 かすかな苦笑。それではわからないだろう、とからかわれているかの声。アクィリフェルの耳は違うことを聞き取る。 「混沌の侵略が一時、止まったの、ご存知ですよね」 首を振り、聞かないふりをする。本当に、本当に耳を閉ざしてしまえたならば。アクィリフェルの願いは叶わない。叶わないことを知りつつ願ってしまう。 「あぁ、報告が来ている」 「だったら、再開したのも、当然?」 「無論」 ここに立つ男はラウルスではない。アウデンティース。アルハイド王国のただ一人の国王。その気力の全てをこめてうなずいたけれど、アクィリフェルにはどう聞こえただろうか。心の底のラウルスの囁きに、アウデンティースは耳を貸さない。 「時期は」 短いアクィリフェルの言葉。アウデンティースが目をそらす。窓の外、梢が風に触れている気配がした。 「気がついているんですね。だったらそう言ってください。話が遠くて面倒じゃないですか」 「時期は確かに、あっているな……」 「そう言うことです。気がついてるなら、言わなくってもよかったんですけどね」 思えば鋭敏なこの男が、気づいていないはずはなかった。アクィリフェルは軽く唇を噛み、アウデンティースとは別の場所を凝視する。どこでもない、どこかを。 「僕の、リュートですよね」 「だろうな」 「僕にだって断言なんかできませんけど。でも……」 「感じるか?」 「やめてください!」 咄嗟に怒鳴ってしまった。そこにいるのがラウルスのような気がして。国王は、遠く閉ざした窓の外を見つめたまま黙ってうなずいた。 「……あってますけどね。そうですよ、感じています。僕はあなたの導き手かどうかなんか知ったことじゃない」 言葉を切り、知らずアウデンティースの反応を窺っていた。アウデンティースもまた、アクィリフェルに見つめられているのを感じていた。背中に突き刺さる視線が痛い。 その痛みを感じるのがいっそ心地良いほどだった。失われた愛ならば、憎まれていたい。忘れられるより遥かに幸福だと男は思う。 「僕のリュートが、もしかしたら歌が。どっちかわかりませんし、どっちでもいいですけど。――混沌の侵略を止めている」 「一時的なものかもしれん」 「ならば時間稼ぎでもかまわない」 「アクィリフェル?」 「……僕は、禁断の山の狩人です」 言えばアウデンティースは視線を合わせないまま、無言でうなずいた。知っているが今更どうしたとでも言わんばかりの態度。アクィリフェルは無視して続ける。 「我々は、人間の聖地の守り手」 こんなことを仲間以外に言うとは思ってもみなかった。言ってよいことなのか、一瞬迷ったものの、口にしてしまった言葉は返せない。 「聖地?」 わずかな戸惑いの声に、アクィリフェルの目は輝く。この男にも知らないことがあると思えば、どこか意地の悪い喜びが浮かび上がってくる。 「そうです、聖地ですよ。我々が守っているのは、人間が生まれた場所。最初の人間が、この世界に生み出された場所です。山はそれを囲んでいるにすぎない。聖地に入れないために山ごと守っているだけです」 「……そういうことだったのか」 何かを納得した王の声だった。ふとアクィリフェルは不快になる。何も知らない、そう思ったはずなのに、何かは知っていた、そんな気がした。 「最初の人間が生まれた神聖な場所の守り手。延いては人間の守り手。それが禁断の山の狩人です」 「人を守るのは、私の役目だと思っていたがな」 「……言いたくないですけどね。どちらも必要なんでしょうよ」 「アクィリフェル?」 意外な言葉に思わずアウデンティースは振り返る。少しばかり、和らいだ声をしていたせいかもしれない。それでも彼の目に映ったアクィリフェルは皮肉な笑みを張り付かせたままだった。 「あなたは、国王は、人間の王国の主として、その民の全てを守るもの。そうでしょう?」 「でき得る限り、そうありたいものだ」 「そのとおりですよ。零れ落ちる人が必ずいる。王の手の届かない人がいる。それを守るのが、我々です。別に、場所だけを守っているわけじゃないですから」 肩をすくめたアクィリフェルに誇りを見た。アウデンティースは目を瞬く。アケルとアクィリフェル。変らないと思っていたはずが、こうして見れば確かに違う。一人の狩人として立つときのこの誇り高さ。圧倒されそうだった。 「だから……。非常に不本意ですけど。今現在、僕はあなたに協力しなければならない。いいえ、国王に協力していただかなければならない。時間稼ぎだろうがなんだろうが、僕のリュートが侵略を止めていることは事実なんです。証拠なんかなくっても!」 「信じる。いや、私は知っている」 「――協力していただくにあたって、その物言いをやめてくださいとお願いしなければならないようですね!」 「事実は事実だろう。信じているのではない。ただ、事実として知っているのだから致し方あるまいよ」 「それが癇に障ると言っているんです!」 声を大きく荒らげかけ、今がどこで相手が誰かを思い出した。声を低めて罵るアクィリフェルを、アウデンティースは口許を引きつらせながら見ている。 アクィリフェルにはわかっていた。男が笑わないよう必死になってこらえていることが。むっとしつつも、彼の言った言葉が理解できてしまう。 「僕は、弾き続けなきゃなりません」 「頼む」 「別にあなたのためじゃありません!」 「民のために。なんの罪科もない人々のために」 「だからそう言ってるんです!」 「そのために頼むと言ってるんだ」 言い合って、小さくアウデンティースが溜息をついた。同じことを言っているのになぜ、言い合いになってしまうのだろう。 一瞬。ほんの一瞬。二人は錯覚した。何も変わっていない、ここに立つのがラウルスとアケルであるかのように。 錯覚を解いたのはどちらだったか。アクィリフェルが先だった。苛立たしげに首を降り、世界そのものを否定しようとでも言わんばかりに拳を握る。音高く、いまだ持ったままの短刀を鞘に収めた。 「僕は、弾かなきゃなりませんから」 「あぁ」 「……お聞きになりますか、陛下?」 皮肉な自分の声を、アクィリフェルは内心で驚いていた。言わなくていいことを言った。言うつもりなど、決してなかった。むしろ、考えたこともなかったはず。 アウデンティースもまた、驚いていた。内心の動揺が表れているアクィリフェルに心の中でそっと微笑み、そして首を振る。 「遠慮しておこう」 「こんなこと、二度と言わないと思うんですけどね。別にいいです、聞かせたいわけじゃないですから」 「お前の歌を聞けば、思い出さなくていいことを思い出す。お互いに」 「そんなことは――!」 「これから、互いに協力しなければならないのだろう、アクィリフェル? ならば、単なる協力者でいるべきだ」 「……よけいなことをしている暇はないということですね。えぇ、同感ですよ、僕も!」 叩きつけるようなアクィリフェルの言葉に、アウデンティースはまた自分が失言したのを知る。それでもどこが間違っていて、どう言えばよかったのかがわからない。いや、違う。わかっていて、言った。アクィリフェルを怒らせようとして言った。愛が失われたのならば、憎しみを得たい。 「ならばさっさとお帰りを。出口はあちらですよ、陛下」 憤然と扉を指差すアクィリフェルに、アウデンティースは苦笑して首を振る。 「玄関から入っていない私が、どうしてそこから帰れるんだ? 邪魔をしたな」 言うなりアウデンティースは窓を開け放ち、身軽に外の梢に飛び移る。何度見ても、これが国王のすることか、とアクィリフェルは疑問に思う。同時に、王宮の奥深く、次代の国王として育てられたはずの彼が、なぜこのようなことができるのか不思議にも思った。 アウデンティースが振り返るのが、アクィリフェルにはわかっていた。枝の上、以前のように振り返って小さく笑うだろう。 それを見たくなくて、アクィリフェルは素早く窓に走りよる。閉じてしまおうと手をかけて、止まった。 「え――?」 男はいなかった。振り返ることもなく笑みもなく。叩きつける勢いで窓を閉め、はじめて待っていたのだと気づく。 「馬鹿な」 待ってなどいない。待ち望んでなどいない。もう、あんな男はいらない。自分を騙して、弄んだ男。 「待ってなんか」 ならばなぜ、驚いたのか。それどころか心が痛いのか。いないことに満足するはずの自分の心が、衝撃を受けている。 ぼんやりとアクィリフェルは振り返り、室内を見回すともなく見回した。 「……嘘」 アウデンティースが立っていた場所だった、ここは。自然に目を向ければ、一点。 「見たんだ、あの人……」 片付ける気も起こらずうち捨てたままのあの髪飾り。ひしゃげて、壊れて、残骸に成り果てた贈り物。 「なにも、言わなかったな」 言えるはずがない。言ったとしても聞く耳など決して持たなかった。 それでも、何かを言ってほしかったのだろうか、自分は。アクィリフェルは思う。もしかしたら傷つく顔が見たかったのだろうか。 「違う」 それならば、こんなに心が痛みはしない。アクィリフェルは思い出す。当たり前だった。当たり前ではあったけれど、やはりアウデンティースの指にあの指輪はなかったと。 |