いっそこの手の短刀で、リュートの弦もアウデンティースも、己の命さえ断ち切ってしまったら、どんなにすっきりとすることだろう。
 もてあそぶ短刀の刃が、蝋燭の仄かな明かりに光を放ち、ぞっとしてアクィリフェルは目をそらした。自分の心の闇を覗いた、そんな気がした。
「見当が、つきます。いえ、知っていると言い切ってもかまいません」
 真剣な賢者の声。万が一にも間違っていたならばそれこそ己の命を差し出してもかまわない。そう断言する声だった。
 それを耳にし、アクィリフェルは恥じる。シンケルスの声には音色があった。この世界が歌う、アクィリフェルが耳にしている音楽にも似た、誠実な音。
 己の命を断ち切りたいなど、軽く思うものではない。自分にはシンケルスのような声は決して出すことはできない、今はまだ。それが悔しいような安堵を呼んだ。
「予言書は言います――」
 シンケルスは目を閉じているのだろうか。歌うような暗誦だった。アクィリフェルもまた目を閉じてその音を聞く。言葉ではなく。
「人ならざるものの力を得し鷲、礎となる」
 ふっと室内に力強いものが満ちた気がした。アクィリフェルは思わず身構え、そして端然と座す王を目にした。悔しさが、体に力を与える。背を伸ばしたアクィリフェルにかまうことなくシンケルスは言葉を続けた。
「歴然としている、いえ、しすぎてすらいるよう、思います」
「賢者には明るくわかることでも我々にはわからんよ」
 軽く言う王の声に賢者は目覚めたかのよう背筋を伸ばした。照れて笑う笑顔にアクィリフェルは苛立つ。理由などわからない、それが苛立たしいと自分で思う。心の片隅は、理由を知っているからだと言った。
「我々、とひと括りにしないでいただけますか、陛下」
 皮肉を声から滴らせて言うアクィリフェルに賢者は少しばかり驚いた顔をし、それから小さく微笑む。首をかしげて話の続きを促した。
「――わかると思いますよ、僕にも」
「ほう?」
「むしろ、あまりにも明確で、どうして賢者の長がそれを口にしないか、気になっていましたが」
「賢者には賢者の理由があるとは思わんのか」
 口を挟んだ王にアクィリフェルは唇を噛む。軽率な言をたしなめられた気がした。思わず短刀を握り締め、自分の心にそれを振り回したい気持ちがないことを確かめた。
「……深遠な理由なんか、僕の知ったことではありませんね。僕には予言書、ですか? それに書いてある人ならざるもの、はエルフの力を借りろと言っているようにしか聞こえない、と言うだけのことです」
 吐き捨てるよう言ったはずなのに、なぜかシンケルスが莞爾とした。呆気に取られてアクィリフェルは目を瞬く。自分が暴言を吐いていると言う自覚くらいはあった。
「賢者様?」
「いやいや、アクィリフェルの申すとおり。確かに人ならざるものの指すところは明確だと、私も思う」
「明確ではあるが……」
「陛下?」
 苦笑するアウデンティースに目を留めて賢者が首をかしげる。アクィリフェルはそこに王がいないかのよう、振る舞っていた。
「エルフと言うのはいかがなものかな」
 振る舞っていたのに、思わず王を睨み据えていた。こんなに明確なことがなぜ王にわからない。これが歴代国王の中でも英明を謳われる王だと言うのだから、世も末だ。そんなことを心の中で罵った。
「アクィリフェル。お前はエルフと言った」
「えぇ、言いましたよ。なにか問題が!」
「大問題だ」
 そこはかとなく楽しげな王の声だった。謹厳実直そのものの顔をしている。否、それより多少厳しい顔をしている。シンケルスを見ればわかることだった。王の姿を前に、賢者はアクィリフェルを庇うかどうか決めかねている。
 それなのに、アクィリフェルの耳は違うことを聞いている。煩わしかった。どうしてこんなものが聞こえてしまうのか。聞き取れてしまうのか、わかってしまうのか。
 あのころは、嬉しいことだった。ラウルスの心の音色を聞くのは、心躍ることだった。世界は混沌の侵略を受け、あるいは今にも崩壊の瀬戸際にあるのかもしれない。それでもアクィリフェルの耳は、満ち足りた平和を聞いていたものを。
 いまは。
 思うだけで顔を背けたくなる。それはきっと、今ここで耳にする王の心の音色が、あのときと寸分変っていないこと聞き取ってしまっているせいだ。
 認めたくはない。決して聞きたくもない。それでも、聞こえてしまう。わかってしまう。溜息をつき、アクィリフェルは王を真正面から見据えた。
「どこがですか?」
 今は当面の問題を。そうすれば、こんなわけのわからない混乱から自分を救える。無駄だと思う気持がかすかにわいた。
「呼称の問題だな」
「どういう意味です?」
 あえて問いはしたものの、アクィリフェルは内心で驚いていた。王都ハイドリンの住人が、それも国王が知っているとは思ってもみなかった。
「エルフと言うのは、いわば庶民の俗語だな。確かにそれで通じはするが、本人たちがそれを喜んでいるわけではない」
「本人――?」
 まるで知り合いがいるとでも言わんばかりの態度だった。また、知らないことが一つ。たくさんの隠し事。自分が知っていたあの男は、この王のいったいどんな一面なのだろう。思うアクィリフェルを置き去りにして王は話し出す。
「アルハイド王国は私の国だが、この大陸に他の国がないわけでもない」
 一度言葉を切り、アウデンティースはアクィリフェルを見やった。本当は、この程度のことは知っているのではないか、と。彼は答えず口をつぐんで王を見返した。
「お前の言うエルフ、正しくは妖精族と言うべきだがな。彼らもまた国を作っているらしい」
「……伝聞ですか」
「お互い相手にさほど興味を持っていないからな。たまに若い妖精が悪戯をしにきたり、人間が妖精郷に迷い込んだり、その程度の付き合いだ」
「付き合い、と言いますか、それは?」
「まぁ……アルハイド王と妖精の女王は付き合いがあるからな」
 肩をすくめて言うアウデンティースにアクィリフェルは息を飲む。また一つ、知らないこと。わざわざ使ったエルフと言う俗語が馬鹿馬鹿しくなってくる。むしろ、侮ってやろうとした自分の馬鹿さ加減に嫌気がさす。
「ですから陛下、ここはぜひ妖精の女王に助言を求めるべきかと存じます」
 遠回りしていた話が戻ってくる。シンケルスの真剣な声にアクィリフェルは一人取り残された気分でいた。
「もっともなことだ。が、スキエントはどう言っている?」
「長は……。妖精の女王に何の助言を求めるのか、と。そもそも人ならざるものとは妖精族を指すのかと。わからないうちに動いては無駄足となりかねない。それにも一理はあります」
「とはいえ、足踏みをしていては滅びかねん」
 むっつりと言った王にシンケルスの雰囲気が明らかに緩んだ。アクィリフェルは賢者と呼ばれ人の尊崇を集めるものであってのも悩むのだと意外に思う。それも長を飛び越えて王に提案をするなど、不遜かもしれないという、あるいは長の不興を買うかもしれないと言う些細な理由で。
「アクィリフェル」
 賢者に呼ばれ、アクィリフェルは姿勢を正す。扉の側の壁によりかかっていたのを、正しただけではあったが。
「人など、そのようなものだよ」
 言葉の意味をとりそこなった。意味がわかっても、表面しか、わからない。賢者がなぜ今、そのようなことを言う。
「賢者様……」
 続ける言葉を見失い、視線が自然とアウデンティースへと流れた。途端に、唇を噛みしめて目をそらす。自分のしたことが信じがたかった。
「まぁ、いい。いずれ私の言葉の意味がわかる日も来るかもしれない。人など、そういうものだから」
 繰り返すシンケルスの声音に、アクィリフェルはこれを記憶しておかなくてはと焦燥に駆られた。何か大切なことを言われているのは、理解できる。だからアクィリフェルははっきりとうなずいた。それでいいと賢者もまたうなずき返す。王が一人、取り残されてつまらなそうだった。それがまた嬉しくてアクィリフェルはそっと笑みを浮かべた。
「では陛下、探索に赴かれますか?」
 それは問いだった。が、実際は賢者の要請だった。アクィリフェルはアウデンティースが首を縦に振るものだと思っていた。けれど彼は横に振った。
「なにをぐずぐずしてるんですか! さっさとしなければ、この世界がどうなると思ってるんです!?」
「待ちなさい、アクィリフェル」
「いいえ、賢者様。待ちません。だって――」
「アクィリフェル」
 制止は、国王の声だった。ぎゅっと拳を握り締め、いまだに持ったままの短刀に目を落とす。
「妖精郷は、各地にある」
「それがどうしたんですか!」
「女王がどこにいるかは、わからん」
「はぁ? 付き合いがあると仰ったのは、陛下だったと思いますけど?」
「そういきり立つな。付き合いはある。確かに。だが妖精の習慣を細かく知っているわけでもない。女王がどういう理由で、どういう周期で、どこを巡るのか、次に移動するのはどこなのか、はっきりと知っている人間などいるものか」
「確かに」
 シンケルスがもっともらしくうなずき、うなっていた。返す言葉を失ったアクィリフェルを置いてシンケルスは真摯な色を目に浮かべた。
「どうなさいます、陛下」
「闇雲に突進していいことはないな」
「ですが」
 不意にアクィリフェルは賢者に焦りを感じた。悪いものではない。むしろ、自分と同様の焦り。この世界が滅びてしまうかもしれない。それを食い止めんとしての、焦り。仲間がいる、突如としてそう思う。
「使者を出す」
「妖精郷に、ですか?」
「入れてもらえるかどうかはわからんがな。少なくとも私が、アルハイド王が妖精の女王を探しているという噂はあちらに伝わるはずだ。伝われば、あちらから接触を持ってくるだろうさ」
「……ずいぶん、確信を持ってらっしゃいますね」
「アクィリフェル。考えろ」
「考えてます!」
 怒鳴ったアクィリフェルに本当か、とでも言いたげな視線が返ってきて、アクィリフェルはやはり唇を噛む。
「アクィリフェル。聞いたことがあるだろう? 妖精族は基本的に長命だ。女王など、歴代の国王が誰も代替わりを知らんほどだからな」
 ずっと同じものが女王として君臨している、とアウデンティースは言った。話に聞いたことはあった、アクィリフェルも。ただそのときはお伽噺の類だと思っていたが。訝しげなアクィリフェルに、アウデンティースは本当のことだ、とうなずいた。




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