使者を出す、と言ったからには何か決定事項があるのだ、とアクィリフェルは思っていた。ようやくはじまるのかと言う思いと遅すぎると嘆く気持ち。どちらとも取れず最も近いのは安堵かとも思った。
 だからアクィリフェルは失望することになった。何も、決まってなどいなかった。まだはじまりすらしない。賢者たちに例の神官。王の子供たちにメレザンド。無論、国王とアクィリフェル。あのときとなんら変りのない面々で持たれた会議で決まったことと言えば、ただ一つ。
「探索、ね……」
 そんなことはそれこそ最初からわかっている。王が自ら出向くと言明してもいる。今更、探索がどうのもあったものではない。
 問題はどこに行くか、の方だとアクィリフェルは思っている。それが決まらないことにアウデンティースが苛立ちを感じていることも知っていた。
「知りたくなんかないのに」
 それでもわかってしまう。この耳で聞き取ってしまう。リュートが側になくとも、王の心が手に取るように聞こえる。
 言葉ではなく、音色として。そのほうがずっと鮮明で、アクィリフェルの心を突き刺した。
「早く」
 旅立ってしまいたい。そう思う反面、よもやないとは思いはするものの、もしも万が一アウデンティースと二人きりで探索に赴くようなことにでもなったら。
 それが、怖い。旅の苦難より遥かに怖い。あるいはそれはアウデンティースが昨日口にした言葉に呪縛されているせいかもしれない。
「まだ、僕を」
 ありえない。嘘だと自分の心が叫んでいる。それなのに、なぜ嘘だと叫ぶのがわからない。嘘は嘘で理由なんか何もない。叫び返しても自分の心は黙るだけ。
 溜息をつきつつ、無意味な会議に疲れたアクィリフェルは探花荘の自分の部屋でリュートを爪弾いていた。ほろほろと鳴るリュートの音は、聞く者の心を慰めるだろう。
 だがアクィリフェルには焼けるような焦燥を与えるだけ。この世界の痛みがアクィリフェルを苦しめる。その合間合間にアウデンティースの心が流れ込んでくる。
「やめたい」
 つい弱音を吐き、それでも指は止めなかった。この音色が、混沌を止めているのならば。禁断の山の狩人アクィリフェルには、止めるなどと言う選択はなかった。
 引き攣れるよう、アクィリフェルの指が弦を弾く。不意に襲い掛かってくるほどの強さで感じたアウデンティース。探索にアクィリフェルを同行させることを深く悩んでいる。
「馬鹿な。同行させるんじゃない。僕が、あの男を使うんだ」
 禁断の山の狩人の使命にも適うこと。むしろ、アクィリフェルが為さねばならぬことにアルハイド国王を使うだけ。
「置いていかれるのは迷惑千万」
 鼻を鳴らして爪弾くリュートの音色は乱れない。どこまでも澄んで美しい。アクィリフェルの心とは何のかかわりもなく。
 そのことを皮肉に思った瞬間、耳が別の音を聞きつける。はっとして顔を上げた。視線はまっすぐ、窓へと。
 アクィリフェルは唇を噛みしめ、リュートを寝台に置く。まさかとは思う。だが、耳は確かに音を聞く。震えた手を一度しっかり握りこみ、そしてアクィリフェルは窓を開いた。
「聞こえたか」
「……なにをなさっておいでですか。陛下」
「ご覧のとおり木登りだ。入れてくれ」
「ごめん被ります!」
「話はお前にあるのではない。いいから入れろ。それと、声を抑えてくれ」
 有無を言わさずアウデンティースが枝から窓へと飛び移ろうとする。さすがにそれを叩き落とすことはしかねた。
 赤い髪の色が目にも移ったかのよう、怒りをあらわにするアクィリフェルに向かい、王は泰然としたものだった。
「シンケルスに用がある」
「ではどうぞ玄関から」
「それができればやっている」
 わずかに苛立った声。アクィリフェルの耳はそれ以上の苛立ちを聞き取った。殊更ゆっくりと窓を閉めている王の後姿に疲労を見る。思わず目をそらしたくなるほどに。
「気がつかなかったか、アクィリフェル」
「なにをでしょうか。陛下」
 互いを呼ぶ名に皮肉が滴るようだった。アウデンティースは一瞬より短い間言葉を失ったようだった。だがすぐさま立ち直って言葉を継ぐ。
「会議の際、あれは何事かを言いかけた。あの場では言えなかった。なぜだ? 私に言えないことではない。言うべきだとわかっていてなお、言うに言えなかった」
「では?」
「だからそれを聞きにきた」
 さっさと呼びに行けとばかりの態度。それなのにアクィリフェルの心は別の音を聞く。こうして二人で話している喜びと、同じほど強い痛み。目はそらせても、耳は閉じることができなかった。
「それで僕にどうせよとのご下命でしょうか、陛下」
「シンケルスを呼んでくれ、と言っている」
「内密に、と言うわけですね。どのように?」
「リュートのことで聞きたいことがあるとでも言えばよかろう。お前にリュートを持たせたのは、シンケルスなのだろう?」
「そうですよ。ご存じなかったのですか」
「知っていたら……。念のために尋ねるが、このまま話していると昨日の繰り返しになる。かまわんか」
「大いにかまいます!」
 憤然と扉を開けて出て行ったアクィリフェルの後姿をアウデンティースは苦笑しつつ見ていた。あのまっすぐな青年が、シンケルス相手にどう嘘をつくのか興味がなくもない。
 けれどそれ以上に気にかかっていたもの。それはこの部屋だった。愛し合ったのは束の間だった。それでもアウデンティースには、これ以上ないほど幸福な時間だった。
「ティリアの言うとおりだな」
 確かに恋愛が下手だとなじられても致し方ない。それでも下手は下手なりに、懸命だった。まるで遠い夢の思い出のようだった。
 幸福な夢の中で見た部屋の有様を、再び彼は焼き付けるよう見回していく。少しずつ、違っていた、あのときとは。
「あいつも、ずいぶん荒れたんだな」
 乱れたままの寝台。脱ぎ散らかされたままの服。なにを投げつけたのか壁には何箇所も傷がついている。
 一つ一つを愛おしそうに見つめていたアウデンティースの目に飛び込んできたもの。唇に浮かんでいたかすかな笑みが凍りつく。
「アケル――」
 手を伸ばし、拾おうとしたところで思いとどまった。拾えば、気がつく。持っていったことにも、アクィリフェルは怒るだろう。
 身をかがめ、触れないようにしつつ、それでもアウデンティースはそれを撫でていた。その上に漂う空気すら愛おしいと言わんばかりに。
 壁に当たってひしゃげたか、それとも踏み潰したか。あのとき二人で買った髪飾り。見る影もなく歪んで埃に塗れていた。
 一つ大きく溜息をつき、アウデンティースは立ち上がる。
「捨てもせず、拾いもせず、か……」
 それがアクィリフェルの未練なのか、それとも怒りの大きさなのか、アウデンティースにはわからなかった。
「私にはわからない」
 閉めたままの窓にもたれ、見えない外を振り返る。
「ラウルスにならば、わかる」
 いまだアクィリフェルがラウルスへの思いを捨てきれずにいると。思った途端、アウデンティースの唇に苦笑が浮かぶ。
「言えば、怒られるな」
 否定して、体中で否定して、そしてアクィリフェルは本当にラウルスへの思いを捨てるだろう。
「捨てさせたほうがいいと、わかっちゃいるんだがな」
 呟きは王のものではなかった。一人の男になりたくてなれない、ラウルスだった。ゆっくりと、長い溜息だった。
 吐き終ったその隙をついたよう、扉が開く。思わず身構えたアウデンティースに向け、アクィリフェルが歪んだ笑みを浮かべた。
「ご命令どおりに。陛下」
 あれは嫌味だろうか、とアウデンティースは思う。問うても指摘してもアクィリフェルはそのとおりだと言うだろう。彼の心の奥に潜む本心をこそ、問いたいのだけれど。
「お呼びと伺いまして参上いたしました」
 アクィリフェルの態度をどう思ったのかシンケルスは何事もなかったかのよう進み出て軽く頭を下げた。その背後、アクィリフェルが慎重に扉を閉めていた。
「誰も気づいていないと思いますよ」
「それは重畳。よくやってくれた」
「別に褒められたいと思ってしたことではありませんから」
 そんなやり取りの間もシンケルスは実に忍耐強く待っていた。むしろ頬に血色を露にし、この機会をこそ待っていたと言わんばかり。
「呼びたてたのは他でもない」
 咳払いをして王が賢者に向かい合ったとき、アクィリフェルは扉の側の壁に背をつけ、短刀を抜いていた。さすがに咎めようと腰を浮かせたシンケルスを王はとどめた。
「護衛のつもりだ。気にしなくてよい」
「なんのことですか。勝手に人の部屋を密談に使われてるんです。疑われないよう自衛するのは単なる保身ですから」
「――と言うわけだ、シンケルス。アクィリフェルのことはかまうな。それより」
「は――。陛下にはご下問のことがあるかと存じます」
「だからこそこうして忍んできた。言ってくれるな」
 アクィリフェルは不愉快な思いを抱えたまま、彼らの会話を耳にしていた。どうにも通じ合っているような気がしてならない。省略された言葉がいったいどれほどあることか。
「会議の場には、お前の長がいた。スキエントの前では言いにくいことだったのだな?」
 アウデンティースの言葉にアクィリフェルは唇を噛む。まるで、わけがわからず苛立った自分のため、彼が説明してくれたようだった。間違っていないという確信が、アクィリフェルを苛立たせる。
「はい、陛下。長は……探索の場が決まらぬと、手をこまねいているよう、感じます」
「お前には、見当がつくと?」
 引き締まった声、正しく王の問いだった。毅然とうなずくシンケルスもまた、この王に相応しい賢者だった。自分ひとり、場違いだ。アクィリフェルは壁にもたれたまま短刀をもてあそぶ。




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