賢者に何のかんのと言い訳をし、アクィリフェルは一人王城内を歩いていた。まだ、探花荘には戻りたくない。戻るより先にすることがある。
「……なんだろう、それは」
 自分でもよくわからなかった。気持ちの問題かもしれない、ふとアクィリフェルは思う。けじめとでも言うべきもの。
 そう気づいたのは足が一つの道を選んでいることを知ったときだった。ふと苦笑がもれる。それでも足は止めなかった。
 小道を通り、木立を抜け。広がる柔らかな色彩。あの秘密の花園。
 ほう、とアクィリフェルは大きく長い息を吐いた。決別のつもりだった。何へのかはわからない。あるいはそれは自分に訪れた一瞬の幸福に対してだったのかもしれない。
 かつてここにアケルと呼ばれた青年と、ラウルスと名乗った男がいた。いまはどちらももういない。それを確かめたかったのかもしれない。
「……僕は、アクィリフェルだ」
 それ以外になれない。なれそうにない。なりたいと、とても思えない。ぎゅっと手を握り締める。その手の中にリュートがないのが不自然なほど、楽器が恋しかった。世界の音に呼ばれた、そんな気がする。
「弾きに、帰ろう」
 探花荘のあの部屋に、いまもリュートはある。自分を待っている。理由などわからない。予言だろうが関係ない。あのリュートが、その音色が混沌の侵略をとどめているのならば。
 足を返そうとするその寸前、アクィリフェルは不意に立ち止まる。微動だにせず、辺りを窺った。
「……さすがと言うべきかな」
 諦めたような声がした。一瞬アクィリフェルは安堵する。一人と油断してかつての名を呼ばなかったことを。
 厳しい顔をしたアクィリフェルの前、木に登って気配を殺していた男が舞い降りる。
「ずいぶん珍しい趣味をお持ちですね、陛下」
 国王ともあろう者が木に登るか。皮肉に言った言葉がアクィリフェル自身を撃つ。自らからすら目をそらし、アクィリフェルはひたと男を睨んだ。
「待ち伏せですか。お暇なことだ」
「生憎それほど暇ではない」
「では、なぜ」
「はじめて会ったとき、言わなかったか。ここには人が来ない。絶好の休憩場所だ」
 言葉の表でも裏でもお前を待っていたわけではない。アウデンティースはそう言う。信じたいはずなのに、アクィリフェルは信じられなかった。
「休憩ができるほどお暇でよろしいですね」
「不幸なことに、私も人間だ。一日中執務をしていては体が持たん」
 その言葉に、あるいは声に。アクィリフェルは血の気が引いた気がした。同時に、納得した。
 この男は、ラウルスではない。間違いなく国王アウデンティース。あの時の明るい笑い声をした戦士はもういなかった。
「アクィリフェル」
 男の声に彼は顔をそむける。考えたこともなかった。甘かった、と自分のどこかが思う。よもや二人きりで顔をあわせている今、その名で呼ばれるとは思わなかった。アケルと呼ばれたならば激昂する、自分でそれがわかっていながら動揺した。
「頼みがある」
 国王の言葉にアクィリフェルは訝しい視線で応えた。不遜で無礼極まりない。わかってはいる。咎められてもかまわない。王が咎めないことを知った上で、している自分を嫌悪した。
「……その前に、詫びねばならんな」
「なんのことでしょうか!」
「我々に関することではない。――関係はしているが」
 かすかな苦笑。どんどんラウルスが遠くなっていく。思い出すらも汚されていく。それをアクィリフェル自身が望む。こんな気持ちをなんと言うのか、アクィリフェルにはわからなかった。
「娘の非礼を許して欲しい」
「……王女様の?」
「私を思ってのことだと理解はしているが。父を思うゆえお前のことまで心が行き届かなかった。単なる行き違い、言葉が足らなかったとでも思っているのだろう、我々のことを」
「実際、足りませんでしたから」
 はじめから名乗ればよかった。暗に非難するアクィリフェルに王は苦く笑う。わずかに首を振って言えたはずがない、無言で語る。
「……陛下は、僕に何でもお命じになれたはず。あんな回りくどい手段を使って、汚いとは思わなかったんですか!」
「それだけは否定させてもらおうか」
「どれをですか!」
「思い出させようか。名乗らなかったのは、お前も同じだぞ」
「でも!」
「――知らなかったよ。お前が導き手だと知っていたら、はじめから名乗っただろう」
「どうですかね」
 信じてもらえるとは、王も思っていないのだろう。それには答えなかった。だからこそアクィリフェルは悟ってしまう。これは、真実だ。口の中に苦いものが湧き上がる。
「アケル――」
「僕はそんな名前じゃありません!」
「わかっている」
 一つうなずき、アウデンティースは目を閉じる。猛禽のように鋭い目が隠されただけでずいぶんと柔らかな印象になる。それすら欺瞞のようにアクィリフェルは感じた。
「……アケルと言う青年を、愛していたよ、心から。もし私がアウデンティースでなかったならば、つれて逃げただろうな。どこか遠く。どこでもいい。禁断の山に逃げ込んで、あいつに食わせてもらうのも、楽しかったかもしれないな」
 もしも。たとえば。夢だった。ありえなかった未来を語るアウデンティースは目を閉ざしたまま。瞼の裏に、何を描くのだろう。その目が開く。
「だが、私はアウデンティースだ。自分ひとりの夢を追うことなど、許されない」
 誰が許しても、自分が許さない。言葉の向こうの声がアクィリフェルにははっきりと聞こえた。硬く拳を握り締め、黙って彼の声を聞く。
「こうなった以上、お前が私を拒むのは致し方ない」
「その程度ですしね、僕のことは」
「皮肉か?」
「事実です」
「アクィリフェル。もしもこれが平時ならば、私はお前の心が解けるのを待っただろう。あらゆる手段を尽くしただろう」
「そんな日は来ません!」
「あるいはな。ただ、いまは時間がない。ラウルスがアケルに許しを請う余裕はない」
 先ほど聞いた話を思い出す。再びはじまった混沌の侵略。ラウルスならば知らないかもしれない。だがここにいるのはこの国の王。自分が知っている以上のことを知る男。ひしひしと不安が押し寄せる。
「……不用意だった。私が何かをすることで、通常以上の幸福を得る人間もいれば、不幸になる者もいる。それを――忘れたわけではなかったのだがな」
 溜息のような言葉。アクィリフェルには、彼の本音に聞こえた。出会わなかったほうがよかった。そんな声にも聞こえた。アクィリフェル自身、そう思う。思う側から、否定したくなる。自分で自分がわからなかった。
「不用意にお前を巻き込んだ……違うな。なんと言ったものだろうな。私は私なりに真剣だった。今も」
「そんな言葉は聞きたくありません」
「……わかった。言わない。事実として不用意だったことだけ、伝えておこう」
 何もかもをも拒否するアクィリフェルはただ一人、そこにある。不意に全てから拒絶された気がした。自分が拒んでいるのではなく。
「お前が望むなら、二度と愛は語るまい」
「望みます。強く!」
「……心に刻んでおこう。だからアクィリフェル」
 すう、と王が息を吸う。そんな音まで耳につく。花園自体が緊張している。否、アクィリフェルは気づく。これは世界の緊張だ。この一瞬。ここに何かがかかっている。リュートが手元にないにもかかわらず、アクィリフェルははっきりとそれを感じる。
「禁断の山の狩人、アクィリフェル。混沌の侵略をとどめるための探索に同道せよ」
 アウデンティースの心の内に満ちた苦さをアクィリフェルはあたかも自らのことのよう、鮮明に感じた。息が詰まるほどの苦痛。体を傷つけられたほうがずっと楽なほどの、心の痛み。
「――王命だ。従ってもらおう」
 今はっきりと音がした。目の前の男ではなく、ラウルスの心がひび割れ、砕け散った音が、アクィリフェルには耳許で轟音のよう、聞こえた。
「御意のままに」
 仰々しく片膝をつき、頭を下げ。アクィリフェルは音から耳をそらす。そらしたくとも、聞こえ続ける音。自分がラウルスの心を砕き続けている。悟れないほど愚かであれればよかった。
「――ひとつだけ、聞かせていただけますか」
 足を崩してアクィリフェルは咲き乱れる花の中に座った。そうすることで彼がほっとする。そう思ったのかもしれない。単にこの悲鳴のような音を止めたかっただけかもしれない。
「なんだ?」
 鈍い音は続いた。それでもわずかに音は遠のく。アクィリフェルと同じよう、それでも以前のように近くはなく、並んで座りもせず、王は腰を下ろす。
「なぜ、偽名を」
 質問などなんでもよかった。問うてしまってから、何を問いたいのかアクィリフェルにはわからなくなっていたのだから。動揺を知られるよりはこだわっていると思われたほうがずっといい。
「偽名ではない。私の名の一つに違いはない。呼ぶ人がいないだけだ」
「妃殿下はそうお呼びになったのですか」
 言ってしまってからアクィリフェルは顔から火を吹くかと思った。そんなことを問うつもりなど微塵もなかった。これでは、まるで。
「いいや、妻はそうは呼ばなかったな」
「なぜですか。愛していらっしゃらなかった?」
 問えば問うほど、自分が愚かになっていく気がする。それでも唇からあふれてしまった問いは戻らない。アウデンティースがはじめて皮肉に笑った。
「私が妻を愛しく思っていなかったと言ったら満足か? 妻は私に愛情を持っていなかったと言ったら気が済むか?」
「そんなことは……」
「王の結婚なんぞ、政略以外の何物でもないがな。それでも愛し合っていたよ、我々は。だからこそ三人の子を産ませた。妻も産んでくれた。言い方は悪いが、女には不自由しない地位だ。惚れてもいない女に何人も子を産ませるほど酔狂でもない」
「だったら」
「逝ってしまった妻と自分を比べるのか?」
 アウデンティースの言葉にアクィリフェルは憤然と立ち上がる。上から睨み据え、言葉を叩きつける。
「また僕を口説くつもりですか! その手には乗りません。だいたい約束が違います!」
「話題を持ち出したのはお前だ。が、まぁいい。明日、探花荘に使者を出す。従ってもらおう」
 話は済んだとばかり立ち上がり、アウデンティースは後ろも見ずに歩き去る。一人残されたアクィリフェルの耳に再び大きくひび割れた音が聞こえていた。




モドル   ススム   トップへ