腹が立った。腹が立った。腹が立って仕方なかった。あまりにも腹が立ちすぎて、いっそあの父娘のやり方に感嘆すらしそうになる。
「許さない――!」
 立腹のあまり、いったいどこをどう通ったのか覚えていなかった。通報されても捕らえられてもいないのだからきっと他人には普通に見えているのだろう。
 アクィリフェルは辺りを見回し、舌打ちをする。いつか彼と一緒にきたあの街だった。思い出を頭の中から消し去りたくて足早に歩く。
「いっそ……」
 このまま姿をくらませようか、とも思う。その考えにわずかに歩調を緩めた。
「悪くないな」
 呟いてしまってから人目が気になる。いままでもきっと独り言を言っていたことだろう。少しばかり赤面し、ようやく正常に近い思考が返ってくる。
 今この場から立ち去る。王家も何も知ったことか。そんな気になった。確かに自分は王家の臣下ではある。
 だが、形の上のことだ。このアルハイド大陸に住む人間のすべてが王家の臣であるからまた自分もそうである、それだけのこと。
 何も貴族や騎士たちのよう、忠誠を誓っているわけでもない。その上あの男。アウデンティース王。彼には遺恨がある。
「誰が、忠誠なんか誓うものか」
 また呟いてしまってばつが悪くなる。それもこれもあの男のせいだと思いたくなる。ここまでくると空が青いのも風が吹くのも王のせいにしたくなる。
 そんな自分を小さく笑い、アクィリフェルは清々しい気分になった。ここから立ち去ってしまえばいい。神託だか予言だか知らないけれど、そんなものは自分に関係はない。
 予言に曰く。赤き鷲の導き手。そんなものが自分のはずはない。どう考えても、あの男をどこかに、勝利や平和に自分が導くとは思えない。その役目は他の誰かのものだ。アクィリフェルは確信していた。
「隠れるか……」
 禁断の山の狩人たる自分。いっそ禁断の山に戻る手もあるけれど、だがもし仲間に見つかったら王家に差し出されかねない。
 ――信じたいけれど、務めでもあるし。
 内心で呟いてアクィリフェルは考えを巡らせる。それならば遠くに。アルハイド大陸を統べる王家とはいえ、大陸は広い。
 峻険な山こそないけれど、草原もあれば荒野もある。町に逃げ込んでもかまわない。一箇所に留まるのではなく、転々とすれば更に見つかりにくい。
 ――それでいくか。
 心が決まって、更に晴れ晴れとした。足取りも軽くアクィリフェルは酒場を探す。新しい生活への第一歩を祝福するために。あんな男のことを忘れてしまうために。
 思った途端、唇を噛んでしまった。噛んだことに気づいて忌々しくなった。早く遠くに行こう。王都から出て、遠くに。この街は、あまりにもあの男の気配が強すぎる。そんな気がした。
「いらっしゃい」
 くぐった酒場の扉は、妙に薄汚れていた。この辺りはそれほど荒んだ地域ではない、そうあの男は言っていたはず。また、思い出してしまって苛立つ。
「葡萄酒と、何か食べ物を」
「葡萄酒はないよ」
「ない?」
 酒場の主人に訝しげな目を向けた。ないわけはない。ぼろうと言うのか。そんなアクィリフェルの考えが視線に表れていたのだろう。主人は力なく首を振る。
「本当にないんだ」
「どうしてだ?」
「あんた……この街の人間じゃないね?」
「そりゃ、まぁ……ね」
 鋭い視線に一瞬アクィリフェルは怯んだ。そして怯んだことを後悔する。主人は気にした風もなく、断らずにアクィリフェルの前に腰掛けた。
「とりあえず、エール酒とパンだ」
 これだけか、とはさすがに言いにくいアクィリフェルだった。うなずいてパンをちぎる。粉がよくないのだろう、口に運べばもそもそとした。
「な、まずいだろ?」
 ここでうなずいてはならないことくらい、アクィリフェルにもわかっている。曖昧な態度で視線を宙に飛ばせば酒場の主人は豪快に笑った。
「本当なら旅人に話をせがむのは街の人間のほうなんだがな? まぁ、いいさ。話してやるよ」
 そう言って主人は快活に話し出す。これが本来の主人の性格なのだろうが、だが話の内容のほうはとても明るいものではなかった。
「あんた、神託って知ってるか? 海を飲み込んでるあの奇妙なやつは混沌とかって言うらしいがな」
「その混沌とやらが何かを聞きたいよ」
「そりゃ、俺が聞きたいね。それで、だ。まぁ、俺たちはさほど心配してなかったんだな。なにせ王様がおいでだ。きっとなんとかしてくださるに違いないってな」
 アクィリフェルの顔が一瞬歪む。が、主人はそれには気づかなかったようだった。独り決めしてうなずいて話を続ける。
「第一、ここんところずっと止まってたんだぜ?」
「なにが?」
「だから、その混沌の侵略とやらがだよ」
「へぇ……はじめて聞いた」
「まぁ、俺も海のほうからきた連中からの又聞きだがな。いつって言ってたかな? なんか知らんが急に止まったらしいぜ」
 主人はそれからぶつぶつと呟いて何事かを思い出すかのよう、指を折った。それから無造作にアクィリフェルのエールを注いで飲み干す。
「おぉ。そうだ。三月ぐらい前だな。うん」
「それ、僕の酒のはずなんだけど?」
「気にするな。若いの」
 しないわけがないだろう、とアクィリフェルはエールの入った壷を奪い返し自分のジョッキに注ぐ。どことなく三月、と言う時間が気になった。
「じゃあ、またはじまったんだ?」
「侵略がか? そのとおり。このまま止まるもんだと思ってただけに、海辺の連中はがっくりきてるらしいな。また街道がそっち通ってるもんだからよ、葡萄酒は入ってこない、物価は高くなるで参っちまうよ」
 嘆く主人に尋ねたのは、たぶん気まぐれだ。意図した質問ではなかった。ただあとになって、それは運命だったのかもしれないとアクィリフェルは思った。
「またはじまったのって、いつからなの?」
 盛大にぼやく主人は問いの意味すら考えず、投げやりに答えた。
「十日ぐらい前だって言うね」
 一瞬にして血の気が引いた。引いてしまってから、理由がわからない。アクィリフェルは礼もそこそこに勘定を済ませ店を出る。主人が呆気に取られていたのにも気づかなかった。
「十日……」
 その日数。何かが引っかかっていた。それから三月前。その時間にも、何かがある。心当たりがあるはずなのに、その何かがわからない。
 ふっと手が伸びた。まったく意識しての動作ではなく、アクィリフェル自身が驚く。
「あ――」
 それに、全てがつながった。ぎゅっと手を握りこんで視線を天へと向ける。立ち止まってしまったアクィリフェルを通行人が邪魔そうに避けていった。
「いま、僕は。リュートを弾こうとした」
 無意識にしたその動作。リュートの弦を弾く仕種。思えば弾いていなかった、あれから。
「あれから、十日」
 ラウルスが、アウデンティース王だと知ったあの日から。アクィリフェルのリュートは今も探花荘の寝台の側にある。
「それなら……」
 思い返す。思い出したくないことだというのを今は忘れていた。ラウルスに会ったのは、いつだったか。指折り数える。
「違う」
 数えた指をすっきり伸ばす。鍵は、リュート。あれを弾くことができるようになったのは、いつだ。はじめてラウルスに聞かせたのは、いつだ。
「……三ヶ月前だ」
 答えに、呆然とした。どこかではじめから知っていた答えだった。それでいてすら、呆然とした。
「……僕が?」
 混沌を押し留めていたと言うのか。まさかと否定する気持ちとそのとおりだと納得する気持ち。板ばさみになってアクィリフェルは動けなかった。
「違う。リュートが」
 己で己に反論し、無駄を知る。誰の手にあっても鳴ることのなかったリュート。アクィリフェルの手でだけ、鳴り響いた楽器。予言は言う。リュートを携えた者が王を導くと。
「馬鹿な……」
 否定したばかりだった。自分は間違っても導き手ではない。つい先ほど納得したばかりだった。逃げ出そうと決めたばかりだった。
 アクィリフェルは辺りを見回していた。あのときと何かが違っていた。再びはじまった混沌の侵略。人々の表情に不安が張り付いている。
 ――僕の任じゃない。王の仕事だ。
 心に言えば言うほど、胸が苦しくなった。足はいつの間にか動き出す。あのリュートが混沌を止めることができるなら。
「あのリュートにしかできないなら」
 それはまた、自分にしかできないと言うことに他ならない。アクィリフェルは唇を噛み、足を進める。意識していなかった、どこに向かっているかなど。
 心に思う。王を助けるのではない。忠誠など、まして。見てしまっていた、アクィリフェルの目は。人々の顔を。
 禁断の山の守り手にして狩人たるアクィリフェル。なにを守っているのか、人は知らない。アクィリフェルは、知っている。知っているからこそ、見過ごせなくなった。
「……だめだ」
 逃げられない。予言も何も関係ないなど、もう二度と言えない。これはすでに自分の問題だった。
「やっぱり僕は狩人なんだな」
 遠く呟いた。逃げようと思ったときよりよほどすっきりと心は決まった。
「あの男に協力するのだけが、気に食わない」
 嘯いてアクィリフェルは足早に進んでいく。そして心の中で小さく笑った。自分が協力するのではない。自分の任務に協力させるのだ。
「そう思えば多少は気が晴れるか」
 言ってみても気分はよくならなかった。目の前で城門を守る衛兵が険しい顔をしている。独り言をぶつぶつと呟いているアクィリフェルは、間違いなく立派な不審者なのだから。
 なんとか門を抜けたとき、更に機嫌は悪くなっていた。自分の言葉が信用されなかったのは、致し方ない。が、探花荘に走った衛兵が賢者を連れてきて言葉通りの人間かどうか確かめさせるに至って、アクィリフェルは腹を立てた。
 ただ、先ほどの怒りとは違った。だから顔にも出さなかった。衛兵は感じているに違いない。街の不穏さを。この世界を襲う混沌を。今はアクィリフェルも肌身で感じていた。




モドル   ススム   トップへ