あの男はなんと言う名だったか。立ち尽くす二人を訝しく思いつつアクィリフェルは思い出す。確か、メレザンドと呼ばれていたと。貴族のくせに給仕をしていたおかしな男。
 その彼がいま、血の気を失くしてティリアを見つめている。それから作ったような笑みを浮かべ、頭を下げて背を向ける。向けようとした。そのときだった。ティリアを縛っていた何者かの呪縛が解け、咄嗟に彼女は男の袖を掴む。
「待って、メレザンド」
「お放しください、姫様!」
 彼女の手を振りほどき、そうしてしまってから無礼に気づいたよう、男は唇を噛んで頭を下げた。
「……ご無礼を」
 そのような言葉、ティリアは聞いてもいなかった。いったいメレザンドがなにを誤解したのか。ちらりとアクィリフェルを振り返る。
 この赤い髪をした狩人とのことを誤解したのは、わかっている。ただ、自分たちの間にあったものはその程度のことで揺らいでしまうようなのだったのか。それが、信じられない。
「メレザンド……」
「お許しを。姫様。私にも、誇りがございます」
「なにを言っているの」
「……姫様が、その者をお心に住まわせるなら――」
「待ってちょうだい。わたくしが、この人をですって?」
 まるで悲鳴だった。ずいぶんと酷いことを言われたような気がするのだが、アクィリフェルは呆気にとられて不快に思うどころではない。
 メレザンドに視線を合わせれば、憎しみを表情に表さないよう苦労しているだろう男の顔。急に馬鹿馬鹿しくなった。
「僕が王女様の心を捉えたかとのお尋ねならば、完全に否定するよりありませんね。僕自身の心について言うなら微塵も興味はありません」
 こちらもずいぶんな言い様だとは思ったが、どうやら先ほどちらりと感じた姫の心にいる男とはこの人物らしいと気づいた途端、言いようもないほど気が抜ける。
 単純な痴話喧嘩に巻き込まれただけらしい。もっとも、ティリアの言い分では彼はいまだ彼女の恋人とは言い得ない男なのだろう。それでも姫がメレザンドを愛しているのは、少なくともアクィリフェルの目には確かだった。
「そうよ、違うわ」
 後押しするようティリアがうなずく。その拍子に抱えている花束が大きく揺れた。
「ですが――」
「この花? 重たいから持っていてもらっただけだわ。もしかしてわたくしに捧げられたものだとでも思ったの?」
 形は問いだった。答えは無言だった。ただなによりも雄弁な無言だった。立ち去ることもしかねていたアクィリフェルは小さく溜息をつく。
「姫様」
「なにかしら」
「先ほど、姫様はその者を……」
 言い出したものの、メレザンドは言葉を止めた。それだけでティリアには通じる。にっこり笑ってメレザンドを見つめる。
「愛しているかと尋ねたこと?」
「そう、聞こえました」
 ここから先はもう見えているのだから自分は立ち去ってもいいのではないか。アクィリフェルは思ったものの、声もかけかねた。
 ただ少しだけ、羨ましい、とは思った。誤解がこんなにも簡単に解けるのならば。怒りがあっさりとほどけるならば。
 自分の心の内を思う。怒りは強く限りなく燻っていた。ラウルスへの怒り。自分自身への怒り。いっそこの世界そのものまで憎しみたくなるほど。
 いったいなにが自分をこうまでさせているのだろう。誰に問えばどんな答えが返ってくるのか。たとえ賢者にでも答えられない問いだとアクィリフェルはどこかで気づいている。
「……答えは、僕の心に」
 その答えがどんなものなのか。探したくもあり、なくもある。今はまだ、少なくとも今はまだ、見たくなかった。
「アクィリフェル」
 呼ばれてはっとした。慌てて姫を見れば物思いに沈んでいたことにさえ、気づかれている気がして仄かに頬が熱くなる。
「わたくしが愛しているのは、あなたではないわね」
「今更言うことですか?」
 不遜な言葉だとはわかってはいるが、今の自分に愛だの恋だのよくぞ言ってくれる、と腹立たしくなってきた。
「あなたが愛しく思っているのも、わたくしではないわね」
「王女様。ご無礼を申し上げますが――」
「あら、何かしら?」
 にっこり笑った笑顔の向こうに彼女の父を見た。腹立ちが、収まらない。あの笑顔に自分は騙された。そう思ってしまう気持を止められない。
「――しつこいです」
 言い放てばメレザンドが咄嗟に前に出た。姫を守ろうとする気概は見事だが、貴族ごとき片手であしらってお釣がくる。禁断の山の狩人アクィリフェルはそう思う。
「よして、メレザンド。いいえ……その……パセル」
「姫様! 私の名を、ご存知だとは」
「ご存知じゃないとなぜ思ったのか理由を聞かせていただきたいものね。とにかくね、聞いてくださる、パセル? 彼の心にあるのは――」
「生憎ですが、王女様」
 どうやら痴話喧嘩は終わったらしい。他人の自分に多大な不愉快さを与えておいて、まとまるものがまとまったと感じるのは、非常に不快だった。
「あなた様がお考えは空想、いえ、妄想の類と申し上げて差し支えなく。僕があなた様の父王を愛しているかですって? ありえません。国王陛下に愛を捧げるくらいなら、僕は――」
 何を言おうとしたのか、言いたかったのか。吐き出す言葉は途切れ、アクィリフェルは鋭く息を吸う。
 王宮に相応しい建物。開け放ったままの窓。風に揺れる垂れ布。そしてあの父の、娘。一瞬に騙されたと脳裏を焼く思い。
「いい加減にしてくれるかね、子供たち」
 垂れ布を引き開け、疲れた顔を現したのは話題のアウデンティース王その人。わずかに口許を引き締めたのをティリアは見た。唇を噛みそうになり、そして耐えた顔だと。
「喧嘩が済んだのなら私に静かな環境で仕事をさせて欲しいものだ」
 ちらりと、見るともなしにアクィリフェルに視線を投げ、王はうなずく。宮廷作法など知らないアクィリフェルにであっても、簡単に意味が汲み取れた。
 侮蔑の目つきもあらわにアクィリフェルは頭を下げ背を向ける。それこそが最も強い侮辱になるとばかり。音など、何も聞こえなかった。
「お父様――」
「お前がなにを意図したのかはわかっているがね、ティリア。私のことは放っておいてくれるかな」
「そうは――」
「参らなくて参らせてみせるぞ」
「でも!」
「よく考えてご覧。お前が今したことはどう考えても逆効果だぞ」
 言葉に詰まりうなだれるティリアに王は優しげな目を向けた。本当は、その表情を作るの苦労したほど、打ちのめされていた。
 アクィリフェルが自分を見たあの顔。憎悪と、侮蔑と、決して解けない怒り。それを招いたのが自分だとわかってもいた。
「ティリア」
「はい……」
「あの者のことは、私が自分で解決する問題だよ」
 胸に染み入るほど優しい声だった。だからこそティリアは自分に対する父の怒りも感じた。よけいなことをしてくれた、そう思っているに違いない。
「お前の優しい気持ちは受け取った。ありがたいと思っているよ」
 ティリアの内心の思いを否定するよう、力強く王は言う。だがその心の中、彼は娘の勘のよさに舌を巻いてもいる。
「一つだけ、お尋ねしてもいい?」
 まるで子供の口調だった。意図したわけではなく、父の怒りを和らげたいあまりに自然とそうなっていた。
 そしてティリアははっとする。背中にかすかに触れるもの。わずかな温もりに心が強くなる。まっすぐ父を見たまま、視界の端に男を入れる。神妙な顔をしたままのメレザンドがいた。
「お父様は――」
「聞くな、ティリア」
「でも! どうしてですの。わたくしの目は間違っているの。お父様はあの狩人を愛しく思ってらっしゃる。違うかしら」
「いいや。まぁ、違わないな」
 苦笑する父の目に閃いた怒りの欠片をティリアは真正面から受け止めた。これを言えば、その雷に撃たれることになるかもしれない。そう思いつつ。
「あの狩人もお父様を――」
「黙れ、ティリア・ロサ・ルーナ・アルハイド」
 空気が、鳴ったかとメレザンドは感じた。思わず下がりそうになる足を叱咤し、姫の横に立ち続ける。そんなメレザンドなど見えてもいないよう、父娘は睨みあっていた。
「黙りません。どうして、お父様。事実は事実でしょう!」
「事実がすべて善なるものだなど、誰がお前に教えた? 言うべき言葉、言って良い場所、時間。そんなものもわきまえないほど愚かな娘だったか、お前は」
「いまがその時だと確信しておりますわ」
 敢然と父に向かって立つ娘ではなかった。あたかもそれは王に諫言する臣下の姿。間違ったことは何一つ言っていないと自らを誇るティリアの背はまっすぐに伸びていた。
「誤解を、解いておこうか、ティリア」
 疲れたよう、アウデンティースが長い溜息をついたのは、睨みあいにティリアが先に目をそらしてからだった。
「アクィリフェルの心に私はいない」
 そんなわけはない、再び大きく声を上げかけた娘を片手で制し彼は遠くを見る。去っていってもう見えないアクィリフェルの背を。
「あの者の心を捉えたのは、アウデンティース王ではなく、ラウルスと言う戦士だった」
「どこが違うのか、わたくしには区別がつきませんけれど」
「お前はそうさ。両方とも私の名だと言うことを知っている。が――」
「アクィリフェルは知らなかった、と?」
「私もその名で彼を呼んだことはない」
「……言ってよろしいかしら、お父様」
 だめだと言ってもティリアは言うつもりだった。今度、溜息をつくのは彼女の番。ゆっくりとどうしようもない若者にでも言い聞かせる気分で言葉を続ける。
「お父様も、あの狩人も、恋愛が下手すぎます」
 娘ではなく乳母のような言いぶりに、小さく王は笑った。ちらりとメレザンドを見やり、こんな娘だがよろしく頼むと目で語る。そこに先ほどまでの怒りは微塵もなかった。




モドル   ススム   トップへ