毎晩だった。夜更けに、あるいは明け方近くに。毎晩必ず窓の外に気配があった。最初の晩のよう、小石を投げるでも、まして呼びかけるわけでもない。 それでもアクィリフェルにはわかった。いやでも感じてしまった。そこにあの男がいる。ラウルスが、とは思わなかった。思いたくなかった。あの樹の上に王がいる。ただ、そう思った。 「誰が……」 寝台にもぐりこんだまま小さく呟く。誰が窓を開けるものか。決して言葉など交わすものか。 何度も何度も自らに言い聞かせるよう呟いているのに、アクィリフェル自身気づかない。噛みしめた敷布がきりきりと音を立てた。 朝になり、気配がなくなってはじめてアクィリフェルは穏やかではない眠りに落ちる。いやな夢ばかりを見た。ラウルスと過ごした束の間の夢であったり、何かわからないものに侵され軋んで悲鳴を上げる夢であったりした。 あるいはそれは、この世界の夢であったのかもしれない。アクィリフェルは思う。確信はなかった。そんな気がしただけだ。 確かめるのがいやでリュートにはあれ以来触れていない。怖いのかもしれなかった。 「あれは――」 あの晩。自分の意思に反し体を突き動かしたもの。世界の歌の調べのせいだとアクィリフェルは今でも思っている。思いながらどこかで違うとも思っている。それでも自分の心に潜む何かがさせたのだとは、決して思いたくなかった。それだけは。 探花荘の人々とも、顔をあわせていなかった。賢者のシンケルスは心配してくれているのだろう。時折扉の外で何かを言っていく。いなくなったのを見計らって扉を開けば、いつも食べるものが置いてあった。 「食べ、もの」 ぎゅっと胸を鷲掴みにされたような気がした。あの男のしていたことと、重なって見えて、たまらない。 アクィリフェルは強く首を振り、貪るように食べて飲んだ。そうすれば忘れることができるとでも言うように。 何日そうして過ごしただろうか。禁断の山の狩人として鍛え上げられたアクィリフェルはこのような怠惰な日々を送ったことなどかつて一度としてない。 日も高くなってから、窓を開けた。入り込んできた風の、そのあまりの甘さに酷く驚く。胸いっぱいに吸い込んで、唇の端を吊り上げる。笑ったつもりだった。 心を決めて部屋を出た。誰かと顔をあわせれば気まずくて仕方ないだろう、と胸がざわめいていたけれど、幸いひっそりと人気がない。 「……よかった」 悪いことをしているわけではないはずなのに、アクィリフェルは呟いて胸を押さえる。それから人目につかないうちに歩き出す。 どこへと決めてはいなかった。ただ足の向くまま、どこへともなく。一つだけ決めていることがあるとするならば、あの花園には行かない、それだけ。 「アクィリフェル?」 呼びかけられたのは、悩ましいほど様々な花が咲き乱れる庭園だった。妙に女性的で、美しいとは思うのだがどことなく居心地が悪い。他に足を向けようとしていた、そのときだった。 「……王女様」 振り返れば、ティリアが立っていた。腕に摘んだばかりの花束を抱えている。そこから立ち上る香りが、ティリアを包み、そしてアクィリフェルにも届く。 「ご機嫌はよくなって?」 からかうような声音に顔を顰めかけ、相手の身分を思い出す。わずかに視線を伏せることで不快の表情を耐えた。 「少し付き合っていただくわ。これ、持ってくださる?」 強引にも感じられる言葉に、彼女の父を思う。拳を強く握り、開く。 「お持ちいたします」 受け取った花束から漂う香りは先程より鮮やかさを増し、けれどきつい匂いではなかった。 付き合えと言ったくせに、ティリアは何を話すでもなく歩いていく。単に荷物持ちをせよとの仰せだったか、アクィリフェルが内心で苦笑しかけたとき、前を歩いていたティリアが振り返って笑った。 「あなたが愛しい方だったのね」 声にこそ、楽しむような響きは残っていた。が、その目。まるで彼女の父のよう鋭く真摯な目。深く艶やかな栗色の髪の甘さとは裏腹な。 「――僕は陛下の恋人でも寵童でもありません」 寵童と言うにはいささか年かさに過ぎる、小さく付け足してアクィリフェルはまっすぐにティリアを見た。しかし彼女はなぜかほっと笑みを浮かべる。 「でも、わたくしがお父様のことをさしているとすぐわかったわ」 「それは……話の流れとして……」 「そうかしら?」 「間違いなく」 きっぱりと言い切るアクィリフェルにティリアはわずかばかり厳しい目をし、そして顎を上げて見せる。佇むティリアの背後で、王宮にあるに相応しい華麗な建物の開かれた窓に掛かる垂れ布が風に揺れていた。 「お父様もお父様だけれど、あなたもずいぶん強情ね」 「お言葉の意味がはかりかねます」 突き放し、いっそ立ち去ってやろうと思ったものの、腕の中の花をティリアは受け取る気配もない。そのために持たせたか、と思えば悔やんでも遅かった。 「お父様はずっと悩んでらしたわ」 もうそれならば言いたいことを好きなだけ言わせればいい。自分は聞くのではない。ここにいるだけだ。アクィリフェルはそう心に念じて黙っていた。 「あなたを愛しく思っていたのよ、たぶん、ずいぶん前から」 念じているのに咄嗟にそんなわけはないと言い返しそうになってアクィリフェルは唇を噛む。それでもティリアには通じてしまったのだろう。にこりと笑った。 「あなたも知っているでしょうけれど、わたくしたち王家の者は他の人々より遥かに長命です。そうね……例えばあなたが老いて死ぬときも、お父様は今とさして変わらぬ姿でお元気でいらっしゃるくらい」 言いたいことを聞きたくなくて、アクィリフェルは風が揺らす垂れ布の淡く透ける様だとか、花から漂う香りだとかに集中する。難しかった。 「王家に生まれた者は、いつも他の人々を送らなければならないわ。去っていくほうも悲しいでしょうけれど、残されるわたくしたちは、たまらない。まして、愛しく思ったなら」 「……陛下は、違います」 「なにがかしら?」 「陛下は、僕が予言された何かだから、欲しかっただけです。僕を愛してなど、いない――です」 激昂しそうになったのを危うくとどめ、アクィリフェルは語尾を言い換えた。ティリアはそれすらわかっている、と言いたげに穏やかに笑ってうなずく。 「それこそ、違うわ。わたくしは見ていたもの」 「なにを、ですか」 「お父様が悩んでいらしたのを。あなたが何者か知っていらしたのかどうか、わたくしにはわからない。ただ、そんなことよりただ、あなたを手に入れたかった」 「馬鹿な……。いえ、ご無礼を」 「許します、一度は」 にっこり笑った表情に、彼女の父を見た。わけもなく胸が痛んで、アクィリフェルは目をそらす。 「お父様がご存知だったにしろ、そうでなかったにしろ、悩んでいらしたのよ」 「なにをでしょうか」 「あなた、禁断の山の狩人なのでしょう?」 今更何を言うかと思いつつ、アクィリフェルはうなずく。応えてティリアもうなずいた。 「だからよ。お父様があなたにどう名乗ったか、わたくしは知らない。あの様子では、国王とは名乗っていなかったようだけれど?」 答えるのもいやで、アクィリフェルはうなずくだけで済ませた。それにティリアはわずかに無礼を咎めるよう顔を顰めて見せ、ついで笑みを浮かべる。冗談だとでも言うように。 「名乗れなかったのだと、思うわ」 「なぜです」 「だって、名乗ってしまったら、そしてあなたが受け入れてしまったらどうなると思うの。あなたは国王の恋人だわ」 その言葉の意味がしみこむのを待つよう、ティリアは言葉を止めた。アクィリフェルは意味を汲む気などなく、ただそこにいた。かすかに溜息をつき、ティリアは口を開く。 「あなたは、選べたの」 「え――?」 「狩人である自分と、お父様を秤にかけて、どちらか選べたの」 「それは――」 考えてもみなかった。今更どうでもいいことではあった。アクィリフェルが自身気づかず拳を握ったのをティリアは見ていた。 「お父様は、選ばせられないと思っていたでしょうね」 「そう言うものでしょうか」 「えぇ。お父様がご自身、王の務めから逃れられないように。たとえ逃げてもいいと言われても、決してそうはなさらないように」 投げやりなアクィリフェルの言葉に返ってきたのは思いもよらない真剣なティリアの声だった。返す言葉を失って、アクィリフェルはうつむく。 「ご自分が国王だと名乗れば、あなたに狩人であることを捨てさせることになる。そう思ったとしても不思議ではないわ。まして、あなたがお父様を選んだとき、なにが待っているのかもうわかっているでしょう」 「……僕が、先に、死ぬ」 「そう。恋人より先に老い、恋人を残して去っていく。去っていかざるを得ない」 はじめて気づいた。ティリアは父の話と言いながらも、その身の内に苦悩を抱えてでもいるようだった。 「王女様は――」 「わたくしのことは内緒です」 「……ご無礼を」 笑ったティリアだから、アクィリフェルは察した。ティリアにも、恋する人がいるのだと。そしてその相手は自分のように短命な普通の人なのだと。 「……どんな理屈を言っても、わかるでしょう? 悩んで、あなたを苦しめるだけだとわかっていても、お父様はあなたが欲しかった。それは予言の導き手だからなどと言うようなものではなかったはずよ。そんなもので悩む方ではないもの」 言われるまでもないことだと、アクィリフェルはどこかで知っていた。自分で認めたくないだけだったのかもしれない。 ラウルスは、否、アウデンティース王は、国王だった。王命一つで、いかなることでもでき得る。予言された導き手だというならば、王命によって召す、ただそれだけを言えばいい男だった。 「愛しく思っているから」 微笑んでティリアは首をかしげる。アクィリフェルの腕にある花束を、やっと受け取った。 「あなたも、愛しているのでしょう?」 不意に物音がして、ティリアが振り返ったそこに、あのときの小謁見室にいた男が青ざめて立っていた。 |