一人、足音高く探花荘に戻ってきたアクィリフェルを、離宮の下働きや警護兵が驚き、物言いたげな目で見ていたことなど彼は少しも気づかなかった。
 アクィリフェルの目にそのとき映っていたのは、あの王の姿ただ一つ。瞼の裏が赤く染まるほど強い怒りと共にラウルスと名乗った戦士の姿が王へと変わっていく。
「――嘘つき!」
 部屋の扉を叩きつけるよう閉め、アクィリフェルは声を絞り出す。滴るような苦さに、舌が焼ける気がした。
「僕を……僕を……」
 握り締めた拳から、血が滲みそうなほどだった。いっそ掌を破り、怒りのように赤い血が流れれば少しは楽になる。そんな気がした。
「いいように扱って!」
 怒鳴り様、破れる気配もない掌を開き、枕を取り上げて壁に向かって投げつけた。気の抜けるような軽い音がして、アクィリフェルの感情は更に煽られる。
「はじめから言えばよかったんだ! 僕は仮にも王家の臣下。――そうだよ、僕だって、国王の臣下の一人に違いはないのに!」
 なぜ、言わなかった。言いたくないとか、言えないとか、そういう問題ではないとアクィリフェルは嵐のように荒れ狂う。
「それなのに……あんな手段……汚い……!」
 何より自分が許せない。あっさりラウルスなどと名乗った男を信じたこと。その手管にはまったこと。肌身さえ許して、あまつさえ愛情を抱いてしまったこと。
「許せない!」
 アクィリフェルの手が言葉の強さとは裏腹にゆらりとあがる。髪に手をやり、はじめて自分が何をしようとしているのか知ったアクィリフェルは静かに笑った。
 苦さも、怒りもない笑いだった。静謐さすら感じる笑みを見るものがいたならば、その場で背を返して逃げただろう。
「あなたなんか――」
 髪から、飾りを引きちぎる。拍子に何本か髪が抜けて酷く痛んだのに顔を顰めもしなかった。それよりずっと痛む場所。
「――嫌いだ」
 その手にラウルスから贈られた髪飾り。馬鹿馬鹿しかった。虚しかった。
 ラウルスは、否、王はいったいどのような気持ちで自分が贈った指輪を手にとったのだろうか。同じ意匠の髪飾りを見つつアクィリフェルは皮肉に唇を歪めた。
 こんな、玩具とも言えないような真鍮の髪飾り。子供の贈り物のような、あの指輪。
「いくらでも、どんな高価な物だって、持ってる人が」
 喜んだあの顔も、間違いなく嘘だった。自分に買ってくれたこれも、嘘だった。
「何もかも、嘘だった」
 自分の、このわけのわからない、理由も定かではない力。
「……違うか。予言の力? 馬鹿馬鹿しい!」
 そんなものが必要だったがために。この自分を弄んだ。
「僕がただ、アクィリフェルと呼ばれてるだけで。僕が王を導く? 知ったことか!」
 ぎゅっと掌を握れば、今度こそ血が滲んだ。髪飾りに作られた小さな刺し傷は、まるでラウルスにつけられた心の傷のようにも思え。
「違う。こんな……こんなもんじゃない」
 全身全霊で、信じさせようとした、あの男は。嘘に嘘を塗り固めて、自分を欺いた。
 きつく握った掌を開けば、痛みよりはずっと少ない血が淡く滲んでいるだけだった。アクィリフェルは唇を歪める。
 そして思い切り髪飾りを壁に向かって投げつけた。枕とは比べ物にならない音がした。
 軽い、髪飾りの音とは思えなかった。だからそれはアクィリフェルの心の音だったのかもしれない。音を立てて崩れていく、ラウルスへ捧げた愛と信頼だったのかもしれない。
「あなたなんか、嫌いだ」
 床に落ちた髪飾りに歩み寄り、アクィリフェルは見下ろす。あたかもそこにラウルスの面影を見たかのよう、冷たく。
 自分の動きが、まるで水の中にいるようゆっくりと感じられた。上げた足、踏み下ろした足も。足の裏に感じた髪飾りの歪んだ感触も。
「あなたなんか、嫌いだ」
 繰り返し、繰り返し髪飾りを踏みつける。とっくに歪んでしまったそれを何度となく。いっそ残骸を窓から放り捨てようかと体をかがめ、そして止まる。
「……触るのも、いやだ」
 呟いて、背を返した。アクィリフェル自身、気づいてはいなかった。見れば痛むものから目をそらしているだけだとは。
 今は何より、腹立たしかった。怒りなど、まだ言葉が足りない。憎悪と言っても更に手ぬるい。
「それなのに、僕はまだここにいなきゃならない……」
 アルハイド王国の民として。国王の命として。わけのわからない予言とやらに従って。
「……もう、いやだ」
 寝台に倒れこみ、頭の上までもぐりこむ。まるで子供だった。自分でも自覚していた。ここにいれば、寝具に包まっていれば怖いものから守られると信じている子供みたいだった。
 今のアクィリフェルには、それを笑う気力もなかった。ひたすらに、じっと小さくなる。寝具の中で丸まって、それもやはり子供じみているとどこかで思う。思うだけだった。
 何度か誰かが様子を窺いにきているのは知っていた。食事の用意が整ったと知らせにきた召使いの声。今の自分を嘲っている声に聞こえた。
 少し時間がどうのと言っていたように聞こえたシンケルスの声。時間などどうでもよかった。会議の様子も語っていたけれど、それなど更にどうでもよかった。
「放っておいてください!」
 張り上げたはずの声は喉に張り付き歪んだ叫びでしかなかった。気づきもせずアクィリフェルは寝台に丸まり、敷布の端を噛みしめる。
 何もかもをずたずたにできれば、どれほど気分がいいだろう。それなのに、自分は王に従うことを求められている。予言として。王の民として。
 扉も窓も締め切ったままの部屋で一人、アクィリフェルはうずくまり丸まり続けた。そうすれば嵐が去るとでも言うように。心に吹き荒れるそれは、猛りこそすれ、去る気配はまるでなかった。
 どれほど時が過ぎたのか、アクィリフェルにはわからない。関係のないことだった。だが時は流れ、王宮のほとんどが眠りにつく夜半。
 不意にアクィリフェルは物音を感じた。いやな気配だった。思い出したくないものを思い出さざるを得ない音と気配。
 気づけば自分の意思とは裏腹に寝台から抜け出していた。あたかも体が勝手に動いたかのよう。はじめに聞いた物音とは別の音をアクィリフェルの耳は捉える。
「……何」
 世界が歌っていた。リュートもなしに。当然のことかもしれない。リュートが世界を歌わせるのではなく、世界は常に歌っているだけ。リュートはそれを聞く耳をくれただけ。アクィリフェルの調べに、世界は少しだけ力を貸してくれるだけ。それを言われなくとも知っていた気がした。
「僕を……放っておいて」
 呟きは気配にではなく世界に。逃れられようはずもない世界に。強い促しを感じていた。立ち上がれ、窓を開けろと。
「わかっているから、いやなんだって、どうしてわからない!」
 叫び声は喉から出るより先に消えた。ただ小さな溜息が漏れただけ。それはアクィリフェルの溜息だったのか。それとも言うことを聞かない子供に親が向けるような、世界の溜息だったのか。
 アクィリフェルの手が窓に伸びた。必死になって抗っているはずなのに、腕は滑らかに動く。大きく開いた窓から夜気が流れ込んできたとき、予想していたものがそこにいた。
「……よう」
 窓の外の大きな木の枝にラウルスが、否、アウデンティース王がいた。ためらいがちな、それでも投げつけた石の音にアクィリフェルが窓を開けてくれたと喜ぶ顔。
「……僕の意思ではない、とだけ言っておきます」
「アケル?」
「その名で呼ばないでいただけますか。僕はアクィリフェルといいます。名乗ったと思いますが」
 淡々と冷たさすら感じさせないアクィリフェルの声に王は顔を顰めた。
「話がしたい。入っていいか?」
「ではどうぞ探花荘の玄関からおいでください、我が王」
「それができればやっている」
「できないと? これは不思議なことを仰せだ。この王宮の扉があなた様に開かれないとは」
 叩きつけるでもない言葉に、男は枝の上でわずかに体をそらした。殴られたような、襲撃を感じていた。
「……このままでいい」
「国王陛下が――」
「真正面から入れば、アウデンティースはアクィリフェルに会えただろうが、ラウルスはアケルに会えなかった」
「実在しない名ばかりですね」
「してるさ」
「僕は――!」
「アウデンティース・ラウルス・ソル・アルハイド。長い名だな。これが俺の正式名だ。……嘘じゃなかった」
 溜息のような声。今度仰け反ったのはアクィリフェルだった。体を揺るがすまいとしっかり足を踏みしめる。明るい月影に、樹上の男の影が褪色されて酷く嘘のようだった。
「即位して以来、誰も俺をラウルスとは呼ばなくなった」
 その声に滲んでいるものを汲み取ることなど、今のアクィリフェルにできようはずもない。それは、寂寥だった。
「お前に、呼んで欲しいと思った」
 月の光に、まっすぐこちらを見つめてくる目。アクィリフェルはすぐそこにいる男を見据える。
「戦士のふりをして。導き手だかなんだか知りませんが、僕を手に入れるために」
「違う!」
「違いません」
「アケル!」
「そんな名のものはここにはいません」
 腹に力をこめて言い抜き、歌の支配が途切れた一瞬を見定めて窓を閉めた。酷い音がした。こんな夜中に大きな物音がしては探花荘中が起きてしまうかもしれない。
 案じたけれど、耳を済ますアクィリフェルに誰かが起きる物音は聞こえなかった。気づけば、別の音を聞こうとしている。
 腹立ち紛れのよう閉ざした窓の外の音を気にするとは。何もか振り払うよう寝台にもぐりこみ、けれどまんじりともできなかった。
 夜明け近く、眠れなかった一夜の澱みを吹き散らしたくて窓を開け放ち言葉を失う。
 小さく笑って男は再会を約するよう手を振り、アクィリフェルの視界から消えた。




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