見つめ合うというには厳しすぎる眼差しだった。睨み合うというには優しすぎる目だった。立ちはだかるかの狩人に対して王は端然と座したまま。 「お父様――」 何事かを言いかけたティリアの言葉が止まる。思わず息を飲み、飲んでからそれと知る。狩人の視線に射竦められていた。 「あなたは、僕を騙した――」 しんと静まり返った小謁見室の中、彼の声だけが響く。響き渡るには小さすぎる声であったというのに。 「あなたは最初から」 「待て」 「なにを今更! いったい何を待てと仰せなのでしょうか、国王陛下? 僕には今更なにを話すこともなかろうかと存じますが」 皮肉がアクィリフェルの唇から滴り落ちる。言葉面からは敵意しか感じなかった。謁見室の中にいる誰もが無礼に顔を青ざめさせ、あるいは紅潮させた。王を除いて。 「お前は誤解している」 「えぇ、そうでしょうとも! 何もかもこの僕の誤解なのでしょうね。あなたは……いえ、陛下は英明なる国王陛下でいらっしゃるのだから!」 「だから待てと言っている! 知っていた? そんなはずがあるか。あれば……とっくに言っている」 苦い声だった。ティリアはもちろん、王子たちが揃って目を丸くしていた。父王のこのような無頼じみた態度など見たこともないものだった。 「今更、です」 「おい」 「あなたが今更なにを言おうとも、僕はあなたを信じられない」 アクィリフェルの顔が歪んだ。嘲笑に見えた、室内にいるものたちには。アウデンティースには、否、ラウルスには泣き顔に見えた。 「僕の力が要る? 結構。臣下としての務めは果たしましょうよ。禁断の山の狩人とはいえ、陛下の民に違いはありませんから。ですが――」 「だから話を聞け。いや、聞いてくれと言っている!」 「聞かない、と言っています。僕はあなたの言葉などもう二度と信じない。あなたの全てを信じない。あなたは僕にそれだけの嘘をついた。馬鹿ですよ、僕は。あまりにも世間知らずでした。そんな僕を笑っていたんじゃないんですか。楽しかったですか!」 悲鳴のような言葉のほとばしりに誰もが気を飲まれていた。アウデンティースですら例外ではなく。 返す言葉を失っていた。なにをどう言えば彼が自分の言葉を信じてくれるものか、見失っていた。謁見の寸前まで心に抱いていた暖かいものが残らず全て消え失せる。思わず王は自らの手に視線を落としていた。 「……お前に罵られるだけのことをしたのだとは、理解した」 言ってはならない言葉であった、それは。アクィリフェルははじめて莞爾とする。あまりにも酷い笑顔だった。人の身で、一切の信頼を失くせばそのような顔になる。 「やはり、わかっていたのですね」 「違う!」 「今! ご自分で仰ったじゃないですか! わかっていたのでしょう!? 今更言い逃れですか、みっともないにもほどがある!」 その言葉にはさすがにケルウスが顔色を変えた。立ち上がった長男をアウデンティースは無言で手で制した。 「……あとで少し時間を置いて、きちんと話をしよう」 「話すことなどありませんね!」 「お前になくとも俺にはあると言っている。人の話は聞けと何度言ったらわかるんだ!」 「わかりたくないと言ってるんです!」 言ってしまってからあまりにも子供じみた答えだと思ったのだろう。アクィリフェルは口許を歪めて言い添える。 「あなたのことなど、何一つとしてわかりたくない、そう言っています」 淡々とした言葉だった。それまでの炎のような言葉からは信じられないほど、静かな声だった。じっとアクィリフェルを見つめラウルスはかすかに唇を噛む。 「……それでも、協力はしてもらえるのだろうな?」 この国が壊れようとしている。アウデンティースの愛する国が。そして何よりの義務である国が。最も愛しい者を失ってなお、守らねばならない国が。 「人の話を聞いているんですか、あなたこそ。僕は臣下としての忠誠は捧げますよ、その義務の分だけは。なんといっても、あなたの、陛下の臣下でありますれば、ね」 言い捨てて、アクィリフェルは背を返す。自分の言いたいことは言った。あとは勝手に偉い人たちが決めればいいこと。所詮、手足である臣下の一人。詳細など知る必要もなければ意味もない。命じられたことだけをすればいいだけのこと。 「待て、アケル!」 扉の前、足を止めてアクィリフェルはしばし佇む。それをためらいと取ったのだろうか、再びラウルスが彼の名を呼んだ。扉に視線を向けたまま、アクィリフェルは笑った。小さく、惨く。 「アケル? 誰ですか、それは。僕の名前はアクィリフェルです」 ゆっくりと振り返り言ったアクィリフェルの青い目は、北の海のよう激しく荒れていた。言葉を失くしたアウデンティースを残し、アクィリフェルは優雅に退室した。誰にも目を向けず。他のものなど誰一人として目に入らず。背中に、愛したはずの人の視線をいつまでも感じながら。 「……父上」 ためらいがちにケルウスが呼びかけた。思わず息子を睨みつけかけ、はっとして笑みを浮かべる。 「ケルウス。およしなさい」 だが長男を制止したのはアウデンティースではなかった。出来のいい長子に向かってアウデンティースは今度こそ本物の笑みを浮かべた。 「お父様にはお父様のご事情と言うものがあります。わたくしたちはお父様の子ではありますが、言葉を挟むべきではないこともあります。わかりますね?」 「ですが、姉上」 「あなたの態度をお父様は嬉しくお思いですよ。あまりにあの狩人は、言葉を飾りませんでしたものね」 「そんな生易しいものですか、あれが!」 憤慨する長男に、言葉を発することもできないほど衝撃を受けているらしい末の息子に父王は優しく微笑みかけて、その笑み一つで黙らせた。 「息子たちのなだめ役はお前に任せてよいようだな、ティリア」 「えぇ、お任せくださいませ。ですがお父様」 にっこりと笑って、ティリアはまるで密談でもするかのよう父に身を寄せる。王家の姫としては破格の茶目ぶりだった。それに内心でアウデンティースはにやりとする。 「賢者殿や神官殿はお父様がなだめてくださいませね。わたくしの手には余りますもの」 「本当か?」 「まぁ、お父様。か弱い女の身に何をさせようと仰せですの。賢者殿や神官殿の前ではわたくし、身がすくみますわ」 それこそ本当か、とアウデンティースは内心で盛大に文句を言う。出来のいい娘はときに手に余る、と彼こそが思う。 「皆様も、驚かれましたでしょう? 禁断の山の狩人なるものにははじめて会いましたが、ずいぶんと言葉の荒いものなのですね。ですが、それが彼らの流儀とあれば咎め立てするはいかがなのでしょうね?」 父に任せると言いながらティリアは微笑みながらそのようなことを言う。心の中ではかつてない焦りを感じていた。 父は、王であると言うだけではなく、真に偉大な君主だとティリアは常に感じていた。その英邁な君主が自らの父であることも誇りに思っていた。 その父が、いまだかつて目にしたこともないほど、動揺している。他の誰にわからなくとも、兄弟たちに感じられなくとも、ティリアはそれをひしひしと感じていた。 あれだけの会話の断片からでも、充分にアクィリフェルなるものが何者なのか、察することのできない姫ではなかった。 このところ、疲労に疲労を重ねていた父の表情が明るくなった理由。謁見でわずかに顔色を変えた訳。そしてあの会話。ティリアにわからないはずがない。 ならばこそ、今は自分にできることをすべきだった。愛する父がせめてこの自失から立ち直るまでは。 「姫様はお優しくていらっしゃいますな」 会話にのってきたのは意外と言おうか、それとももっともとうなずくべきか神官だった。フィデスはアクィリフェルが王を罵る間もさほど顔色を変えなかった。驚きはしたのだろうが、おそらく事情を察したのだろう。 「そうでしょうか?」 控えめな短い言葉には多くの意味がこめられていた。自分が述べたのは当然の言葉であり、誰もがそう認めるものではないのか、と。認めないものがいるならば正当な理由を申し立てろ、と優しい笑顔の下で王家の姫は言う。 「これはこれは。陛下にはお喜びを申し上げましょうか。それともお悔やみを申し上げましょうか」 「フィデスと申しましたね。神官殿は何を仰りたいの」 「あなた様が姫君であるお悔やみを」 にっと笑った神官の言葉に含まれているものに気づかないほどケルウスは鈍くはなかった。次代の王として、姉姫のほうがよほど相応しい、そう言われたに等しい。それでも半ばは納得している自分がいた。 「ではわたくしは喜ばねばなりませんね」 笑顔を一瞬たりとも崩すことなくティリアは上の弟に柔らかな眼差しを据えた。 「愛する弟と玉座を争うなど、わたくしの望みでもお父様の望みでもありませんもの。ケルウスはきっとよい王になります。それにわたくしは王冠より、愛しい方との家庭を望む、当たり前の女に過ぎませんわ」 ティリアはケルウスだけを見て言った。その目にあふれるのは姉としていずれは王冠を継ぐことになる弟への懸念と愛情。そして全身でその弟を補佐すると彼女は示した。いまだ室内にいるメレザンドに目を向けることなく。 「愛しい我が娘が、穏やかな家庭を持つことができるよう努めるのは父の義務と言うものだな」 ゆっくりと呼吸を繰り返し、アウデンティースはティリアの言葉を遠く耳で聞いていた。娘が時間を稼いでくれたのはわかっている。それは痛いほどよくわかっている。 ならばここで立ち直らねば父としてあまりにも情けない。今は心によぎる影を遠く押しやる。去り際にひるがえった赤毛だけは、最後まで瞼の裏からは去らなかったが。 苦笑していると見せた父王のいまだ痛ましい姿をティリアだけが認め、その心の強さにわずかに目礼した。 |