瞬きの間、時が止まったかのよう思った。ティリアはそう感じる。だが何一つとして変わっていなかった。少なくとも、表面上は。父の横顔を気遣わしげに窺いつつ、ティリアは静かに息をした。 「この者は禁断の山の狩人――」 シンケルスの言葉に廷臣たちがどよめきにも似た声を上げた。あたかも伝説上の生き物が現れでもしたかのように。 「アクィリフェルと申す者にございます。偽りではなく、真からこの者が生まれしときよりの名をアクィリフェルと申すのです」 礼をせよ、といわんばかりのシンケルスの視線に、ようやくアクィリフェルと呼ばれたアケルは頭を下げた。最後まで視線は王に据えたまま。無礼を咎められるはずだった。それでもよかった。誰も、何も言わなかった。何者にも気づかれないよう、拳を握る。 「なるほど……」 そのアウデンティースの声を、廷臣たちは、あるいは賢者たちはどう聞いただろう。娘だけは絞り出した声に聞こえた。 「では、詳細を聞かせてもらおう。ここではなく――」 わずかに首だけを動かし、アウデンティースはメレザンドに問う。視線はどこでもなく、その端にだけ一人を捉えていた。 「秋の間にご用意が整っております」 小規模な、個人的な居間に等しいほどの謁見室だった。まるでこのことをメレザンドまでが予期していたようでかすかな不快をアウデンティースは持ち、気にしすぎだと内心で首を振る。 「結構。両賢者殿、参られよ。――その者も」 言葉に戸惑った風を装ってアウデンティースは彼の名を呼ばなかった。意図を見抜いたものはいなかっただろう。 「フィデス神官、貴公もだ。今一度詳しく神託を聞かせてもらおう」 賢者が、あるいはスキエントが抗議をする間もなかった。アウデンティースは玉座より立ち上がり、再び声を上げる。 「メレザンドも同席せよ。会談の後、重臣会議にて報告するよう。それから賢者殿、我が子も同席させる」 「陛下、なんと!」 「この身が探索に赴くならば、国の治めは我が子に託す。ご不審か?」 皮肉を隠しもせずアウデンティースはそれだけを言い、玉座の側に控えていた子供たちを見る。驚いた顔をした末の息子、わずかな溜息をついた娘。そしていずれは玉座を継ぐはずの長男。 「三人とも参るがいい」 てっきり自分ひとりが呼ばれると思っていたのだろう、長男のケルウスが目を丸くする。そしてそれを恥じたのか頬を赤らめてうなずいた。姉に腕を差し出せば、軽やかな羽のような手が添えられる。王のすぐあとに子供たちが、そして小謁見室に移る人々が続いた。 秋の間は穏やかな色彩に満ちていた。秋の名に相応しく紅葉の木々の色、古くからアケルと呼ぶ色合いだった。アウデンティースは無言で浅く椅子に腰を下ろした禁断の山の狩人を見つめる。秋の間に、燃える赤い髪が映える皮肉。 まるで従僕のよう、メレザンドが茶菓の用意をしていた。侍従といえどもこの部屋に立ち入らせたくない、そんな王の意思を言葉を交わす間もなく感じた彼の差配だった。 爵位にあるものに相応しからぬ振る舞いだった。とはいえ、少年時代はメレザンドも高位の貴族の子弟として当然、騎士の従者として、あるいは少年侍従として王宮に勤めた。爵位を継いで以来、臣下に仕えられる立場になりはしたが、正直を言えば細々としたことをしているほうが気が休まる。 それだけ秋の間は張り詰めていた。一触即発で怒号が響きかねない、メレザンドがそう感じるほどに。それがなぜかは、わからなかったものの。 ただ、確信はしていた。ティリアの元に茶器を運んだ際、彼女もまた目の端で王を窺っていた。メレザンドの視線に気づき、わずかに目を伏せる。視線を避けたのではなく、懸念を伝えてきていた。 「まずフィデス神官。神託をもう一度ここで伝えていただけるか。詳しく知らないものもいるだろう」 明らかに一人を指しつつ、アウデンティースはそちらを見なかった。まるで子供たちは聞いたことがないのだから、とでもいうような態度のまま神官に微笑む。 「神託は明白です。海を飲み込みつつある何か、あれを神託は混沌と呼びました。混沌とは何か、それはいまだ明らかではありませんが……」 そこでフィデスは賢者たちを見やる。うなずいた賢者の長・スキエントが顎を上げた。 「混沌なるものは、予言書に曰くこの世を破壊する大いなる闇でしょう」 「その混沌がこの世界を覆いつつある、神託はそう告げました」 軽くスキエントにうなずいて見せ、フィデスは続けた。もしこの秋の間でくつろいでいる人がいるとするならばそれはフィデスだった。神官とはそのようなものかもしれない。深く椅子に腰掛け、膝の上で手を組んで微笑む。 「幸い、賢者団のご健闘により予言の内容も明かされつつありますれば、いずれ遠くない未来に災いも収まることでしょう」 「それも神託かね?」 「単に私の予測にすぎませんが……我々には陛下がおいでです。アルハイド王国史上稀に見る英明な君主を戴く我らは幸いです」 そこまで言ってフィデスはにっこりと笑った。阿諛追従にしか聞こえない言も、フィデスが口にすると真意に聞こえる。アウデンティースは諦めたよう軽く肩をすくめた。 「賢者殿。私が探索に赴くとは?」 先ほどの謁見で、彼らはまるで既定の事実のようそう言った。王宮を出てできることがあるならばどのようなことでも、と思っていたアウデンティースではあったが、他人が口にすれば違和感はある。 それはこの大事に王宮を空けることへの後ろめたさだった。視界の端で一人を見続ける。硬い表情を崩さない狩人を。 「予言の続きにこうありますれば――」 いまだ聞かされていなかった予言がある、と知ってアウデンティースは不愉快さを顔に出さないよう息をする。かすかに目の端で動くものがあった。見ればティリアが同じことをしていた。 「――人ならざる力を得し鷲、礎となる。と」 「それはどういう意味だ」 「いまだわかりかねますればこそ申し上げておりませんでしたが」 スキエントも不愉快そうに言い、シンケルスを見やる。自分の意見ではないのだから、お前が責任をとれと目が語っていた。 無論、シンケルスはそれで充分だった。手をこまねいていてはアルハイドが滅んでしまう。滅んだあとになって予言が正しいことが証明されても何の慰めにもならない。賢者には珍しい、拙速もまた場合によっては有効、と心から考える男だった。 「人ならざる力。これが問題です。人間のものではない力、と考えるべきか、それとも人間族ではないところから得る助力と読むべきか……」 拙速をよしとするシンケルスではあったが、迷ってもいた。一歩間違えれば遅きに失するということがありえなくはない。それを思えば恐ろしい。だがここでなぜか王はにこりと笑った。 「結構。いずれにせよその力なり助力なりを求めて私が探索に赴かねばならないらしい」 と、激しい物音がした。見やればケルウスが席を蹴るよう立っている。そしてそのまま父の足元に身を投げ出さんばかりにして跪いた。 「父上! どうか、思いとどまってくださいませ。探索が必要ならば私がいたしましょう。父上がなさることではありません。王たる方が玉座を離れるなど、あってよいはずがありません」 謁見の際にアウデンティースが口にしたのは何かの比喩だとでもいままで思っていたのだろう、長男はいまこそ父の意思を理解した。 「賢者殿?」 「ケルウス殿下。お聞きください」 アウデンティースは直接息子を説くのではなく、賢者に委ねた。ゆったりとうなずくスキエントにわずかの間だけ、後悔をする。もう遅かった。 「予言書にあるのです――」 「予言がなんだと言うのですか! 万が一、万が一にも父上に何かがあったらどうするのだ!」 「予言には――」 「それは確定の未来なのか、賢者殿! あなたがたは未来を見ているのか。お答えあれ!」 「ケルウス。よい。お前の優しい気持ちは理解した。が、これは私の役目でもある。予言のいかんにかかわらず」 「ですが、何も父上がおいでになることなど。私か、あるいは弟にお命じくだされば。喜んでお努めするな、ルプス?」 「もちろんです。兄上のおっしゃるとおりです。父上がおいでになど。姉上もどうかお言葉を」 どこまで理解しているのかわからない末の息子の言葉にアウデンティースはかすかな苦笑をする。そして娘を見れば彼女もまた同じ顔をしていた。 「ケルウスもルプスも、お控えなさい。お父様のお決めになったことです」 「姉上は!」 「もちろんわたくしもお父様を心配しています。ですけど、ここはどなたの国でしょう?」 「え?」 「そうでしょう、お父様?」 にこりと笑ったティリアに、ようやくアウデンティースは我が意を得たりとばかり微笑んだ。 「そのとおり。諸君は忘れがちのようだが、ここは私の国だ。私が守る国。私が守らねばならぬ国、だ」 「ですからお父様が探索に赴く。いいえ、時の国王が探索に赴く、と予言されているのは物の道理というもの。二人ともわかりましたね」 父と姉に言われて兄弟は口をつぐまざるを得ない。納得はしかねているのだろう。それでも渋々と席に戻った。 「その探索だが。私一人で、と言うことかと思っていたが――」 ようやく本題に入ったとアウデンティースは肩をすくめて見せる。それから待たせたというよう、禁断の山の狩人に微笑みかけた。 だがその笑みが強張る。ゆらり、彼が立ち上がっていた。やっとのことで正気を取り戻したとばかり、唇に血の気が戻る。 「……ましたね」 呟きは誰の耳にも正確に届かなかった。言葉を聞こうとするシンケルスが慌ててのけぞる。悲鳴まがいの怒号だった。 「騙しましたね! 何も知らない僕を弄んでさぞ楽しかったでしょう! あなたは貴族ではない? えぇ、そうですね、確かに貴族ではなかった。王族ですらなかった。国王陛下その人だったなんてね!」 謁見であるなど、すでにアクィリフェルの意識に残ってはいなかった。目の前にいる国王を名乗る男を、昨日まで、否、今日まで、否、謁見の寸前まで、たった一人の愛した人だと、ラウルスと呼んでいた男を見据える。眼光で射殺さんばかりに睨みつける。 王子たちが剣に手をかけた。メレザンドが制止しかねて王を見た。王女はただひとり、静かに狩人を見た。 国王は、微動だにせずアクィリフェルを見ていた。返す言葉もなく。何かが壊れてしまったのだけを目の前に。 |