メレザンドが執務室に入ってきたとき、アウデンティース王は嫌な予感を覚えた。予感などと言うものではなかった。メレザンドがこれほど不可思議な顔をしているのを見るのは珍しい。
「陛下――」
 彼らしくもなくおざなりに頭を下げ、顔を上げればやはりなんとも言い難い表情。
「どうした、メレザンド」
 尋ねずにはいられず声をかけ、自ら失敗を悟る。睡眠不足からくる掠れ声をしていた。隠そうとして咳払いをすれば、メレザンドの顔がはっきりと強張る。
「やはり――」
「いいから言え、私は問題ない」
「ですが……」
「多少疲労していることは否定しないが、大事はない」
 きっぱりと言って聞かせればほっとした吐息が聞こえた。重臣のうち、最も若いメレザンドをアウデンティースは好んで側近くに置いている。次世代のことを考えるからでもあったし、娘のこともある。ただ、側近く置いているだけに何かと苦労をかけがちなのも確かだった。
「賢者団が、謁見を申し込んでまいりました」
「謁見?」
 意外の念に打たれて王は聞き返す。彼らが謁見を申し込んでくることは珍しい。常日頃ならばアウデンティースが執務を終えるのを待った後、限りなく私的な居間に近い部屋で面会をする。
「……と言うことは、正式な謁見、と言うことだな?」
「はい。差し出口かと思いますが……」
「よい。言え」
「は――。あまりにも珍しいことですので、解釈をしかねるところではありますが、現状を鑑みるにこれはやはり」
「メレザンド。くどい」
 自分で言えと言っておいてそれはない、叱りつけておいてからアウデンティースは苦笑する。メレザンドはただ照れたよう力なく笑っただけだった。
「手短に申し上げますなら」
「海の件だろうな。それしかない。神託に触発されたか?」
「……かと、存じます」
 臣下の発言を奪った王にわずかに恨めしげな目を向け、けれどメレザンドは晴れやかに笑った。様々な執務に追われながらでも決して王は些細なことをないがしろにはしなかった。それが臣下の一人としてこの上もなく幸福だった。
「例の神託だが」
「はい、ずいぶんと唐突なことのように感じましたが……不遜な言は覚悟の上で申します。事実でしょうか?」
「神託が下ったかどうかが、か? 事実かどうかはこの際、無視していい。待て、メレザンド。無視すると言っても信じないわけでもないぞ」
「それはいったい?」
「現時点で神託が下った。しかもいままで誰も名づけることをしなかった海を飲んでいる何物かを神官は混沌、と名づけた。正直に言えばこれだけでも信ずるに値する」
 一度言葉を切りアウデンティースは顎先を撫でる。連日の激務でずいぶんと尖っていた。
「なぜ、賢者団は名を明かさなかった? わからなかったからだ。あるいは、確信がなかった。神官が信託を伝えてきた。それが彼らに確信を与えた」
「ですからここで謁見なのですか! なるほど」
「困ったものだよ」
 小さく笑って顔を伏せれば、メレザンドが同意したのだろう、王の御前でありながら鼻を鳴らした。
「あの隠したがりの爺様たちがいったい何を言い出してくれるのか。期待はしたいが恐ろしい」
「陛下!」
 王にあるまじき言葉遣いにメレザンドがまるで幼い頃の教育係のよう声を荒らげる。それからしまったとばかり口をつぐんだ。それにアウデンティースは片目をつぶって見せ、疲れたよう椅子の背にもたれかかる。
「それで、メレザンド?」
「お疲れのご様子」
「問題ないと言っている。それに……」
「なんでしょうか」
「せっかく時機を計っていたらしい賢者団のご老体をがっかりさせることもなかろう」
 今度はメレザンドも冷たい一瞥をくれるだけでたしなめた。が、アウデンティースは気にも留めていないよう首を回している。
「……謁見はご予定に変更がなければこのあと昼過ぎに。昼食はいかがいたしましょうか」
「そうだな……」
 考えて、ずいぶんと忙しいことだとアウデンティースは思う。これでは昼食時の息抜きはできそうにない。それを思うだけで憂鬱な気分になった。
 だがしかし、アウデンティースは王だった。自らの楽しみは民の後に求めるべき。それを父王から徹底して叩き込まれている王だった。
 こんなときにはいささか父の教えが疎ましくもなるが、自らの義務を果たすことを思えば誇りにもなる。ゆっくり諦めの吐息を吐いてアウデンティースは窓の外へと視線を向けた。
「それでかまわん。小謁見室か?」
「いえ。玉座の間にて」
 思わずアウデンティースは声を上げるところだった。それでは賢者団は本格的に正式な謁見を望んでいるということか。
 しかも、多くの貴族に、廷臣に、言うまでもなく重臣たちに。そして神官たちに謁見が公開されることを望んでいる。
 不意に背筋に冷えたものを覚えた。何を企んでいる。そこまでは言いすぎだ、と言う心の声。ならばなぜ事前に面会がなかったと問う声。アウデンティースは挟まれて動けなかった。
「もちろん陛下のお許しがあればのことですが」
 何かに慌ててメレザンドが言い添える。そのことでアウデンティースは自らの表情を知った。よほど恐ろしい顔をしていたに違いない。
「いや……」
 軽く顔の前で手を振った。かまわない、と仕種で伝え、けれどメレザンドから表情を隠す。心の声は賢者団の企みを暴けと騒ぎ立てていた。
「今更、遅いな」
「陛下?」
「いや。なんでも……そうだな。賢者団の動きがなぜ私に伝わっていない?」
「それは……」
「探花荘の警護は何をしていた」
「どうやら真面目に警護をしていたようですね」
「警護だけしてどうするんだ」
 呆れたよう言って渋い顔のメレザンドに溜息をつかせる暇を与える。ついでに肩まですくめて見せたメレザンドをアウデンティースは咎めなかった。
「まぁ、今更言っても遅いと言うのはその辺りだな。もう少し目を配っておくべきだったか」
「陛下は今でもすでに人間業とは思えないほどの執務を抱えておいでです。何もかもと言うわけには行きますまい」
「それを行かせねばならないのが国王というものだな、メレザンド」
 臣下にあからさまに励まされてアウデンティースは不快に思わなかった。むしろ気遣いをありがたく思う。
 アウデンティースの笑みにそれを感じ取ったのだろう、メレザンドは晴れやかな顔をして一礼する。謁見までのしばしの間に王が少しでも体を休めることができるように。執務室を出て行きがてら、メレザンドが振り返る。
「陛下、昼食のことを伺っていませんでした。お部屋にお届けいたしましょうか?」
 謁見に向けて衣服を整えねばならないアウデンティースだ。一度は私室に足を向けるならば、と申し出たメレザンドだったが王の渋い顔に出会う。
「お前は私の母親か? 私の食事の面倒を見ている暇にできることが他にもある気がするが。例えば麗しい姫君の相手だとか。具体的には我が娘ティリア辺りの」
「陛下!」
 真っ赤になったメレザンドをにやりと見やってアウデンティースはわずかとはいえ気晴らしを楽しんだ。
「昼食は必要ない。謁見が入るのでは食べている時間はないからな」
「ではこちらにお持ちするよう手配いたします」
「おい」
 アウデンティースが何を言うより先、扉は閉まった。どうやら仕返しをされたらしいのだが、あまり気にはならなかった。
 いずれあの男を義理の息子と呼ぶ日がくるだろう。その日をアウデンティースは心待ちにしていた。いつの日か義理の娘もできるだろう。そして多くの孫が宮殿を賑やかにするだろう。
「そんな日のために、いまを」
 乗り越えなくては。海を飲み込んでいる何か、神官の言う混沌に対処をせねば孫の顔を見るより先にこの大地が消え果てしまうことにもなりかねない。
「それはごめんだな」
 子供たちに、できれば幸福な家庭を築いて欲しい。それが父としての望みだった。民にも我が子のよう幸福になってほしい、それが王としての望みだった。
 一度は書類に向けた視線を、アウデンティースは窓の外へと投げ出した。憧れるような、否、それだけでは済まない、遥かに強い視線。何事かを希求する王の目を見たならば、メレザンドは何を言うだろうか。
 何かを、言うことができるだろうか。アウデンティース王の最も近くで王の執務を日々見てきたメレザンドだった。
 王宮の中を足早に歩きつつ、彼自身の臣下に様々なことを申し付ける。中でも遅きに失した上にこれからでは無駄だとは思うが探花荘のことを。彼の手の者はメレザンドより足早に姿を消した。
「まぁ、メレザンド伯爵。このようなところに何の御用でしょう」
 女官長の驚きの声にメレザンドは立ち止まる。先代国王の時代より女官を務めているハンナはある意味では王宮の主でもあった。ましてこのような女の領域では。
「殿方が厨房になど入られるものではありませんよ」
 まるで子供をたしなめる口調だった。独身を貫いてきた女官長にとって若い貴族はみな息子のようなものなのだろう。苦笑してメレザンドは首を振る。
「陛下のご昼食のことで」
「それならばいま――」
「いえ、陛下はお忙しく」
「またきちんとしたものを召し上がる時間はないと?」
「まさしくおっしゃるとおり」
「では何か軽いものを用意させましょうか」
「執務を続けながら召し上がるそうですので、何か挟んだ物がよろしいでしょう」
「挟んだ物ですか」
 渋い顔をする女官長にメレザンドは大きく笑った。今日は自らも加えて多くの渋い顔を見た。きっとまだ終わってはいないだろう。そんな予感を吹き飛ばすように。
「挟んだ物です」




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