夜明け前、腕はほどかれた。滑り落ちるより先、アケルはラウルスの腕を掴む。
「もう少し」
 ねだった自分の声が甘い。その中に潜む切なさに彼は気づくだろうか。問うまでもなかった。ラウルスの腕が再びアケルを包み込む。
 いつもと同じようラウルスは窓から忍び込んできた。こうして幾晩、時を過ごしただろう。逢瀬を重ねるたび、新鮮さだけが募っていく。同じほど、別れがたさも。
「昨日……」
 呟くよう口にすればラウルスが笑った気がして、アケルは彼の裸の背中に爪を立てる。耳許で痛いと囁かれた声に思わずしがみつく。
「違うんです。そうじゃなくて」
 ラウルスの胸元に頬を押し付ければ、どこかに自分の匂いがする。そんな気がした。少しも感じられはしなかったけれど。
「どうした、アケル?」
 眠りが足らないのだろう、ラウルスの少し掠れた声。普段の彼の声より、好きだと思う。いつもの声を聞けば、それも愛しく思う。
「……怖いんですよ」
「なにがだ?」
 冗談だとは、思わなかったのだろう。少し体を離してラウルスが覗き込んできた。猛禽の目がアケルを見つめる。いつまでもただ、その目だけを見ていたかった。
「よく、わからないんです。理由もない。たぶん、ないと思うんです。……わからない」
「あれか?」
「え――?」
「前に、リュートを弾いてるとき、世界を感じたって言ってたじゃないか。そのせいなのか?」
 不意の言葉にアケルはまじまじとラウルスを見つめた。今まで見ていたよりずっと真剣に。彼の心の奥底まで見えればいいと。
「……信じて、くれてたんですね」
「お前な。俺が疑ったことがあったか?」
「ないです。たぶん、なかったと思います」
「当たり前だろうが。お前が言ったんだ。俺は信じる。それだけだ」
 あっさりとした言葉の中にこめられた信頼にアケルは胸苦しさを覚えた。自分は彼にこれと同じものを返すことができるだろうか。
「それで? リュートがどうしたんだ」
 いつものよう、ほどけてしまったアケルの赤毛をラウルスはゆっくりと撫で下ろしていた。まるで獣でも撫でているようだと自分で思う。あまり、上手ではないやり方で、アケルに心地良さを与えられているのか不安だった。
 ラウルスの思いとは裏腹に、アケルはほっと安堵の息をつく。ざわついていた心が静まっていく気分だった。
「リュートじゃないんです。いえ……リュートかな?」
「どっちだよ」
 すぐさま言って笑ったラウルスの辺りをはばかる小さな声にアケルの肩から強張りがなくなっていった。
「昨日の昼間なんですけど」
 そう言ってアケルは長く溜息をつく。それからはっとした。言いたくないわけではない。その事実が不本意なだけだ。それがラウルスに伝わるかどうかわからなくてそっと窺えば笑みを浮かべて聞いてくれていた。
「賢者様に、聞かれちゃったんです」
「うん?」
「僕が、リュートを弾いてるところ」
「お前――」
「なんです?」
「もしかして、いままで黙ってたのか?」
 少しばかり驚いたラウルスをアケルは睨んだ。なぜ自分が黙っていたのか、わからないとは言わせない。
「なるほどな」
「なんですか!」
「当面は俺にだけ聞かせたかったというわけか。可愛いなぁ、お前は」
「茶化さないでください!」
「残念ながら本気だよ。それよりアケル。声が大きい。逢引きがばれるぞ」
 言葉に詰まったアケルの唇を軽くついばんでラウルスは忍び笑う。笑いの形を己の唇に感じたアケルは悔し紛れに彼の唇をそっと噛む。
「だめ」
 音を立てて唇を離し、アケルは彼の胸を押しやった。
「じゃれてきたのはお前だろ」
「あなたです」
 言い合って、互いの目を覗き込む。そしてラウルスは目を細めてアケルの額にくちづけた。
「賢者に知られて何が怖い?」
 アケルの頬に熱が上るより先、ラウルスは話を戻した。夜明けは近い。明けてしまうより前に吐き出させてしまいたかった。自分はここにはいられないのだから。一人でアケルが悩むところを想像するだけで身の内が冷える思いでいた。
「それが……」
 ラウルスの髪にアケルの手が伸びてくる。寝乱れた不思議な色合いの金髪とも茶色ともつかない髪を手で整えていく。
「わからないんです。本当に」
 指の間にラウルスの髪があった。冷たい感触に、なぜか不意に思い切りそれを掴みたくなる。そう思った自分に愕然としてアケルはゆっくりと手を離した。実行してしまいたい気持ちを抑えて。
「賢者様に知られてなんの問題があるのか。そもそも、僕はもっと早く言わなきゃならなかったんです。それは、わかってるんです」
「遅くなったのが、気にかかってる?」
「それも、違うと思うんです。気にかかってないわけじゃないですけど」
 このもやもやとした恐怖感をどうしたらラウルスにわかってもらえるのだろう。伝えようのない感覚にアケルは身悶えた。
「賢者様。リュート。僕。それからもしかしたら、この世界。全部、繋がってる気がするんです。こんなの変ですよね。あんまりにも大袈裟だって、わかってるんです。でも」
「お前は間違ってないと思ってる」
「そうなんです。それが――」
「怖いわけでもないんだろ。なんだろうな?」
 言葉尻を奪いつつ話すラウルスに、一瞬苛立った。ついでアケルの目が丸くなる。ラウルスは、理解してくれている。だからこそ、先へ先へと言葉を奪う。
「あなたのやり方、上手じゃないです。ちょっと苛々しました」
「少しだけだろ。いまは?」
 答えの代わり、笑うラウルスにくちづけた。感謝だとわかってくれる気がした。背中を抱きしめる力強い腕を感じ、彼の背も同じように抱き返す。
「アケル。離せって」
「離れたいですか。あなたは」
「おい」
「僕は離したくありません」
 そう言ってアケルはラウルスにしがみついた。恋人のようにではなく、子供のように。
「あのな、アケル」
「わかってますから! 僕だって子供じゃないんだ。夜明け前にあなたを帰さなきゃ、ばつが悪いのは自分だってことくらい、わかってます! それでも……」
「一つだけ言っておこうか?」
 耳許で冗談めかした声がした。ラウルスの手が髪を撫でているのを感じる。山の中では目立ちすぎて面倒だった自分の髪も、ラウルスが好むのならば嬉しい色に代わった。
「このまま攫って逃げたいと思ってるのは、お前だけじゃない」
 ひくり、ラウルスの腕の中でアケルが震えた。きつく抱きしめなければいけない。ラウルスは思う。そうでもしなければアケルが泣き出す気がした。
「あなたって人は!」
 だがしかし。アケルは胸の中でくつくつと笑っていた。高らかと笑いたいのをこらえているせいで、おかしな声になっている。
「僕があなたをつれて逃げたいなんて思ってると、思うんですか?」
「違うのか?」
 さも不満げに言えばアケルは破顔した。その笑顔の裏側で、泣いているのを隠しきれている。そう思っている顔だった。騙されたふりをしてラウルスは拗ねた顔を作った。
「俺はお前がそう思ってくれてるんじゃないかと、思ってたんだけどな。見込み違いだったな」
 不貞腐れて腕を離し仰向けに体を投げ出せば、小さく笑ったままアケルが乗りかかってくる。反動もつけずに起き上がり、アケルを膝の上に抱え上げる。
「ラウルス!」
「どうなんだ? うん? 俺が間違ってたか?」
「ちょっと、離して。本当に。だめ」
「言わなきゃ離さないからな」
 乱れた寝台にアケルの肌はあらわだった。一糸まとわぬままラウルスの膝に顔を向き合わせて抱えられたアケルはその髪同様、全身を染めた。
「白状しないなら……」
 思わせぶりに言葉を切ってラウルスはアケルの腰を抱く。はっとしてアケルが体を引こうと思ったときには遅かった。
 胸の尖ったところを、口に含まれた。舌先が、悪戯をするよう動いている。押し返そうとしたのに、ラウルスは上目遣いにアケルを見て笑った。
「続けちゃうぞ?」
「いいですよ。続ければいいじゃないですか! 困るのはあなたであって僕じゃないです!」
「本当か?」
 ちろりと舌がまた動く。跳ね上がりそうになる体を必死でこらえ、ラウルスの肩を今度こそ押しやった。
 戯れだと、アケルにもわかっていた。すでに緩く勃ち上がりつつあるものに、ラウルスは触れようとしない。触って欲しい。そう望んでいる自分にアケルは赤面した。
「それで、アケル?」
「……決まってるじゃないですか」
「うん? 何が?」
「……あなたは! いいですよ、言えばいいんでしょう、言えば! えぇ、そうですよ。あなたと一緒に誰にも邪魔されないところに行きたいです。ほら、これでいいでしょ! もう」
「なにもそんなに嫌そうに言わなくってもいいだろ」
「言わされるのは嫌です」
「自主的にだったらいくらでも言うくせに」
「否定はしませんね」
 嘯いて、ラウルスから離れようとした。が、今になって自分がどんな体勢なのかまざまざと知ることになる。
 硬直して動けないアケルをラウルスは笑い、腰を持ち上げて膝からおろした。その動作のまま、立ち上がる。
 帰る、とは言わなかった。黙っていてもわかる。アケルが寝台の上に転がったまま自分を見ているその視線を強く感じた。身づくろいを済ませ振り返れば、やはりアケルはじっとラウルスを見つめていた。
 無言で体をかがめくちづけた。離れれば、寂しさを必死に押し殺すアケルがいた。まだ言葉なく昨夜はずしたまま置いてあった指輪を自分ではめた。それからアケルの髪に同じ意匠の髪飾りを止める。再びくちづけ、最後まで黙ったまま窓から跳んだ。樹上で振り返ったラウルスの目に、ようやく笑みを浮かべたアケルが映った。




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