二人は先程よりもう少し上等なものを扱う区画へ移動していた。辺りを見回してアケルは確かに雰囲気が違うと驚く。 「なんだか、ずっと綺麗ですね」 ラウルスが連れて行った場所はいわば公園とでも言うべき広場だった。広場の中央には豊かな水を噴き上げる噴水が日の光に煌いている。生きた宝石のようなそれにアケルは顔を顰めた。 「どうした?」 「だって。なんだか悔しいじゃないですか」 「なにが?」 きょとんとするラウルスにアケルは微笑みかけた。首をかしげる仕種だとか、猛禽めいた目に浮かぶ優しげな色だとか。そんなものがどうしてここまで心を震わせるのかわからない。 「さっき買った指輪より、ずっと綺麗じゃないですか」 「まぁ、それは、なぁ」 「でしょう?」 「それより」 言ってラウルスは噴水の縁にアケルを誘う。腰を下ろせば背後から涼しげな音。時折、飛沫が頬を掠めるのも心地良かった。 「お前、指輪買う金なんかよく持ってたな」 手頃な品とはいえ、装飾品となればそれなりの値はする。禁断の山の狩人に金銭の持ち合わせがあるとはラウルスは思ってもみなかった。 「あぁ、それですか」 肩をすくめアケルはなんでもないことのよう続けた。 「賢者様に遊びに行くと言ったらお小遣いをいただきました」 「小遣いかよ!」 「いけませんか?」 実に不思議そうに言ったアケルにラウルスは笑いを噛み殺した。あれだけの金額を易々と小遣いとして渡すほうも渡すほうならば気に留めていないほうもいないほうだ、と思う。確かに装飾品としては安いが、そもそも装飾品と言うものは高いものなのだ。それを小遣いの一言で済ます彼らに少しばかり呆れた。 「さすが、両方とも浮き世離れしてるだけあるな」 「どういう意味です?」 「いーや。別に」 はぐらかされたのを感じないはずのないアケルは彼を睨みつけ、それでもついには笑い出す。ラウルスがなにを疑問に思ったのかはわからなかったけれど、蔑まれていないのだけは、わかっていた。 「なぁ、アケル」 つい、と男は背中の噴水を振り返った。まるでアケルには彼が自分の表情を隠したがっているかのよう思えて、強引に腕を取って振り向かせる。ラウルスは照れたよう、笑っていた。 「なんだよ?」 「あなたがそっぽ向くからじゃないですか! 話をするときには人の顔をちゃんと見てください。失礼ですよ」 「悪い」 片手を上げ、詫びたラウルスは軽くうつむく。謝罪の仕種だったのかもしれないが、やはり顔を隠したかったのかもしれない。それ以上アケルは問い詰めなかった。むしろ問い詰めたとき返ってくるかもしれない答えを恐怖した。 「それで。なんですか」 「いや、ここ。気に入ったかな、と思ってな」 「それだけのことですか!」 「悪いかよ!」 「いけないなんて誰も言ってないじゃないですか!」 言い合って、互いに顔を見合わせる。どちらからもなく溜息をつき、そして吹き出す。アケルは指を伸ばし、ラウルスの手を取った。 「結局こうやって怒鳴りあうのはなんでだろうな?」 「あなたのせいです」 「俺かよ」 「そうですよ。全部あなたのせいです。この時期にしてはちょっと風が冷たいのだって、みんな!」 「それは温めろ、と言うことかな?」 にっと笑ってラウルスはアケルを腕に抱いた。羞恥にわずかの間、抵抗したアケルも次第におとなしくなる。 気がついた。どうせ、誰も見てなどいない。辺りを行き交う人々はみな忙しげで、噴水で恋人同士が戯れていても、誰一人として目もくれなかった。 それでも抵抗を覚えないわけではなかった、アケルは。恥ずかしいとは思うし、本当は離れるべきだとも思う。 ただ、離れたくなかった。葛藤する自分をラウルスが面白そうに見ている視線を感じるのも、いやではなかった。からかわれている気がしてすら。 「苦しいですよ、ラウルス。少し……緩めてください」 胸を押し返せば、ラウルスのちらりとした笑み。残念そうに見えたのは、なぜだろう、とアケルは思う。 「もっと……ずっと。その。抱いてたい、ですか?」 「当然だな」 いとも簡単に言ったラウルスだった。だからきっと残念だったのは自分の葛藤を見られなくなるほうだ、とアケルは内心で断言する。少しばかり気分を損ね、ラウルスが持っていた包みを取り上げた。 「おい」 「食べないんですか。僕は空腹なんですが」 「なんだよ。いつも腹減らしてるわけじゃないとかって言ってたの――」 「僕ですよ? それがなんです。いまは、空腹です。いけませんか」 「悪くないけどな」 そう言ってくつくつと笑ったから、やはりからかわれていたのだろうとアケルは思う。まったく嫌な気分にならない自分と共に、それを知った。 ラウルスの掌の上で遊ばれている気がした。むしろ、中で、かもしれない。ラウルスに包まれて、その中でいいように遊ばれている。それが不快どころか、奇妙なほどの安心感を生んでいた。 ラウルスが持っていた包みは、先ほど装飾品を手に入れたあとアケルの要望で求めたものだった。軽い軽食と、安い葡萄酒。店で食べることもできたけれど、ラウルスは少し歩こうと言って包んでもらった。 「正解ですね」 晴れ上がった空の下、噴水の傍ら。なんとも言えず平和だとアケルは思う。もしも人々の目にある恐怖を忘れてしまえるものならば。 ここでも同じだった。ラウルス曰く混沌の侵略だとか。海を飲んでいる何かの正体も目的もわからず人は怯えている。 それでも日々は続く。アケルはパンを食みながら辺りを見ていた。そして思う。彼らは王家を篤く信頼しているのだと。 「すごいですよね」 「うん?」 「みんな、国王陛下を恃んでいるのでしょう? だから、きっと陛下がなんとかしてくださると思っているのでしょう? そうでなかったらもっと大変なことになってる気がします、僕は」 「例えば?」 「だって、そうじゃないですか。みんな、逃げてない。きっと普通の生活に戻れると思ってるからです。僕みたいな者は城内にいても陛下にお目にかかる機会も身分もないですけどね、こうやって見れば大変尊敬されている方なんだなって思いますよ」 アケルの言うとおりだっただろう。確かに城下町からはもちろん、海辺の町からも人は逃げていなかった。ラウルスはそれを知ってはいたけれど、奇妙な表情を浮かべ、アケルにそれを告げることはなかった。 「酒、いるか?」 安いパンはどうにも喉に詰まる。ぼそぼそとして飲み込みにくいことこの上ない。アケルがパンを口に運んだときを見計らって言えば無言でこくりとうなずいて受け取る。 「助かりました。喉に詰まりそうで。……不思議ですよ」 「なにが?」 「だって、いつもあなたが持ってきてくれるものと全然違うから」 何気ないアケルの一言にラウルスは懸命に言い訳を考えていた。これほど頭を振り絞って考えたことはないと思ってしまって内心で苦笑する。 「あれはなぁ。とりあえず城内で調理してるものだし。言ってみれば衛兵の支給品の又従兄弟くらいなものだな」 「答えなくてもいいですけど。城の衛兵なんですか、あなた?」 「違うよ」 即答したラウルスにアケルは訝しげな目を向ける。答えなくてもいいと言ったのに、彼は迷うことなく答えた。きっと、だから真実だ。 「嘘は、つきたくないからな」 ぽつりと言ったラウルスにすまなく思って手を伸ばす。包まれた手に伝わってくる温もりにアケルは全身を包み込まれた心地だった。 「ラウルス」 ゆっくりと、手を引き抜いた。心の底から惜しいと思う。もっとずっと触れていたい。離したくない。そう思う自分が不思議で、そして嬉しかった。 「手を出してください」 首をかしげたラウルスに有無を言わせなかった。問答無用の勢いでその手をとり、買ったばかりの指輪をはめ込む。 「お前なぁ。くれるんだったら最初から大きさ聞けよ」 「大きすぎますか。きついことはないみたいでしたけど」 「いや、ちょうどいいけど」 「だったらなんの問題があるんですか。あなたって人は、もう!」 「問題だったらあるぞ?」 笑って言うから間違いなくたいした問題ではない。おそらくからかわれるだけだ。身構えてアケルは彼を見つめる。 「いきなりこんなことされたら、照れるだろ」 長身をかがめて、わざわざアケルの耳許でラウルスは言った。案の定だ、と思ったはずなのにアケルは自分の頬に熱が上がっていくのをとめられなかった。 「やるよ」 そのまま頭を抱えられた、と思ったときにはラウルスの手は離れていた。違和感を覚えて手を後ろに回し髪に触れる。 「あ――」 「さっきの。なんて言うんだ? 髪飾りの一種なんだろうな」 アケルは自分で見えない髪飾りを心の目で見ていた。いまラウルスの手にはまっている指輪と同じ意匠の髪飾り。自分が贈ったのと同様、他愛ない品。それがこんなにも、動揺を誘う。 賢者に頼めば、分不相応な金でも貸してもらえたはずだ。ラウルスを手の届く限り豪華な装飾品で飾ることもきっとできた。 それでも、アケルはそうしなかった。別れるつもりなどない。いつか、ラウルスはその口で自らのことを語ってくれる。それまでは所詮、仮初。だからこそ、玩具のような指輪を贈りたかった。 「……嬉しいです」 ラウルスが、それに気づいてくれたのだとは思えなかった。それなのに、嬉しくて、泣きそうだった。 |