城下町の賑わいは、アケルには驚異的なものとして映った。何もかもが喧騒に包まれている気がして仕方ない。息さえつけないかのような騒ぎだった。それでもラウルスは言う。
「前はもっと賑やかだったんだけどな」
「これで、ですか?」
 なにかの冗談か、さもなくば自分を謀っているのではないかと疑ってしまうアケルにラウルスは笑って見せる。
「これで、だな。例のあれ……神官たちは混沌の侵略だと言ってるらしいが、あれが起こる前はもっと華やかだったぞ」
 信じがたいと首を振り、アケルは辺りを見回す。人々の顔を見るにつけ、異変が起こっているのを身近に感じている様子はない。
 そのアケルの目に、民衆の目が映った。はっと胸を衝かれる。騒いででもいなければ、自分自身こそが海を飲み込む何かに飲み込まれていきそうな不安。アケルの目はそれを確かに読み取った。
「華やか……ですか」
 彼らの目に朧な恐怖がなかったならば、この喧騒もそう感じられたかもしれない。ラウルスは以前からそれを知っていたのだろう。自分はただ探花荘にこもり、あるいはリュートの練習をしていただけ。
「僕に、何かできることはないのでしょうか」
「あるんじゃないか?」
「ラウルス!」
 気軽に言ってくれるな、とアケルは怒鳴る。いつもの戯れめいたそれではなく、本気の怒りだった。それを感じないラウルスではないはずなのに、彼は黙って肩をすくめる。
「お前にだって何かできることがきっとある。俺は、そう思ってる。それが何かは聞くなよ? そんなことは俺にはわからんし、俺にできることだってわからん」
 まるで呟きだった。自分自身に言い聞かせるようなそれにアケルの心が静まっていく。焦りを感じているのは自分だけではない。ラウルスこそ、それをひしひしと感じている。
「ラウルス。聞いていいですか」
「うん?」
「あなたは……都は、長いんですか?」
 たったそれだけのことが聞きにくい。素性を話したくはないと言った彼の気持ちを尊重すれば、この問いですら憚られる。
 ためらいの末に発せられた問いに、けれどラウルスはにこりと笑った。思わずアケルが見惚れるほど見事な笑顔だった。立ち止まってしまったアケルの手を引き、ラウルスは歩き出す。
「長いな。と言うより、いまのお前より若いころに引越してきて以来ずっとここに住んでるな」
「……すみません」
「なにがだ?」
 思わずうつむいてしまったアケルは彼の声にラウルスを見上げた。そこにはきょとんと瞬きをする彼がいた。
「だって……」
「なぁ、アケル。俺は答えたくないことがいくらでもあるし、答えられないこともある。だからな、アケル」
「はい」
「好きなこと聞けよ。答えるかどうかは、わからないけどな。それでよかったら、好きなこと言えよ、な?」
 言葉面だけ取れば、冷たい台詞だった。それでもラウルスの笑顔を見れば彼の本心が伝わってくる。少なくともわかる気がする、とアケルは思った。
「……あなたのこと、知りたいなって思うの、変じゃないですよね。でも、知りたくないなとも、思うんです。だって――」
 たどたどしく言葉を繋ぎ、アケルはふと黙った。これから自分がなにを言おうとしたか口にするより一瞬先に悟ったのは幸い。ラウルスがにんまりと笑う。
「とりあえず俺はここにいるしな、アケル?」
「そう言うことを口にしないでください! 恥ずかしい!」
 往来で突如として怒鳴ったアケルに人々の視線が集まる。呆気にとられたかの視線にアケルはこのままどこかに遁走したくなった。
「俺としてはお前のほうが恥ずかしいぞ?」
「だったら見捨てればいいじゃないですか。もう、知りませんから!」
「アケル」
 憤然と手を振りほどく素振りを見せたアケルの手をラウルスはきつく握る。離したいとアケルは思っていないはずだから。自分が思っていないのと同様に。
「どこに行く、俺を置いて?」
 にっと笑って言えばアケルがうつむく。さてはまた怒らせたか、とその表情を窺えば、意外なことにアケルは頬を赤らめていた。
「お前がなににどう照れるのか、俺にはよくわからんよ」
 ぽつりと呟けば勢いよく上がるアケルの顔。それこそが狙いだったラウルスは目を細めて笑う。行こうとばかりに手を引けば、今度は素直にアケルも従う。それが面白くてたまらなかった。
「ラウルス。そういえばさっき不思議なことを言いましたね?」
 いまだ去らない頬の熱を冷ましたくてアケルは話題を戻してしまった。すぐさま後悔する。もう少し、ラウルスの冗談のように甘い言葉が聞きたかった。きゅっと握れば、握り返してくる彼の手。それだけでいい、そうも思う。
「神官が、混沌の侵略って」
「あぁ、そう言い出したらしいな。神託があったんじゃないか?」
「そう、なんですか」
 わずかにアケルは疑問を持った。いまだそれは賢者たちの間ですら話題になっていない。探花荘にいるアケルの耳に届いていないと言うことは、つまりそういうことだった。
 ただ、とアケルは思い直す。賢者がすべてを自分に話すわけではないしそんな必要もない。だからきっと賢者はすでにそれを知っているのかもしれない。そもそもアケルは現在起こっている事件に自分は何らかかわりがないと思っている。賢者に課せられた義務はリュートの演奏であって、それとは無関係のことを賢者が自分に語るはずもない、と納得していた。たとえ心の片隅がリュートは海を飲む何かにかかわりがあると叫んでいたとしても。関係があるのはリュートであって自分ではない、そう叫び返したかった。
 それにしても不思議だった。いまだ公になっていないであろうことをあっさりと言ったラウルスと言う男が。
「そろそろ正式な発表があるんじゃないのか。隠しきれるものでもないだろうしな」
 肩をすくめて言う男の表情を、アケルはまじまじと見ていた。そこに不可解さはなく、不穏なものも何もない。そのはずなのに、アケルはいわば魂の奥底とでも言うべき場所が不安におののくのを感じた。
「あなたは……」
「なんでこんなこと知ってるか、か?」
「えぇ……まぁ」
 言葉を濁すアケルの真意は、ラウルスにもわからなかった。それ以前にラウルスは失言を悔いている。内心で小さく溜息をつき、思考を巡らす。
「大きな声で言えない噂ってやつは、結構聞こえてくるもんだぞ?」
 実際、間違いではなかった。確かに神官付きの衛士や下働きから聞きだしたと思しき噂が密やかな声で語られはじめている。それも、あっという間に。正式発表が近いと言うラウルスの根拠もそこだった。隠せば隠すだけ民の不安は大きくなる。
「そういう、ものですか?」
「都は人間が多いからな。どうしても噂話は多くなる。聞く耳さえあれば色んなことが拾えるよ」
 問題はどこで聞いたか、だがそれだけはラウルスも告げるつもりはなかった。
「僕は山育ちですからね。わかりませんよ、そういうのって」
 それだけでアケルは言葉を収めた。本当は聞きたいことが他にもあるのではないか、とラウルスは感じている。
 それでもアケルは問わなかった。ラウルスの答えられない部分に踏み込むのを恐れるよう、言葉を控えた。好ましいと思うより、痛ましかった。申し訳なさを詫びることもできずラウルスはただ繋いだ手に力をこめる。
「痛いですよ、ラウルス」
 怒った声を作りながらアケルは笑っていた。握り返してくる手に、アケルの心を感じラウルスは微笑む。
「さぁ、どこに行こうか? 腹、減ってないか?」
「僕は育ち盛りと言うわけでもないんです。そう四六時中、空腹なわけはないでしょう!」
「そうか? 俺は食えるときに食いたいけどなぁ」
「どういう生活をしてるんです、あなたは!」
 声を高めて言ってから、アケルはくすくすと笑った。笑って見せたのだと、ラウルスにはわかった。うっかりと、だったのだろう。アケルはラウルスの隠された部分に踏み込みそうになった。
「お前に――」
「なんですか!」
「こんなにお前に惚れると、思わなかったな、と思ってな」
 あまりにも普通の声だった。照れるなり誤魔化すなりしてくれれば、対応のしようもあったのに。あとになってアケルはそう思って一人で笑った。が、いまはただ彼の顔を見つめるだけだった。
「お前の手を離したくないよ、俺は」
 それはまるでいつか別れることが前提になっているかの言葉。アケルは愕然と繋ぎあった互いの手を見る。
 いまは確かに繋がれている手。これほど確かなものはどこにもないのに。一瞬、ラウルスの手が離れそうになった。
「……僕から離れようなんて、そんなことさせませんから」
 ぎゅっと握ってラウルスの手を掴む。足を止めて、あたかも睨みあうかのよう見つめあう。
「もしかして」
「なんですか」
「捕まったのは、俺なのか?」
 嘘のよう、ラウルスの憂いがなくなっていた。ないのではない、とアケルは思う。間違いなく隠して押し込めただけ。はじめてラウルスの笑顔に痛みを感じた。
「当たり前じゃないですか! 僕を捕まえただなんて、そんなこと思ってたんですか? 信じられないな。僕があなたを捕まえたんです。だから、ラウルス」
 今度はアケルがラウルスの手を引いた。それからもどかしくなったよう、手を離す。わずかにラウルスが怯んだ瞬間を狙ってアケルは彼の腕に自分の腕を絡めた。
「僕のあなたです。勝手に別れるなんて、許しませんからね」
 腕を組んで歩いている。天下の往来を、それも都の城下町の繁華の中を。くらくらとアケルは眩暈を覚えそうになる。羞恥であるはずだった。けれどそれは喜びだった。
「お前が俺を好いてくれてる限り、俺はお前のものでいたいと思ってるんだがなぁ」
 応えとしては熱のない言葉だと、ラウルスは思った。そうとしか言いようのなかった自分を嗤い、アケルを窺う。腕にすがりついて歩くアケルは幸福そうに笑っていた。
 アケルがふ、と顔を上げた。照れているのだろう頬の上気した有様に思わず目を奪われそうになってラウルスは足を止めかける。
「行きたいところ、ありました。案内、してくれますよね、ラウルス?」
 腕を引き、アケルは笑った。弾むようなその声にラウルスは彼の目に留まらないほど短い時間だけ、唇を噛む。それから笑って従った。




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