会えないと言われてもアケルはその日も花園を訪れた。彼がくると期待していたわけではない。ただなんとなく、ラウルスを思うよすがに。 そう思った自分を笑い、ラウルスもそれを知っていたのだと思う。会いにはこなかった。確かに。けれどいつものよう置き土産があった。 ラウルスが用意してくれた軽食を食み、手慰みのようリュートを爪弾く。本当はもっと腰を据えて練習するべきだとわかってはいた。それでもやる気になれないものは致し方ない。 花園に咲き乱れる花々も、姿を変えた気がする。今まで見なかった白い花が咲き、甘い香りを放っていた黄色い花は実をつけた。ほんの少ししか時間が経っていない気がするのに、それでも時は流れている。小さくアケルは笑い、そして表情を引き締める。 気になっていることはある。自分にできることではなかったし、なにができるはずもない。ラウルスが言っていた海を飲んでいると言う何か。 賢者団も解明に努めているのだろう。探花荘でも押し殺した熱気を感じる。自分ひとり、浮かれている。 「いまだけ、なのかな」 呟いてみてぎょっとした。自分でもわからない真実を言い当てている、そんな気がした。アケルは強いてその思いを振り払い、立ち上がる。振り返った花園は、空疎な風が吹いていた。 「あなたがいないからだ」 違う気もする。手元で鳴ったリュートは、違うと言った。世界の悲鳴が聞こえたけれど、アケルは耳を閉ざす。今だけ。今だけだから。心に、あるいはリュートに呟いて。 翌日、ラウルスを待つアケルには昨日の思いを窺わせるものはどこにもなかった。微笑んで咲き乱れる花を眺めている。 「粗忽なんだな、あの人は」 ラウルスはどこで待つ、とは言わなかった。遊びに行くと約束はしてくれたけれど、待ち合わせの場所すら決めなかった男を思う。 「それとも――」 今日もこられないのだろうか。だめならばどんな形でも連絡だけは寄越す気がする。ラウルスの使いが探花荘に言い訳をしにくることを考えると、それだけでおかしな気分になってくる。 「なんて言うんだろうね」 話しかけ、今日は手元にリュートがないことを思い出して舌打ちをする。好きで弾くことにしたわけではないリュートだったのに、こうなってみれば身近にないのが心細くもある。 「なにがだ?」 突如として声が聞こえ、アケルは驚いて振り返る。いつもならば聞こえるはずの足音が聞こえなかった。 「急に! 驚くじゃないですか」 「ぼんやりしてるお前が悪い」 にっと笑ってラウルスは、けれど腰をおろさず手を伸ばす。なにを考える間もなくアケルもその手をとり立ち上がり、それから訝しげな顔をした。 「どこか、行くんですか?」 言った途端、ラウルスが情けなさそうな顔をするに至って、アケルはすまなく思う。期待をしたくなかった。 忙しいと言うラウルス。なにをしているかは知らない。それでも彼の言葉を信じたい。だから自分など、後でもいい。約束を反故にされるのはつらい。だから、期待しない。 「約束、しただろ? 俺は約束は破らんよ。特にお前との約束なら」 アケルの心の内の声が聞こえたかのようなラウルスの言葉だった。ゆっくりと片手で抱き寄せられれば、ラウルスの体から埃っぽい匂いがした。 「忙しいんでしょう?」 だから、かまわない。言葉ではそう言い、体は裏腹に彼の背を抱く。 「だからなんだ? お前、俺に息抜きもさせない気か?」 からかうようラウルスは言い、アケルの額にくちづけた。見上げてくる青い目をラウルスは真正面から見つめる。 「約束、しただろ?」 行こうとばかり腕を離して手を繋ぐ。アケルは小さく身震いをする。妙な寒さを感じた。ラウルスの腕に包まれていないせいだ。思ってアケルは赤面する。 「……僕は、どうしたんでしょう」 「なにがだ?」 「寂しいんです。とても」 「おい……」 何かを言いかけ、けれどラウルスは言葉を止めた。訝しげに見上げたアケルは微笑む彼を見た。口許をわずかに皮肉げに歪めているけれど、蔑みの顔ではない。 言葉を止めたまま歩き出したラウルスの手に引かれるよう、アケルもまた歩き出す。どこへとも聞かなかった。ラウルスが行くところならばどこでもいい、アケルの心のどこかが言ってそれに激情を覚えた。 「なにを言いたいんですか、ラウルス!」 かっとして繋いだ手を振りほどく。すぐにラウルスが取ってくれるとわかっていてしたことだった。案の定、アケルの手は再びラウルスのそれに包まれる。 「意外と可愛いこと言うなぁと思ってな」 「ラウルス」 「なんだよ」 「意外とはどういう意味ですか、意外とは!」 「だから可愛いなって褒めてるんじゃないか。なんで怒鳴るんだよ!」 「怒鳴らせてるのは誰なんですか!」 言い募りながらアケルは笑っていた。先ほど感じた奇妙なほどの寂寥感が薄れている。手を包む男の熱を感じていた。 「あなた相手に、こんな思いをするとは思ってもみませんでしたよ!」 「ふうん? どんな思いかとっくり聞かせて欲しいものだな、アケル?」 言えばアケルの頬がその髪に劣らず赤くなる。いつの間にか花園を出ていた。それにアケルは気づいているのかどうか。 それを思えばおかしくてならないラウルスだった。アケルから寄せられる真摯な思い。まっすぐすぎて、心が痛むほど。 ちらりと横目で彼を窺い、ラウルスは小さな罪悪感を押し殺す。今だけ。今だけだから。誰に対しての言い訳かも、わからないまま心に呟いた。 「それで、ラウルス!」 「だから一々怒鳴るな。耳は悪くない。聞こえる。こんなに近くにいるんだぞ?」 わざとらしく体を寄せてきたラウルスを冷たくアケルは一瞥し、それを裏切って口許が笑みを刻んだのを感じる。 「ラウルス。僕の倫理観は都の人たちのような奔放さを持ち合わせていません」 「なにが言いたい?」 「人前でいちゃいちゃする気はないって言ってるんです!」 憤然と言ってラウルスを突き放す。それでも手は離さなかった。ラウルスの目がちらりと繋いだ手に落ちたのを見てしまってアケルはわずかに後悔する。もう、離せない。離したいと思っていなかった自分をも思う。 「……手ぐらいなら、いいです」 吐き出すように呟いてしまって後悔した。その響きを彼がどう感じるかと。上目遣いに男を見れば、ラウルスは微笑ましげな顔をしてアケルを見ていた。 「自分でも意外なんだがな」 言いながらラウルスは手を強く握る。もしもアケルが吟遊詩人であったならば痛みを感じたことだろう。武器を取ることに慣れた手は頼もしさを感じただけだった。 「お前に怒鳴られるの、嫌いじゃないんだよな。俺も実に趣味が悪い」 「どういう――」 「意味も何もないだろ。そのままだ。アケルが可愛いなぁと言ってる」 「趣味が悪すぎます!」 「それもいま言った」 アケルの反論を奪っておいてラウルスはからりと笑った。天まで届けとばかりに笑う声にアケルの強張った心がほぐれていく。 「僕も同様です」 「うん?」 「あなたなんかのどこがいいんだろう? いい加減だし、わけがわからないし、自分で自分の趣味を疑います」 「だったらお互い様だな」 にっと笑ったラウルスに手を引かれた。それで、どうでもいいような気がしてしまったからアケルは不思議だ。 「さぁ、アケル。なにが見たい?」 言われてアケルはきょとんとした。一瞬とは言え、ラウルスがなにを言っているのかがわからない。慌てて辺りを見回してまた驚いた。 「いつの間に!」 王城の門をくぐり、街へと出ていた。門など、いくつも超えたはずなのに少しも覚えていない。門番や衛兵と交わした言葉もあったはず。 「お前はお喋りに夢中だったからな。違うか、夢中だったのは――」 「あなたにじゃないですから」 ぴしりと言えばラウルスが笑う。それが無性に楽しかった。溺れている。そんな自分を感じるのも悪くない。いまだけは。 「それで。なにが見たい?」 言いながらもラウルスは歩き続けていた。当て所なく歩くことこそ、アケルの望みだと知っているかのように。 「なんとなく……」 繋いだ手に力が入ってラウルスはアケルの緊張を感じる。わずかにうつむいた顔に仄かな幽愁。束ねた赤毛に風が吹きつけ、アケルの表情を隠した。 「ただ歩いていたいか?」 「……ずっと、このまま。どこまでも一緒に行かれたら。そんな馬鹿なことを考えました」 「いいな、それは」 わざとらしい明るさで言えばアケルの顔が跳ね上がる。真面目に取られなかった、そう解釈したのだろう。 けれどアケルは息を飲む。見上げたラウルスの目はいつになく真剣だった。叶えたいけれど、自分にはどうにもできない望みならば。笑うしかない。ラウルスの目の中にそれだけを見て取ったアケルもまた微笑んだ。 「都の賑わいは大変なものなんでしょう? その中に入ってみたいな」 「なんだよ、通ってきてるんだろ?」 「賢者様たちと大急ぎで通り過ぎただけですから。ちらっと見て、行ってみたいなと、思ってたんです」 「馬鹿だなぁ。それ言えば賢者たちだって遊びに出してくれただろうに」 「……一人で行ってなにが楽しいんですか!」 小声で罵って、けれどラウルスには聞かれた。聞かせるつもりはなかったアケルは赤面し、うつむく。その顎先にラウルスの指がかかり、ついで軽いくちづけを唇に感じた。 「なにするんですか!」 慌てて飛びのき、辺りを見回す。幸い人目はなかったことにほっとした。息をつきながら、アケルは自分の望んだことを感じていた。ラウルスがそれと悟ってくれたことも、また。アケルの目許が和らいで笑みになった。 |