アウデンティース王は執務室に足を踏み入れた途端に知らず怯んだ。思わずそのまま回れ右をして出て行きたくなってしまう。 「どちらに行っておいででしたの、お父様?」 娘のティリアが机の横に置いた小さな椅子に腰を下ろして微笑んでいた。掌で茶のカップを包んでいるところを見ればここにきてさほど時間は経っていないのだろう。 「なんのことかな? 今日はずいぶんと早い」 いつも彼女は昼前には必ず執務室を訪れる。書類に埋まりがちな父を案じてのことだった。 「お父様」 ティリアの視線が険しくなる。ついで花咲くよう彼女は笑った。 「ティリアには本当のことを言ってくださらない? 大変でしたのよ」 「なにがだ?」 「お父様、昨夜はどちらにお出かけでしたの」 一瞬、王は言葉に詰まった。それを悟らせないよう娘に微笑んで見せる。ついで肩をすくめた。 「常日頃、息抜きをせよと言うのは誰だったかな? とは言え、探花荘に出向いていただけだが」 「それではお仕事ですわ。息抜きとは申しません」 「出向いたが、賢者には会わなかったよ」 もう一度肩をすくめ、アウデンティースはティリアから手渡された茶を軽く掲げて見せる。時折、この茶を自分が好んでいないことを娘は知っているのではないか、と思わなくもない。まるで嫌がらせのよう、茶の香りはいつもより強かった。 「どうしてですの?」 「窓から明かりが見えていてな。夜遅くまで活発に議論している賢者を煩わすものではないかと思い直してね」 本当か、と言わんばかりの目で自分を見つめてくる娘の目に気づかないアウデンティースではなかった。それでも黙って肩をすくめるしかない。 「それにしては……」 「遅かったと? ティリア、気づいたかね。昨日はずいぶんと月が美しかった。夜の散歩をしてきたよ。ほら、息抜きだろう?」 にっこりと笑う父にティリアは騙されなかった。もっとも、ここまで来ては父が口を割らないことも娘としてわかっている。彼女は追及を諦めて肩をすくめた。よく似た仕種にアウデンティースは血の濃さを感じて微笑む。 「それはそうと、ティリア」 「なんですの」 「なぜ私が不在だったことをお前が知っている?」 もし公になっていたなら、王宮はもっと騒がしかったはずだ。そもそもアウデンティースが夜明けごろ帰還したとき、まだ誰も王の不在には気づいていなかったものを。 「相談がありましたの」 「それで?」 「お父様のところに行ったらおいでにならなかったんですもの。本当に、驚いたわ。侍従たちにも悟られないようどれだけわたくしが心を砕いたか、おわかりになりまして?」 皮肉げに言い、ティリアはわざとらしく溜息までついてみせる。いささか教育を間違えたか、とアウデンティースが思う瞬間だった。 「ティリア」 「はい?」 「娘とは言え立派な淑女が、父とは言え男の寝室を夜になって訪れるものではないぞ」 「言い訳ですわね」 父の苦言を一蹴し、ティリアは笑う。その目が悪戯っぽく輝いていた。 「それで?」 長い溜息をついて見せ、アウデンティースは執務机につく。そろそろ執務を開始せねばならない。それがわからないティリアでもない。 「このごろお父様はずいぶん顔色もよくおなりになったよう。どなたかしら、と思って」 「ティリア」 「いつか、会わせてくださるんでしょう、お父様?」 父の不在はつまり、そういうことだと娘はきらきらとした目をして問い詰める。これが例えば庶民のように父親に新しい女ができたことを責めているのならばまだ救いはある、とアウデンティースは内心で溜息をつく。 「それがお前の相談ごとかね?」 「もちろんですわ。お父様に大切な方ができたなら、ぜひとも会わせていただきたくって」 「そんなことで夜中に私の寝室を訪れたと?」 「いけませんかしら。なんと言ってもわたくしはお父様の娘ですもの。いかがわしいことなどありませんわ」 にっこりと笑うこの心臓の強さはいったい両親のどちらに似たのだろう、とアウデンティースは思う。少なくとも自分ではない。そして亡くなった妻とは姿形こそ生き写しだが、彼女の穏やかさも慎ましさも受け継いでいないように思える。 「もう一つ、ティリア」 「なんでしょう?」 「朝から執務室にいる理由は?」 「いましかお話しする機会がないかと思いましたの。お父様は忙しくてらっしゃるから」 言葉の裏に皮肉を滲ませティリアは言う。そこに不安を感じ取れないほどアウデンティースは鈍い王でも父でもなかった。 「お前が案じてくれるのはよくわかっているよ、ティリア」 「でしたら会わせてくださいますわね?」 「それとこれとは話が別だ」 「いいえ、一緒ですわ」 「だめだ」 「お父様!」 「声を荒らげるものではないよ、姫君」 軽やかに言われた分、父にはぐらかされたのを感じてティリアは唇を噛む。その仕種にも目を留められ、咎められたのを見取ってはゆっくりと力を抜く。それでいい、と王がうなずいた。 「わかっているだろう、ティリア。もしも誰はばかる人でないならば、すでに正式に宮廷に披露目をしている」 瞬時にその意味がわかった。相手は王族ではなく、おそらく貴族に連なるものでもない。 「お父様」 問いかけて、ティリアは唇を噛む。今度は咎められても中々緩められなかった。 「お聞きしてもいい?」 「答えられることならば」 「……先に逝ってしまう方を、どうしてお選びになったの?」 「それをお前が問うかな、ティリア?」 彼女が愛した者もまた王家に属するものではない。メレザンドは爵位を有するとはいえ、王族の長命を持ち合わせてはいない。 「わたくしは……」 「言葉になどせずともいい。お前にはわかっているはずだ。そうだろう、愛しい娘」 「――はい」 こくりとうなずいたわずかの間、ティリアに王は幼さを見た。片手で抱えられるほど小さかった娘がいまこうして対等に言葉を戦わせるほど成長している。それをアウデンティースは喜ぶ。王として、また父として。 「お父様――」 ティリアが何を続けるつもりであったにしろ、会話はそこで途切れた。控えめに衛士がメレザンドの到来を告げる。 「さて、仕事の開始のようだな」 肩をすくめてティリアを見やれば困った方、と言わんばかりの顔をされた。それほど好きでしているわけではないのだが、どうやら娘には無類の仕事好きに見えているらしい。 「ご歓談中、ご無礼をいたします」 ティリアに目を留め、メレザンドが一礼した。これほど早い時間にいるのを意外に思っているのだろう。異変が起きたか、と全身で警戒していた。 「他愛ない話だ。気にしなくともいい。たまには朝から息抜きをせよ、と勧めに来たらしい」 「ご休憩は是非ともしていただきたいところではありますが……」 「とはいえ朝からでは休憩とは言わん。それで、メレザンド?」 雑談はここまでだとのアウデンティースのはっきりとした意思を感じメレザンドは姿勢を正す。手元の書類に視線を落とした。 「まず、海の異変ですが。このところ以前に比べて落ち着いております。ここ一月と言うものまったく侵略が見られないとの報告です」 「それはこちらにもまわってきている」 「そこで陛下、ご提案申し上げたいことがあります」 メレザンドの真摯な姿勢を後押しするよう、いまだ退室していないティリアが微笑む。二人の間ではすでに話がついているのではないかとアウデンティースは疑った。 「異変が終結したとの見方は尚早かとは存じます。ですが、ここでいま少し陛下にはお休みいただきたく」 「メレザンド」 「は――」 「心遣いはありがたく思う」 一度、言葉を切ってアウデンティースは机の上の書類をいじる。それをどう感じたかティリアが険しい目をした。 「メレザンド、それにティリア。異変がこのままで済むと思うかね?」 二人は目を見交わし、力なく首を振る。言われなくともわかっていた。これはおそらく今後訪れるかもしれない大異変の前触れなのではないかと。 「これをご覧」 アウデンティースはいじっていた書類を二人の前に押しやった。彼らの表情がはっと引き締まる。 「確かに海を飲み込んでいる何かは、現時点では止まっているらしい。少なくとも、目に見える部分では。だが――?」 「陛下……これは……!」 メレザンドの端正な顔から血の気が失せていた。ティリアもまた愛する人そっくりに青ざめている。 「目に見える部分では、止まっている。確かに。だが魚は? この報告では、魚に牙が生え、人が食われたと言う。こちらをご覧。こちらでは巨大化したとしか言いようがないほど育った魚に船が襲われたらしい」 くらりと二人は眩暈を感じたかのよう互いの手を求めた。王の御前と言うことも忘れているらしい。それでいい、とアウデンティースは思う。自分もまた、支えてくれる手があるならばすがりたい。取ってもいい手ならば、すぐにでも取りたい。取れるものならば。内心の溜息など聞こえなかったよう、二人は青ざめ震えていた。 「お父様……」 「私は休めない。わかるだろう、二人とも?」 「でも」 「ティリア。私はこの国の王として立っている。ならば私がすべきことはなんだ?」 「国民のために。わかっています、お父様。わかってはいるのです。それでも」 「わかっているならば、もう言うことはないね?」 この話も、そしてメレザンドが訪れるより先の話もここで終わりだ。アウデンティースの強い意思に押されたようティリアはうなずかざるを得ない。 「それでもお父様。時折は息抜きをしてくださいませね」 わかっている、そうアウデンティースは微笑んでうなずいた。 |