開け放しの窓から、夜明けの曙光が差し込む寸前。東の空が鈍い銀色を帯びはじめたころラウルスは目覚めた。
 傍らに、と言うよりは自分の体にしがみついたまま眠るアケルがいる。迷子の子供のようで、普段の険のある彼の口調を思えば微笑ましい。
「ラウルス……?」
 そっと抜け出そうとしたけれど気づかれてしまってラウルスは苦笑する。
「まだ眠ってていい」
 昨夜、迎えてくれたときにはまだきっちりと結んであったアケルの長い髪は、いつの間にか紐がほどけてしまっていた。
「どう言う……」
 まだ目覚めていないのだろう。ぼんやりとした口調だった。ほどけた髪をラウルスは撫で、あらわになった肩にシーツを引っ張り上げる。
「まだ早いから寝てろ」
「……ラウルス?」
「俺は戻るから」
 言った途端だった。アケルが跳ね上がるよう体を起こしラウルスに掴みかかったのは。呆気にとられて咄嗟にかわしきれなかった。よろけたラウルスはなんとか体をひねり寝台にアケル共々倒れ込む。
「おい、アケル」
 大きな音がしたのではないだろうか。それでなくとも夜明け前の物音は響く。そろそろと扉の向こうの気配を窺うラウルスに、アケルは厳しい視線をくれた。
「どうして――!」
 それでも多少は音に気をつけることは覚えているらしい。押し殺した怒りの声がいっそうアケルの強い感情を伝えてきた。
「あのな、アケル」
「なんですか!」
「よーく考えろって」
 言いながら軽く唇をついばむ。そんなものには騙されないとばかりアケルに睨まれてラウルスは笑った。
「あのな、俺は昨日どっから入った?」
「それは」
「窓から忍び込んだだろうが」
「あなたが開けておけって!」
「言った言った。そこでよく考えろよ? 俺は玄関通ってないんだぞ? その俺が堂々と真正面から朝帰りか?」
 茶化した口調にアケルがうっと言葉を飲んだ。それにラウルスは忍び笑いを漏らし、もう一度くちづける。
「夜這いにきたなら夜明け前にそおっと帰るのが礼儀ってものだろう?」
「そんな礼儀、聞いたことありませんね!」
「実は俺もない」
 互いに顔を見合わせくすりと笑った。それをアケルの了承と取り、ラウルスはゆっくりと服を身につけていく。
「ラウルス」
「うん?」
 照れくさくて背を向けていたラウルスは彼の声に振り返る。アケルはラウルスを賛美するよう見つめていた。
「あなたの武器は何か、聞いてもいいですか?」
「武器?」
「使うでしょう?」
 使わないとは言わせない、その体で。アケルの青い目がラウルスを射抜くよう見つめていた。
「それとも――」
 一瞬口ごもり、アケルはそんな自分を厭うたのか唇を噛む。身づくろいを済ませたラウルスはその唇に指を這わせた。
「切れるぞ」
 噛みしめた唇は血の色を透かせて赤い。丁寧にくちづければ、アケルがほっと息をつく。
「言いたくないですか、ラウルス?」
 何者なのか、素性はまだ言いたくない。ラウルスはそう言った。だからアケルは聞かない。どうでもいい、そう思ってもいた。ラウルスはラウルスで、ここにいる。だからなにを武器とするのかは単なる興味以上のものではない。ラウルスが言いたくないのならば、それでもいい。それだけのことを言葉では巧く伝えきれる自信がなくてアケルはじっと男を見つめる。そのほうが、わかってもらえる気がした。
「別にかまわんよ」
 ラウルスが小さく笑う。表情よりも、口許よりも、目の色が。猛禽のように鋭い男の目が柔らかな眼差しになった。
「槍も弓も使うけどなぁ。まあ、ほとんど剣だな」
「やっぱり」
「見てわかるか?」
「武器を取る人間はかなり見てますから」
 さらりと言った口調が恐ろしい。禁断の山の狩人が今までに見た武器を取る人間、と言うことはつまりそういうことだろう。にやりと笑ってアケルはラウルスの想像を無言で肯定した。
 その笑みの中、そんな自分をどう思うのかとアケルは言外に問う。ラウルスはくちづけを答えに代えた。
「腕のほうも見ればそれなりに」
「そうか?」
「えぇ。あなたには……」
 言葉を切って寝台の中でアケルは身をよじる。今更まだ裸の自分に気づいたのだろう。首までシーツを引き上げた。
「あなたには、勝てる気がしない」
 ぼそりと言って悔しそうに唇を尖らせる。その頭にラウルスは手を置き、大きく笑いたいのを必死でこらえた。
「笑わなくっても!」
「悪い」
「許しません」
「おい……」
「あなたがお詫びをしてくれるって言うなら考えてあげてもいいですよ」
 にっと笑ってアケルは上目遣いにラウルスを見上げた。そんな表情をすると年齢よりずっと幼く見えるのに、奇妙なほど艶やかだった。
「お詫びの印になにをご所望かな?」
 馬鹿丁寧に言えば睨まれた。それがまた気分を高揚させる。ラウルスはアケルの望みならばなんでも叶えたい、そう思う自分に気づく。なんでもできるはずなのに、何一つ自由にならない自分と共に。
「……です」
「悪い。聞こえなかった」
 冗談でも意地悪で言ったのでもなかった。本当に聞こえなかったのにアケルはそうはとらなかったらしい。頭までシーツをかぶってそれから目だけを出して睨んできた。
「悪いって」
 シーツを引き剥がせば、照れているのだろうか。肌が淡く染まっている。思わず触れたくなりそうで、慌てて肩まで戻した。
「ラウルス?」
 不意に不安そうな顔をした。ラウルスは思う。都の同年代の青年よりアケルはずっと無垢だと。一挙手一投足に怯え、喜び。そんな彼をできればずっといつまでも見ていたかった。
「帰れなくなっちまうって」
 悪戯っけもたっぷりに耳許で囁けば小さな悲鳴が上がった。甘いそれにラウルスは満足したふりをして体を起こす。
「それで、アケル?」
 話の続きだ、と言わんばかりに冷静な顔を作って見せた。それでも指先は彼のほどけた髪を弄ぶ。
「あなたって人は!」
 小声で罵って、けれどアケルは笑っていた。少し、変わった気がした。昨日のことがアケルになにをもたらしたのか、ラウルスにはわからない。
 気軽な遊びでなかったことだけは、確かだ。アケルは妙に悩むより、ラウルスを今ここで手にしている実感を楽しんでいるらしい。それがラウルスには仄かな痛みをもたらした。
「……遊びに、行きたいなって」
 ぽつりと言ってアケルは顔をそむけた。嫌がっているのでないことは火を見るより明らか。ラウルスは微笑んで彼の髪に手を滑らせる。
「どこ行きたい?」
「街に」
 即答に、思わず笑い出しそうになって睨まれる寸前、ラウルスは神妙な顔を作る。それからもっともらしくうなずいて言った。
「仰せのままに」
 胸に手をあて、宮廷風に頭まで下げて見せるラウルスをアケルはもう一度睨んでちょうど目の前にあった頭を平手で叩いた。
「痛いだろうが」
「あなたが茶化すからです」
「悪いのは俺か?」
「もちろん。昨日のご飯がまずかったのも、今日の天気が悪いのも、全部あなたのせいです」
 しゃあしゃあと言うアケルにラウルスは呆れて見せる。ちらりと窓の外を見やって笑った。
「今日はいい天気みたいだぞ?」
「嘘!」
「ほんとだって」
 見てみろと言うよう、ラウルスは体をずらす。そろそろ本格的に夜が明けそうだ。西の空にはまだ星が瞬いていた。
 アケルは飛び起きて窓を眺めて呆然とした。間違いなく雨だと信じていたのに、彼の顔にはありありとそう書いてあった。
「絶対雨だと思ったのに!」
「お前の勘も外れるみたいだな。じゃあ、明日な」
「え?」
「遊び行くのが、だ。ごめんな」
「なにがですか」
 もう言われる前に次の言葉がわかっているのだろう。アケルは軽く唇を引き結ぶ。
「今日はちょっと会えそうにない」
「いま会ってるじゃないですか」
「あとでって意味だ」
 わかっているだろう、と目顔で言ってラウルスはすまなそうに眉を下げた。それにアケルは表情を緩める。
 本当は、言いたいことがわかっていた。彼が何者かなど、どうでもいいし知ろうとも思わない。ただ、忙しいのは本当だろう。
 その多忙な男が、自分のために時間を割いてくれた。もしかしたら昨夜は仕事が片付かないうちにどこからか抜け出してきたのかもしれない。
 そう思ったところでアケルは否定した。ラウルスは言った。責任感の強いアケルが好きだと。だから自分の仕事に対しても彼は忠実だろう。
「仕事を優先するのは、当然じゃないですか」
「アケル」
「あなたは言いましたよね。僕がちゃんとしてるから興味を持ったって。だから、同じことです。僕はあなたはいい加減な人だと思うけど、でも仕事はきちんとする人だと思います。そうじゃなきゃ、尊敬できない」
 一息に言ってどうだ、とアケルはラウルスを睨む。睨んでいるくせ、切実な目をしていた。ラウルスは微笑んでアケルの髪をかきあげる。
「尊敬してもらえるほど立派な人間じゃないさ」
 まるで言い捨てるようだった、と後になってアケルは思った。自分でも見たくない醜い部分を直視するのを恐れるようでもあったと。
 ラウルスはそのままでいいと手振りで示し、昨夜と同じに窓から抜け出す。樹の上でちらりと振り返り、アケルの体を彩る燃える赤毛に目を留め、目だけで笑う。そして姿が見えなくなった。




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